礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

国語審議委員会会長・土岐善麿の国語表音化論(1959)

2013-01-23 08:04:51 | 日記

◎国語審議委員会会長・土岐善麿の国語表音化論(1959)

 昨日の続きである。土岐善麿が一九五九年一一月二四日の読売新聞に載せた「国語表音化の必然性」という文章の後半を紹介する。

 そもそも漢字かなによる国語表記が国語問題として考えられはじめたのは、戦後突然のことではない。試みに、その提説の代表的なものを挙げてみれば、遠く明治の維新前後にさかのぼる。その中で、前島密〈マエジマ・ヒソカ〉の「漢字御廃止之儀」(慶応二年、徳川慶喜へ上申)、国文教育の儀(明治二年、集議院へ建議)、「興国文廃漢字議」(同六年)は「かな採用論」であり、福沢諭吉の「文字の教」(明治六年十一月刊)は「かな採用論」に対する「漢字制限論」であり、さらに、南部義籌〈ナンブ・ヨシカズ〉の「文字を改換する議」(同年)、「脩国語論」(同八年)は、西周〈ニシ・アマネ〉の「洋字を以て国語を書するの議」(同七年)とともに、「ローマ字採用論」である。そのほかにも挙げるべき文献は少なくないし、先覚者の名も多いが、以上、三つの体系による論議だけについてみても、日本における国語表記は、漢字、かな、ローマ字の利害得失が、すでにつぶさに比較され、考究されたことが知られよう。そしてこれらの三つの系列は、その後の歴史を顧みても、現在までたどることができる。すなわち、それらは、われわれの国語問題そのもののうちに存在する三つの要因なのである。
 福沢諭吉が「時節を待つとてただ手を空しく待つべきにもあらざれば、今より次第に漢字を廃するの用意専一なるべし」と説いて、むずかしい漢字をさえ使わなければ、その数は二千か三千で足りるとしたのは、漢字からの解放を意図したものであった。前島密のかな論の中に、漢字を廃してすぐローマ字にすることは「たとえば万里の路を往く」ようなものであるが、これを国字(かな)に写してから口ーマ字に代えることは「あたかも隣に遷るがごとし」といってあるのは、いわゆる国語表記が表音的なものになる過程、段階を述べたものとみられる。それは「世界進歩、日一日と速か」であるから、一気にローマ字を用いるがいいという論があり「この論もとより然り」、しかし事には緩急があり、難易を伴うから「全国三千百万人の人員」(現在は約三倍)のうち、かなを知らないものは百分の一に過ぎない当時の実情において、まずかなを国字とするがいいというのである。しかもこれらは、いずれも今から八十余年も前の提説なのであった。そして明治三十三年七月、前島密は文部省国語調査委員会で発言し、持論の実現を準備時代、必要書書き換え時代、旧文参照時代、慣熟時代の四期にわけ、六歳から七十歳にいたる年齢の対応をくわしく表示したものを提出している。この文献も現在に残っており、今日からもまことに興味が深い。
 今回の新しい送りがなの整理から、国語表記のいわゆる表音化が導き出されるとすれば、それは国語問題そのものに、内的に、また外的に、存在するものであることを知らなければならない。正しい国語は本来ことばの表音的機能をもつはずであり、その表記が現代語音に即して表音的になることは国語問題の必然性であり、当然な進展である。それを集団的に阻止しようとすることこそ小ざかしき時代逆行の「謀略」ではないか。「暴力機関」とか「暴力革命」とかいう語を国語問題ないし国語政策について用いることは、その社会性を思わないもののハッタリに過ぎない。
 序〈ツイデ〉ながら、林健太郎東大教授の「随想」について一言する。ご専攻の西洋史研究でも、文献や資料が必要と思います。ご入用ならば若干はおみせできますし、直接おめにかかる機会があれば、ぼくにとっても有益でしょう。一人や二人の文章から「推定」して「正しい仮定」などをつくられることは、学者の態度として危険ではありませんか。「おひま」もありますまいが、いずれ拝顔方々。

 ここで、土岐善麿は、明治以降の国語改革論を紹介しながら、国語表記の「表音化」は必然的であるとしたのである。
 国語保守派は、国語審議委員会会長である土岐が、その持論によって、国語表記の「表音化」を推進していると見て、これに危機感を抱き、具体的な行動に出た。それが、一九五九年の「国語問題協議会」結成であった(昨日のコラム参照)。
なお、福沢諭吉の「時節を待つとてただ手を空しく待つべきにもあらざれば、今より次第に漢字を廃するの用意専一なるべし」という言葉は、『文字之教』(文字の教〈オシエ〉)の「端書」〈ハシガキ〉にある。この本については、今月七日のコラムで紹介した。

今日の名言 2013・1・23

◎正しい国語は本来ことばの表音的機能をもつ

 土岐善麿の言葉。「国語表音化の必然性」(読売新聞1959年11月24日)より。歌人にしてローマ字論者であった土岐は、国語表記の「表音化」は必然的であるという立場に立って、戦後の国語改革を推進した。上記コラム参照。

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