◎言葉の悪用と文化の再建(1947年の日経新聞社説より)
昨日、五反田の古書展で、スクラップブック数冊を入手した。「国語国字」問題の記事が貼りこまれている。あらゆる新聞からスクラップされているので、関係者あるいは研究者が作ったものと思われる。
昭和三〇年代のものがほとんどで、戦前のものはなく、また戦後初期のものが少ないのが残念だが、それでも貴重な史料であることに変わりはない。
本日は、このスクラップ帳から、一九四七年(昭和二二)六月六日の日本経済新聞「社説」を紹介したい。ただし、これが、同日の日本経済新聞「社説」かどうかは、確認していない。記事に赤字で、「四七・六・六 NK」とあったので、そのように判断したのみである。
社説
言葉の惡用と文化の再建
終戦後の思想、文化の動揺と混乱に乗じて、保守と因習の悪名を投げつけることにによつて、権威ある思想や価値の高い文化を無批判にしりぞけ、場当りの便宜主義と新しがりからいたずらに新奇をてらい、簡便を有難がる悪い風潮が最近特にはなはだしい。その最もいゝ例は國民の使う言語が下品で乱雑となり、國語の用法としておのずから定まつている法則や習慣を無視する種々の試みや、まつたく意味の判らない新造語などがあふれつゝある事実である。これが文化水準の低い人々の所爲ならばまだしも許すべき点もあるが、世上文化人、知識人をもつて自任する人々の著書や論文に特にこの傾向がはなはだしいことは、実際はそれらの人々が無知なのかも知れないが、わが國文化の指導と発展上まことに寒心に堪えない事柄である。最近一部の経済学者や評論家が好んで使う「傾斜生産」なる言葉のごときはその適切なる一例で余程詳細なる語義の解説をつけない限り、かなりの経済知識を有する者でもたゞちにその言葉の意味を理解することは困難であろう。その他語尾に「性」の字をつけることによつで、機動性、自存性、主体性などの抽象名詞を即製する直訳的利用法なども今日では簡便どころか、むしろ濫用と冗漫に陥りつゝある。
二
また名詞や動詞の語尾に「的」をつけて形容詞を作る方法も、その程度を越すと、高度的とか合目的的とかいう奇妙な言葉まで飛出して來る。その他言葉の頭に「趣」や「非」を冠して新造語を作つたり、語尾に「化」の字をつけて、名詞や形容詞を動詞に変化せしめて、超重点化、体系化などとするのはまだいゝ方として、はなはだしきは拡大化、対立叱、激甚化などまつたくのだ足として悪用している場合も少くない。戦時中軍閥と官僚の結託による誤つた文化統制によつて、世の文化人はひとしく圧制に悩み、わが國文化の発展もいちじるしく阻害されたことは記憶に新たなるところである。さらに当時こうした文化の窒息状態に乗じて、軍閥官僚政府がわが國本來の國語文化をまつた踏みにじつて、勝手氣黒まゝな新造語を使つて國民の知識をゆがめ、正しい用語法を混乱せしめたことも周知の通りである。たとえは軍隊用語を悪用して、國民精神「総動員」とか行政運用の「決戦化」などというでたらめな標語を作つたり、さらに戦力化(センリヨクカ)概定(ガイテイ)案画(アンカク)完遂(カンスイ)完勝(カンシシヨウ)態様(タイヨウ)基底(キテイ)目途(モクト)基盤(キバン)などの新造語を作り上げ、平氣で天下に発表していたものである。
三
これらの新造語の多くは文化的にがいして低級な軍人だけが使ういわゆる軍隊用語から転化したものであるが、編上靴を「へんじようか」帯革を「たいかく」と称し、洗面器を「面洗器」と呼ばなければならぬ日本軍隊の済度し難き形式主義と独善主義が、戦時中の見当外れの復古主義と結合することによつて、かえつてわが國本來の國語文化をはなはだしく荒廃せしめてしまつた。ちようどこれと同様の事情が今日の言葉の悪用と濫用のうちに果して存在しないであろうか。終戦以來の文化再建運動の目標が國民文化の民主化という点にあることは必然のことで、大いに助成すべき傾向であるが、さらばとて民主化ということが悪い意味での衆愚追随、卑属化であつてはならない。文化の再建は文化そのものを悪くかつ低くすることではなく、健全にして質実な文化を高く維持しつゞ、つねに國民大衆の文化水準を高めて行くことでなければならない。そのためには必要な文化の改革は積極的に実行すべきであり、正しい外國文化は進んで採入れるべきである。たゞそれらの改革や新文叱の導入はつねに厳密な批判の下に行わなければならない。この意味において一國文化の指導的地位を占むる文化人、知識人なるものはその言葉の端にも注意して、いやしくも権威と価値ある文化的伝統を破壊すような愚は慎まねばならぬはずである。最近ますますはなはだしい言葉の悪用と無秩序な新造語の濫用は、わが國文化の正しい再建工作を足許から破壊する所業と評せざるを得ない。ひろく一般の人人も、目前の衣食にのみ追われて、かゝる大切なことを閑却してはならない。
当時の国語問題に対する、きわめてバランスのとれた論説であり、今日読んでなお、示唆されるものがある。
これを読んで、気になるのは、その用字や仮名づかいである。「言葉の惡用」をテーマにしている社説の割には、筆者は、みずからの文章における日本語の表記について、自覚に欠ける点があったと言えるのではないだろうか。
まず、漢字であるが、旧字(正字)と新字が混用されている。見出しには「惡」が使われ、本文では「悪」が使われている。
戦揺乗価雑即陥悩状独伝壊慎情といった字は、旧字(正字)が用いられていた(上の引用では、新字で代用)。一方、乱権実発経余体訳変点拡対圧当済廃随といった字は、すでに新字が用いられている。
理由は明らかでないが、一カ所「だ足」(蛇足)という表記がある。
仮名づかいは、すでに「現代かなづかい」になっている。ただし、促音の「っ」は使われていない。また、「こ」と「と」を組み合わせ、「こと」と読ませる「変体仮名」が、用いられていた。
いずれにせよ、この社説は、テーマも主張も、またその表記も、当時を彷彿とさせる貴重な史料ということができるだろう。
今日の名言 2013・1・20
◎民主化ということが悪い意味での衆愚追随、卑属化であつてはならない
1947年6月6日の日本経済新聞「社説」にある言葉。上記コラム参照。