礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

海軍水雷学校校長・大谷幸四郎の関東大震災体験

2013-01-15 06:21:12 | 日記

◎海軍水雷学校校長・大谷幸四郎の関東大震災体験

 関東大震災発生時、横須賀の海軍水雷学校校長であった大谷幸四郎〈オオタニ・コウシロウ〉(当時、少将)は、のちにその時のことを『運用漫談』(有終社、一九三四)という本で振りかえっている。
 大谷は、軍の要職にあって、戒厳令の実施にも関わっている。また、文章力もある。これを何回かに分けて紹介してみたい。本日紹介するのは、同書の七八~八一ページに相当する部分。

 大地震当日、即ち大正十二年〔一九二三〕九月一日船堂生は、午前八時半鎌倉著〈チャク〉の列車で家族と家財道具一切を引具し〈ヒキグシ〉、七年間住み慣れた須磨より鎌倉に移転したのである。当時船堂生〔筆者の自称〕は横須賀水雷学校に勤務して居たが、暑中休暇中須磨に帰省し居たるに、会々〈タマタマ〉淡路の芦屋沖で潜水艦七〇号が沈没したので、其の査問委員を命ぜられ、調査上予定より一日後れて鎌倉に入つたのである。
 予て〈カネテ〉借家の世話を頼み置きたる友人宅に一先づ〈ヒトマズ〉落著き〈オチツキ〉、午前十時頃友人と共に新借家へ出掛けたが、借家は扇谷〈オウギガヤツ〉の一番奥の山腹に在る文化住宅であつたが、墓が近くて淋しいと言ふので、第二、第三候補住宅を見聞に出掛け、第二候補住宅の二階で大地震に出会はした〈デクワシタ〉のである。大に驚かされて飛出して見ると、鶏小屋に犬が飛び込んだ様な阿鼻叫喚〈アビキョウカン〉の声が四隣を満たして居る。其の声は鶏の声に非ず〈アラズ〉して、救ひを求むる人の声であつた。顔に負傷して血を浴びた女中が、阿嬢様〈オジョウサマ〉が此処に下敷になつてゐるから助けて呉れと言ふので、案内役の友人と共に助けんとしたが大きな瓦屋根が押冠ぶさつて〈オシカブサッテ〉居るので、二人位の力ではどうする事も出来ない。付近を顧みれば一切の破滅である。御互の家族もどう成つてゐるか知れぬので、友人と分れて自宅に馳著けて〈カケツケテ〉見ると、自宅は一枚岩上の文化住宅で、極めて軽く出来來て居るので家は安全であり、家族は友人の妻君と共に庭前の杉林の中に避難中である。直に〈スグニ〉友人の妻君を帰らしめ振向ひて鎌倉町を見下ろすと、火災の煤煙が数ケ所に燃え上り物凄き光景を呈して居る。当日は水雷学校の休暇明けの日であつて出勤すべき筈であつたが、土曜日であるし、前述の都合も有つたのでサボつて居たたのであるが、コリヤ大変と言ふので急ぎ軍服を著けて〈ツケテ〉、昼食も取る間も無く水雷学校に向け走つたのである。
 潜水艦事件の為め予定が後れて此の不覚を取つたが、若し予定通り前日に著いて居たれば、第二候補住宅に這入て居たに違ひない、第二住宅は第一震で微塵に倒潰したが、第一住宅は何等の損害無く鎌倉中で損害最も少き住宅で有つた為め、家族も無事なりしのみならず、忽ちにして友人の避難所と成り、一時は五家族も同棲して居たが、之が為め自分は全く安心して活動が出来たと思ふと、運命の数奇を感ぜざるを得ないのである。
 鎌倉より水雷学校迄は約三里である、倒壊と火災の中に狼狽して馳せ廻はる老弱男女の顔を見ると、何だか世紀末の光景を想はしむるものがあつた。前友人の住宅は恰も〈アタカモ〉途中に在つたが全潰である。只一人の愛嬢は病臥中で家根の下敷と成つたけれど、屋根を破つて今救ひだした処であると言ふ。相互の無事を祝しつゝ相分れて学校校に向つて走った。
 鉄道のトンネルは、皆な山崩れの為め入口が潰れて居たが、田浦逗子間の海軍水道トンネルは、煉瓦巻きは施して無いが、通行が出来るので走り込んで見ると、途中で余震の為に土塊がバラバラ落ちる。道は暗い、落ちた土塊に躓き転倒する、と言ふ有様で、漸くにして水雷学校に辿り著いたのが午後三時である。博忠王殿下〔華頂宮〕を始め奉り、一同無事で練兵場に集り居たる見て、初めてホツト胸撫で下ろしたのである。【以下は明日】

今日の名言 2013・1・15

◎鶏小屋に犬が飛び込んだ様な阿鼻叫喚の声が四隣を満たして居る

 大谷幸四郎が関東大震災の惨状を描写した言葉。『運用漫談』(有終社、1934)の79ページにでてくる。上記コラム参照。

コメント
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