◎大正12年9月4日、陸軍被服廠跡の惨状を目撃する
昨日の続きである。調布市の竹内武雄さんが書いた『郷土の七十年』(啓明出版、一九七九)から、「大震災と災害」という文章の後半を紹介する。
一九二三年(大正一二)九月三日、および四日における東京市内の状況が、非常に詳しく語られている。
暴徒が各戸の井戸へ毒を投げ入れるから気をつけろとか、烏山〈カラスヤマ〉方面で多数の暴徒が捕えられたとか、夜になると益々騒ぎは大きくなり、横浜方面から多数の暴徒が稲田村方面へ迫って来ている、調布方面へも押しよせるから気をつけろ、多摩川を渡ったら半鐘を打つから用心しろと鉢巻姿の若者が大声で怒鳴りながら走り去る。そのうち半鐘が乱打される。それッと言うので殺気立ち、女や子供は裏の竹やぶや木の蔭へ逃して静かにしているよう言いきかせ、男は棍棒や竹槍を持って警戒に当たる。こんなでたらめが何処から出たか誰も知らない。流言蜚語〈リュウゲンヒゴ〉と言うのか人間うろたえると常識では考えられない混乱にまき込まれる。翌日、九月三日は早朝からにぎりめしを持って自転車で出かけた。
九段坂上から眺めた下町一帯は焼野原で、土蔵やコンクリートの建物が焼けたゞれて点々と残っている。九段坂を下って俎橋〈マナイタバシ〉を渡り神保町の手前を右へはいって知人宅の焼跡らしいのを漸く見付けたが立退先の立札〈タテフダ〉もなければ近所も焼跡だけで誰もいない。焼跡へは必ず戻ってくるものだと聞いたので暫く佇んで〈タタズンデ〉待ったが誰も姿を見せないので、神保町から須田町まで焼跡を見て歩いた。焼けた裸電線と硝子の細かい破片で道路いっぱいだ。自転車を引いて片側を歩いた。まだ焼跡の熱が残っていてあつかった。須田町交叉点〈コウサテン〉の焼野原の中に軍神広瀬中佐、杉野兵曹長の銅像が立っていた。再び知人の焼跡へ戻ってみたが姿を見せないので帰途についた。何分〈ナニブン〉にも昼間のうちに帰えらないと新宿から調布まで五十数ケ所もある関所を通らなければならないから急いで帰えった。少し寝て夕方から町の警戒に当たった。
翌日九月四日、近くの友人渡辺竜吉さんも焼跡を見たいというので、にぎりめしを持って早朝二人で自転車で出掛けた。九段坂を下りて昨日の焼跡へ行った。今日は奥さんと女中さんに会えた。お住居〈オスマイ〉に困っておられるなら佐須〈サズ〉の家に来て下さるよう親爺が言ってますと伝えたら、二、三日中に是非寄せていたゞきますとのこと、その後主従二人で数ケ月間佐須の家に住んだ。
待たせた渡辺竜さんと二人で自転車で焼跡の須田町から万世橋を通って上野公園へ行った。樹木の多い高台の公園も罹災者の焼トタンの小屋でいっぱい、まっくろい顔した子供がウロウロしている。木蔭でにぎりめしを食べようとしたがひもじそうな子供が見てる前では食べられない。半分づゝでも与えられる程持ってくればと思ったが、仕方なく上野から浅草へ行った。六区の活動写真街はひどいもので焼けたゞれたコンクリートの柱や壁が崩れ落ちいつぞや昇ったことのある凌雲閣と言った十二階の赤レンガも五、六階から折れて一部分ぶらさがり、下のひょうたん池の植木棚も何もメチャメチャで焼け材で池も埋まり足の踏み場もない。このあたりでも死者が出たと思うが片付けたのか死骸はなかった。路ばたですいとんなど売る屋台がもう二、二軒出ていた。尋ね人の立て札や、名前を書いた旗を肩に力なくさがし歩く人々もあわれだ。
浅草観音様は、当時木造だったが御りやくか不思議に焼け残って罹災の人々でいっぱいだった。裏の石に腰をおろしてにぎりめしを食べて浅草から吾妻橋へ出た。驚いたこと橋から水面を見ると焼死体が点々と流れている。引き汐なのか川しもへゆっくりと流れている。どういう訳か皆うつぶせである。何とも言えないいやな死臭がたゞよう。鼻と口を手拭で掩って無言で橋を渡る。本所側の川岸には沢山の死骸が寄っている。目は飛び出し口をとがらしはちきれるようにふくれたまっくろな顔、髪は焼けちゞれて男女の別はわからない。初めのうちは死骸を見ると無惨な姿に目を掩ったが何百何千とも知れない死骸を見ているうちに何とも感じないようになってきた。
今は墨田区、江東区となったが、当時の本所、深川はひどいもので、海の方まで見えるかと思う程瓦礫の焼野原で、コンクリートの建物が焼けたゞれた残骸となってポツリポツリと残っているだけ、市電の線路にトロッコがいくつも焼け残っている、よく見ると電車が焼けて鉄の車台と車輪が残っているのだった。その頃の電車は木造の車体だった。近くに馬の白骨があったが僅かに尻の部分が小さな漬物石位残っているのを見て如何に火勢が強かったか想像できる。隅田川の中ごろをだるま船が五、六隻、乗っている数人のほおかむりした人が流れ漂う死骸をトビ口〈トビグチ〉で引き寄せ船へ引き上げている。
うまや橋を過ぎたあたりの川岸の広場に数知れぬ多くの死骸が折り重なって思はず吐息を呑む。電車通りと隅田川の間の広場が折り重った死骸で埋っている。銃剣の兵隊さんが五、六間おきに警戒しているので中へははいれない。この死体で埋まった広場が五町か六町も続いている。広場の中では死骸を山と積みあげて薪を燃やして焼いている。煙と臭気で夕ぐれのようにかすんでいる。手拭でほおかむりして鼻や口を掩った人が懸命に死体を片付けている。船から上げられる死体もこゝで焼いているらしい、この死骸の山がいくつもいくつも煙っている。
もうこうなると悲惨だの死臭がどうのも何もあったものではない。無神経と言うか放心したと言うか、たゞ黙々と歩いた。折り重なった死骸の中に、焼けたリヤカーの輪や荷車の輪金〈ワガネ〉がいくつも残っているが殆んと死骸ばかりで、半身焼けたゞれたのも多かったが、死んだまゝの姿で着物がはりついて残っているのもあった。
どうして、このように人間ばかり死んだのだろうと不思議に思った。後に聞いた話では、大きなつむじ風が起り、持ち出した荷物へ火が移り、火のつむじ風となってむし焼かれたと言う。あとになってこゝが被服廠跡だと知った。
両国を過ぎ永代橋まで来た。大正七年頃住んだことのある深川佐賀町二の四八の焼跡へ廻ってみたが灰だけで知人にも会えなかった。永代橋も鉄骨だけ残って、車道も歩道も焼け落ちて人の通れるだけの板が鉄骨へ渡してあった。永代橋のような一番長い橋のまん中までどうして焼け落ちたのだろうかと思ったが、後になって隅田川へ跳び込んで助かった人の話しに川の中で頭髪がヂリヂリ焼けるので手で水を掛けながら泳いだと言う。あの巾広い川の水も湯になったと聞いた。
永代橋を渡り茅場町から日本橋の交差点へ出た。このあたりは死骸は一つも見なかった。片付けたのか皇居前広場へ逃れたのかと思う。三越も建物は立っているが中は空洞だ。左折して京橋ら銀座、新橋へと廻ったがコンクリート建築が多いので外見は残っているが内部は空洞だ。
新橋から虎の門を通って赤坂見付へ出たとたん、右手の平河町の方から急坂を凄い速力でおりてきた戒厳令下の軍人満載の軍用トラックをよけきれず、とっさに自転車を捨て、逃げたので怪我はしなかったが自転車の後車輪は踏みつぶされてしまった。同行の渡辺竜さんは危くのがれて怪我もなく自転車も無事だった。近くの自転車屋までかついで行ったがこれはとても今日中には直せないし貸す自転車もないと言うので預けてきた。竜さんは自転車も無事なので先きへ帰えってもらった。何とか帰えらなければと赤坂見付へ出て考えているうち四谷方面へ人を満載したトラックが徐行したので後部へ跳びついたが満員なので引き上げてくれない。走るトラックのふちにつかまっていたが手がちぎれそうでがまんできない。四谷見付の曲り角で徐行した車から跳び下りてしまった。仕方ないので歩き出した。新宿へ来たが電車は出ないので調布まで歩くことにきめた。焼け出されて足を引きづりながら避難する人々を思えばこの位歩くの何でもない。代田橋〈ダイダバシ〉まできたらうす暗くなってきた。さてこれからがたいへんだ。二、三丁も行くと関所があって、その度毎に〈タビゴトニ〉住所、氏名を聞かれ、いろいろと調べられる。仙川〈センガワ〉まで来てホッとした。仙川からは住所、氏名を言っただけでご苦労さんと言われ、スイスイ通れた。地元は有難いものだと思った。帰宅したのは九時を過ぎていたろう。それから町内の警戒に出向いた。随分長い一日だった。
非常に詳しい描写であるが、これを記憶のみによって書いたとすれば、大変な記憶力である。あるいは、当時、書きとめておいた手記などがあったのかもしれない。
なお、竹内武雄さんの『郷土の七十年』(啓明出版、一九七九)は、奥付に「非売品」とあるので、市販はされなかった模様である。また、国会図書館にも蔵本がない。史料としての価値が高いにもかかわらず、注目されることがないのは、残念なことだと思う。
◎広場の中では死骸を山と積みあげて薪を燃やして焼いている
竹内武雄さんの『郷土の七十年』(啓明出版、1979)の82ページに出てくる言葉。ここでいう「広場」とは、本所の陸軍被服廠跡のことである。竹内さんは、浅草から吾妻橋を渡ってたあと、深川佐賀町を目指して南下したため、本所の被服廠跡の惨状を目撃することになったのである。