礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

ドイツ文学者・山下肇の国語改革論

2013-01-21 06:51:41 | 日記

◎ドイツ文学者・山下肇の国語改革論

 一昨日入手したスクラップブックに、ドイツ文学者・山下肇〈ヤマシタ・ハジメ〉の「ことばの改革ということ」という文章がはさまっていた。雑誌のキリトリである。これをとめていたクリップは、すでに真っ赤に錆びている。
 本日は、この一文を紹介してみよう。出典は、手書きのメモから、『BOOKS』一九六〇年七月号と判断した。

 ことばの改革ということ   山下 肇
〇「スクナイ」と「スクナクナイ」
「スクナイ」ということばと、「スクナクナイ」ということばがある。これを書くとき、漢字と送りがなはどう書いたらよいのか、ちょっと考えてみればすぐわかることだが、今日ではすっかり混乱してしまっている。電報ならば、完全な表音式で、発音をただ仮名で書きあらわせばよいが、それは「ことば」というものではない。発音だけで「ことば」は成立たない。ことばには一つひとつの生きた意味や伝統的たニュアンスがあり、それを文章として組みたてた場合の独特な表現構造ができる。「スクナクナイ」は、昔から「少くない」でよかったわけだが、今ではこの「少くない」を「スクナイ」とよんでしまう人もあるだろう。ならぱ、「少」は「ス」だけのことだから、わざわざ漢字で書くのは面倒だから、いっそ「すくない」という風に全部ひらがなで書いてしまえ、という人も出てくるだろう。しかし、それが徹底していくことになると、「少い」というその「少」の字が、「多少」とか「少数」という場合の「少」の字だ、という関係は、それから以後に育った子供たちにはぜんぜんわからなくなってしまうだろう。若い人の間から、漢字というものはどんどん遠ざかりつつあるのが今日の趨勢である。
「追加予算」を「オイカヨサン」と平気で演説して笑い話になった国会議員さんがいたが、私の子供の小学校の先生が「与謝野晶子」を「ヨサノマサコ」と教えて、子供がその通りいうので、あわてさせられたこともある。七年間浪人して八年目に東大へ入った学生が、クラスメートに向って「キゼンなく発言してくれたまえ」としゃべるのを、わきできいて、呆気にとられた経験もある。この「キゼン」は「毅然」ではなくて「忌憚」(キタン)の読みちがいだった。やっぱり八年目のせいかな、と感じさせられたりもした。「イ」と「エ」の訛、「シ」と「ス」の訛も平気でまちがえて教えこむ先生もいる。「カンカンガクガク」という言葉がいつのまにか「ケンケンゴウゴウ」と一緒くたにされて、「ケンケンガクガク」などという新語(?)を新聞雑誌等でよくみかけることがある。ことばづかいで、すぐ教養の程度がばれたりするわけだが、ことばを愛し、ことばを大切にするものにとっては、今日の混乱はなんともやりきれない。
〇現代かなづかいと若い世代
 戦後、当用漢字と現代かなづかいが制定されて、日本語は急速に平易なものになり、学童たちの負担がかるくなったことは喜ばしいことで、これはたしかに国語の民主化というものだろう。表音式の新仮名づかいには、また新しい美しさも生れて、私はとっくから新がな党になってしまっているが、大新聞に原稿を書くときには、いつも幾つかの用語や漢字は難かしすぎるということで、別の用語に変えさせられたり、漢字の下ヘカッコして仮名で読みかたを書きこまれたりという経験をする。こちらは決して敢えて難かしい用語をつかったわけでなく、むしろふだん使いなれており、平易明快適切と考えた上で書いたものなのだが、それが仰々しいルビをふられたり、多少とも意味や感覚のちがった別の単語にけずられていると、いかにも妙な気持がする。こういうことで、かえってことばの混乱が助長されているような感じさえおこってくるのである。私は戦没学生の手記『きけわだつみのこえ』の新版を出すにあたって、ほとんど一人で校正の仕事をやったのだったが、この新版を出す目的がそもそも今の若い人たちに読みやすいよう、わかりやすいようにという主旨であったから、思いきって旧版の旧かなを新かなづかいに、難しい漢字はルビをふったり、かなに直したりしてしまった。しかし、これにはずいぶん議論があり、考えさせられたのである。なぜかというと、戦争中に、多くの軍隊の中で書かれたこれらの手記は、当時が国粋主義時代で難かしい漢字を使うことが逆に奨励もされた頃であり、また軍隊の中で、きびしい検閲の下で自分の思想を表現するために、或いはまた、限られたハガキの小さな紙面に精一杯の思いをこめて、できるだけ多くの漢字を使い、紙面を有効に生かして、ひとつひとつの単語にも無量の余韻みたいなものが圧縮されているために、当時の体験を自分で承知している私などには、そこまでのニュアンスを理解してもらうことはとても無理だし、これらの手記は必ずしも「文芸作品」とはいえないのだから、ということで、結局すっかり手を入れたのだけれども、こういう問題を若い世代の人々はどう受けとめてくれるだろうか。【以下略】

 山下肇については詳しくないが、高名なドイツ文学者のようだ(故人)。ウィキペディアによって、高校生のとき読んだカフカの『変身』は、この人の訳だったことを知った。文中にある『きけわだつみのこえ』の新版というのは、カッパブックス版の『きけわだつみのこえ』(一九五九)のことであろう(元版は、一九四九年)。
 ウィキペディアには、「一九五九年、日本戦没学生記念会(わだつみ会)事務局長を務め、『きけわだつみの声』を復刊させる」などとある。
 上記の文章は、すでに、今日私たちが読む日本語の文章と、ほとんど変わらないものになっているが、「難しい」と「難かしい」が併用されているあたり、わずかに「過渡期」のものであることを感じさせる。

今日の名言 2013・1・21

◎ひとつひとつの単語にも無量の余韻みたいなものが圧縮されている

 山下肇が、戦争中に書かれた学生の手記について述べた言葉。『BOOKS』1960年7月号所載、「ことばの改革ということ」より。上記コラム参照。

コメント
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