礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

敗戦直後、群集を前に獅子吼する石原莞爾

2013-01-08 08:41:10 | 日記

◎敗戦直後、群集を前に獅子吼する石原莞爾

 かつて、大熊信行という経済学者がいた。山田宗睦の『危険な思想家』(カッパブックス、一九六五)を読んで、この経済学者に関心を持ち、その著書を何冊か買い求めた記憶がある。三〇年以上前のことで、どんな本を買ったのか覚えていなかったが、先日、たまたま、『戦争責任論―戦後思潮の展望―』(唯人社、一九四八)という本が出てきた。
 読んでみると、これがなかなかおもしろい。たとえば、その冒頭には、敗戦直後、石原莞爾が、「新指導者」として注目されたことなどが紹介されている。

 終戦直後の「新指導者」 終戦につづく失神状態、虚脱と麻痺の一ケ月において、敗戦日本の新指導者はどこからあらわれてきたか。賀川豊彦氏がその一人であることは衆目の一致するところだとして、陸軍中将石原莞爾〈イシワラ・カンジ〉氏の水際立った登場に、眼をみはるものが多かったのも事実だ。終戦このかた中将の活躍は、中央地方を通じて、大きく国民の眼に映っており、中央紙に発表した二つの談話は、海外においても連合国側の論議の対象として扱われている一方、関東、東北各地にわたる中将の講演は、大いに地方民の視聴を集めている。
 いま、その模様の一端を地方紙の記事でうかがうと、――
 東亜連盟福島県支部連合大会は〔九月〕三日午前十時から郡山市麓山〈ハヤマ〉公園広場において会衆約一万を前に開催された。これよりさき白鉢巻にいかめしい扮装の同志六千は小日山〔直登〕運輸大臣の厚意で出された臨時列車で県下各地から多集、所定の位置につけば一般聴衆はこれを囲繞〈イニョウ〉し、さしもの大広場も立錐の余地なきまでに人波に埋められる中を、石原莞爾将軍はモンペ姿で来場する。かくして十時三十分から石原将軍の「敗戦は神意なり」と題する講演に入り約一時間半にわたって大獅子吼〈ダイシシク〉を試みた。(河北新報昭二〇・九・四「石原莞爾将軍獅子吼」)
 というようなわけで、石原将軍の講演のために臨時列車を出す、という騒ぎは福島県だけではない。山形県では九月十二日新庄町公園広場にひらかれた東亜連盟県地区会員大会のために、やはり臨時列車が四本出されており、会衆一万五千ともいう。中央各紙に中将の談話や一問一答が掲載されたことは周知であるが、地方紙にもその「獅子吼」の内容がいろいろの形式で発表され、同盟通信の時事解説(九月十四、十五日付)にも、八月三十一日宇都宮市における中将の講演記録抄が載った。かくして石原中将の存在とその言論活動とは、終戦直後の日本にとって、すぐさま新しい希望の形成を語るかのようにみえるところがあるので、連合国側も中将の登場を目して、「新指導者」の出現と見たのは、無理もないことといわなければならない。
 宮首相に大きく影うつる石原中将 石原中将が東久邇首相宮殿下に招かれて入京したという噂が、郷党のあいだに伝わったのは八月下旬だ。同月二十八日付の「毎日」と「読売」の両紙は滞京の中将をとらえ、いずれもその談話をとることに成功した。その二つの談話の内容は次回以下で要解するが、ここに注意すべきは、首相宮殿下の内閣記者団との初の会見は八月二十八日であって、その記事の掲載をみたのは各紙とも三十日付だ。したがって石原莞爾中将の談話の方が、それより二日さきに紙上に発表されたことになるのである。
 そもそも東久邇首相宮の談話は、徹頭徹尾宮殿下の意見であって、宮殿下の口から出たものであって、宮殿下の考えに属せぬものは一つとしてないわけだけれども、その考えを纏められるについては、予め多方面の意見を聴取されたであろうことは想像に難くない。そして石原中将が私見を開陳申上げた有力な一人であったろうということも想像していいし、宮殿下がそれらを大いに参考とされたというようなことも、大いにありうることと考えてよかろう。【以下は次回】

 大熊信行の『戦争責任論』には、全部で三二の話がはいっているが、上に引用したのは、その冒頭におかれている「首相宮と石原莞爾中将」という話の最初の部分である。
「首相宮」〈シュショウノミヤ〉、「東久邇首相宮」というのは、当時使われていた報道用語で、皇族出身の首相・東久邇宮稔彦王〈ヒガシクニノミヤ・ナルヒトオウ〉を指す。ウィキペディアによれば、官報での表記は、「内閣総理大臣稔彦王」だという。
 上記の文章を読んで、一番驚いたのは、敗戦の直後、石原莞爾の講演を聴こうとして、一万人、一万五千人という聴衆が集まっていたという事実である。【この話、続く】

今日の名言 2013・1・8

◎石原莞爾将軍はモンペ姿で来場する

 1945年9月4日の河北新報記事「石原莞爾将軍獅子吼」に出てくる言葉。同月3日午前10時、郡山市麓山公園広場で開催された東亜連盟福島県支部連合大会には、1万人の聴衆が集まった。そこに石原莞爾は、モンペ姿で登場壇したという。上記コラム参照。なお、モンペというのは、もともと東北で女性が使用していた農作業用の袴で、戦中、労働用として、また防空対策用として、全国に普及した。

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