礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

関東大震災で戒厳令(大谷幸四郎『運用漫談』より)

2013-01-16 08:22:22 | 日記

◎関東大震災で戒厳令(大谷幸四郎『運用漫談』より)

 昨日の続きである。大谷幸四郎『運用漫談』(有終社、一九三四)八一ページ~八三ページより。

 四囲の光景は破滅であり、崩壊である、地獄の相である。長浦湾口の重油庫の火災は、黒煙濛々〈モウモウ〉天に沖し〈チュウシ〉〔天までまっすぐ上がって〕、千米突〈メートル〉余の空中に龍舌の如き火焔を吐いてゐる。裂けたる重油タンクより海を掩うて流れ出でたる〈イデタル〉重油に点火し、海上一面は火の海と成り、夫れ〈ソレ〉が南西より強く吹く二百十日の強風に圧流せられ、沖へ沖へと進んで行く。第三区には修理中の榛名〔巡洋戦艦〕が繋留して居るが、其の運命や如何を気遣はれしも、火の海は榛名を避けて千葉沖に流れ去つた。当時幸にして風が陸方面より吹きたる為め、一応は安心であつたが、風向一変せんか、長浦一帯は忽ちにして焦土と化する恐〈オソレ〉があるので、一寸警戒を緩める事も出来ざりしが、幸に其の事なかりしは又た好運の一であつた。
 横須賀方面は大火災を起し炎々天を焦がしつゝある、東京は如何と見ると一切の通信絶え、天に跨る〈マタガル〉大入道雲が其の大火災を偲ばしむるものがある。東京全滅、大阪大火災抔〈ナド〉の流言蜚語は刻々に飛ぶのみである。当時の光景は到底筆紙の尽くす能はざる処である。読者の想像を俟つ外はない。
学校〔海軍水雷学校〕に著いて見ると非常呼集が命ぜられて居る。鎮守府並に〈ナラビニ〉其の他との電信電話は総て〈スベテ〉破壊されて用を成さず、只だ一の連絡は愛宕山の信号所を経てする手旗〈テバタ〉信号あるのみだが、之れ迚も〈コレトテモ〉電話線なき為め不便極まるものであつた。長浦掘割も山崩れの為め閉塞せられ、汽艇は第三区を迂回するので、鎮守府に行くのは半日仕事である。
 船堂生〔筆者の自称〕茲に於て大に考へさせられた。地震である。余震は頻々〈ヒンピン〉として来り、一切は恐怖と不安である。然かし〈シカシ〉戦争では無い。此の際一刻も早く人心の安定を計り、応急善後の処置を講ずるのが何よりも先きである。而して其の第一著〈ダイイッチャク〉は全市民の家庭の安堵〈アンド〉よりせねぱならぬが、家庭を最も安心せしめ最も能く保護するもの一家の主人に如く〈シク〉ものは無い。非常呼集中なりしも、賞地付近に家族を有するものと横須賀付近(東京府神奈川県並に近隣)出身のものには、此際自宅に帰らしむるが上分別〈ジョウフンベツ〉であると考へ、各自三昼夜の帰省を許るす事とし、其の他の者は水雷学校に在りて一切の警戒と救護作業に従事する事とした。次で〈ツイデ〉戒厳令発布さるゝや、水雷学校は防備隊と共に、田浦逗子鎌倉三崎方面の戒厳を受持つ事と成つたので、各地に戒厳事務所を設けたが、各事務所の監督士官は各々〈オノオノ〉其地在住の士官を以て之に当てたるに、全焼の為め軍服を有せず、浴衣掛け〈ユカタガケ〉にて当直すると言ふ具合にて、稍や〈ヤヤ〉不規律に見えしも、各自在住地の事とて土地を知り、人を知り居り、且つ親切之に伴ふものありし故、万事円満に行はれ、諸作業意の如く運び、大いに一般住民の感謝を博し得たのである。【以下は明日】

今日の名言 2013・1・16

◎当時の光景は到底筆紙の尽くす能はざる処である

 大谷幸四郎が関東大震災の惨状について述べた言葉。『運用漫談』(有終社、1934)の81ページにでてくる。上記コラム参照。

コメント
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