礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

ここの調査は君一人でやってくれないか(平山輝男)

2023-12-04 00:08:26 | コラムと名言

◎ここの調査は君一人でやってくれないか(平山輝男)

 大島一郎さんによる「追悼 平山輝男先生」という追悼文を紹介している。本日は、その二回目(最後)で、「「平山ゼミ」と現地調査思い出の一端」の節を紹介する(ただし、途中まで)。

「平山ゼミ」と現地調査思い出の一端
 東京都立大学における平山ゼミ「国語学演習」は院生も学部生も共に参加が認められ、教員・助手も一体になって調査研究を行なったものです。生き生きとした先生の姿勢に接していると研究意欲がわき、アッという間に過ぎてしまいます。院生からは、何とかならないか、という強い要望もあって、そのころ八王子郊外に新設された「大学セミナーハウス」に早速利用を申し込んだわけです。その後先生のご定年まで毎年続きましたが、希望するOB・OGの参加も得て、2泊3日の計画で、朝から夜まで、3回の食事休憩を挟んで、かなり激しい討議・討論を続けた思い出は、今でも強烈な印象として忘れられません。ある時は、結論がまとまらないので、セミナーハウスを出てから、大学の演習室に直行してさらに討論を続け、何とかまとめた、という思い出も、今にしては平山先生の凛としたお姿と共に、懐かしく印象深く残っています 。
 またそれより前、昭和30年代のはじめ頃のことです。東京都文化課の依頼で伊豆諸島の総合調査が3カ年にわたって実施されることになりました。そのうち言語班として平山先生に依頼があり、先生は私の同行を命じられました。ほかに、院生として2名を加えられ、前川秀雄・善理(旧姓:加藤)信昭・馬瀬良雄の諸君が交代で参加する事になりました。1年目は三宅島・御蔵島、2年目は大島・利島・神津島・新島・式根島、3年目は八丈島・小島〔八丈小島〕・青ヶ島でした。3年目の夏、竹芝桟橋を、当時500トンの貨客船(廃船になる寸前の船かと思われるような)黒潮丸に乗って、私にとっては初めての八丈島に出発しました。黒潮を越えるときは、ギギギーッと、今にも船が解体するのでは、と思われる船のきしむ不気味な音と、船酔い気味とが相乗して、何ともいえない不安な気分で一睡もできませんでした。八丈島には艀〈ハシケ〉に乗り換えて港に着きました(当時の伊豆諸島は、大島以外は、みな艀に乗り換えて島にあがるのです)。
 八丈島の調査の途中で、小島と青ヶ島に分かれて調査することになり、言語班は小島には善理さんと馬瀬さん、青ヶ島には先生と私ということになりました。青ヶ島には黒潮丸が特別に八丈島から延航して行くことになり、やがて青ヶ島が見えてきました。そばに近づくと約100メートルの断崖絶壁に囲まれたような島で、集落のある島の上部は雲がかかって隠れています。港らしきところは見えないので、いったいどこから艀が出てくるのか、と見ていると、崖が崩れて海にせり出し、狭い浜のように見えるあたりに、人々が大勢現れているのが見えました。海に入った若者が波間で何かやっていたようですが、いつの間にか近づいてきた舟を見ると、まるで丸木舟のような小さな艀です。こわごわそれに乗り移り、ゆらゆらとこぎ出して島に近づくと、私どもは大きなシートをかぶせられ、なにも見えなくなりました。と同時に舟底がギリギリッと音がして舟は綱で引きずりあげられたように感じましたが、そのときザアーッと何度も波飛沫〈ナミシブキ〉を浴びたわけです。シートのおかげで多くの飛沫〈シブキ〉はさけられましたが、それでも隙間からの飛沫でだいぶ濡れました。このとき、しっかり風呂敷に包んで大事に抱えていた「デンスケ」と称する手巻きのテープレコーダーにも、飛沫がかかったと見えて、重い思いをして持っていったのに、結局は故障して使えませんでした。
 さて、ようやく艀から降りて、気がついてみるとそこは玉石がいっぱい敷き詰められている浜辺なのです。
 ほっとしつつ玉石に腰を下ろし気持を静め、「いよいよ、東京の最南端に来た。この島の言語はどんなか、まだ研究者の調査のない島で、先生と私が最初の研究者となる。先生と一緒でよかった。」などと思いに耽っていた時です。先生から思いもかけない言葉が発せられ、我が耳を疑いました。
 「大島君、実は私は、三日後に大学で会議があって、この会議に出なければならないのだ。ここで調査をしていると帰りは一週間後になってしまう、今、この黒潮丸で帰れば間に合うので、ここの調査は君一人でやってくれないか。」と仰ったのです。
 私は一瞬、なんとお答えしてよいかわかりませんでした。確かに、まだ次の艀作業が行われ、黒潮丸は目の前の海でしばらく荷揚げをやっており、出発までは少し時間がありましたから、今なら帰ることは可能です。
 さて、急にそう仰られても、先生に代わって一人で調査を任されるのには、いささか荷が重すぎます。しかも一人でやれというのですから、更に心細く感じてしまいました 。先生と一緒だからここまで来たのに、今になって!という思いが複雑に頭に浮かび、一瞬答えに窮してしまいました。それにしてもここまで来て、先生はちょっと勝手ではないか、いくら何でも勝手すぎる、という思いも浮かび、ちょっと先生に反抗したくなりました。私は少し涙声になりつつ、「先生、それは困ります。会議の方は欠席して私と調査を継続していただきます。お願いいたします。」と意を決して申してしまいました。
 先生は本当に帰られるつもりだったのか、或は私を一人にして、経験を積ませることにあったのか、今になっては知る由もありませんが、先生は私の拒否によって、結局帰ることをあきらめ、会議欠席の電報を打って、私とともに調査を続けられました。その時は若気の至りで気づきませんでしたが、今になって思えば、先生を引き留め、ご緒に調査を続けてよかったと思う一面、先生の真意を理解できず、申し訳なかったとの思いが重なります。先生は帰られると間もなく「青ヶ島方言の所属」と題する論文を「國學院雑誌」に発表されました。簡潔ながら青ヶ島方言の特色を余すところなく示され、さすが先生の論文と感服しました。いま、改めてこの論文を読み返すと、あのとき、先生の本当のお気持は那辺にあったのだろうかと、懐かしく思い出されるのです。【以下、略】

 平山輝男が、青ヶ島に上陸したところで、大島一郎に向かって、「ここの調査は君一人でやってくれないか」と言ったのは、大島の実力を認めた上で、そろそろ自立させなくてはなるまいと考えたからであろう。伊豆諸島の総合調査も、すでに三年目にはいっていたのだから、平山がそのように考えていたとしても不思議はない。
 しかし、大島は、師のこの気持を理解できずに、「先生、それは困ります」と反発した。その態度に接した平山は、「何という情けない弟子か」と落胆したに違いない。
 文中、「手巻きのテープレコーダー」とあるのは、戦後、東京通信工業(現・ソニーグループ)が開発したテープレコーダーで、手巻き式スプリング・モーターを内蔵しているタイプのものだったと推定する(「M型」と呼ばれたタイプか)。
 この間、「アクセント」の話が続いたので、明日は、いったん、話を「浜松大空襲」に振る。なお、年内は、アクセントの話と浜松大空襲の話を、交替させながら続けてゆくことになろう。

*このブログの人気記事 2023・12・4(9位になぜかホンダN360、10位になぜか大正震災かるた)

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