ON  MY  WAY

60代になっても、迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされながら、生きている日々を綴ります。

第100回全国高校野球選手権大会終わる…

2018-08-21 20:21:50 | スポーツ
夏の甲子園、第100回全国高校野球選手権大会は、史上初めて大阪桐蔭の2度目の春夏連覇で幕を閉じた。

その対戦相手となった金足農は、第1回で決勝に進んだ秋田中学以来の秋田県代表の決勝進出を果たした。
判官贔屓の日本人たちは、この公立校を応援した人たちがたくさんいた。
しかし、決勝は、能力の高い選手たちがいかんなく力を発揮した大阪桐蔭が、2本の本塁打をはじめとする猛打で13-2で圧勝した。

金足農は、好投手吉田を擁して、決勝までミラクルな勝ち上がりをした。
強豪の横浜相手に逆転3ランで勝つ。
準々決勝の近江戦では、9回に2ランスクイズで逆転サヨナラ勝ちした。
素晴らしい逆転勝ちは、吉田の好投なくしては語れない。
今日の決勝も、前半はよかったが、チャンスを逃した後の失点で、一気に流れを失った感じがした。
大差になってしまったのが残念であった。

甲子園では、時々イケメン投手が勝ち進む。
ところが、決勝までは行くが準優勝で終わることが多いのだ。
三沢の太田、東邦の坂本、早実の荒木らは、その代表的な存在だ。
勝ったのは駒大苫小牧と延長の末再試合となって優勝を果たした斎藤佑樹くらいかもしれない。

太田の名前が出てきたが、今日の決勝の前の始球式は、50・51回大会に出場し、51回大会では延長・再試合を戦った三沢・太田と松山商・井上の懐かしい2人だった。
延長18回で引き分けになったこの試合が行われている時、私は中学1年生。
母の母、つまり祖母が亡くなった年の新盆に、いわき市に行き、帰る列車の中で他の客がつけていたラジオ放送で、手に汗握る展開を聞いていた覚えがある。
あの時も、東北に初めて優勝旗が渡るか、と放送されていたのだった。

それから50年もたとうとするのに、相変わらず優勝旗は白河の関を越えていない。
津軽海峡は越えてしまったけれども…。
果たして100回目の大会で…とつい期待してしまったが、やはり大会前から優勝候補の筆頭と言われていた大阪桐蔭は強かった。

憎まれ役?となった形の大阪桐蔭だったが、ほとんどが笑顔だった中で、主将だけは号泣していた。
昨年夏の敗戦を引きずり、優勝だけを目指してチームをまとめるのは本当に大変であっただろう。
その涙に、本当によくやった、と思った。
野球で高校日本一になる。
言うのは簡単だが、実現するのはどれだけ難しいことか。
それは、7県ある東北勢が春夏合わせても未だ優勝できていないことからもわかる。

金足農が34年ぶりの準決勝、と話題になったとき、その34年前の準々決勝の相手は新潟南だった。
新潟県は、新潟南の活躍でその年初めてベスト8だったのだ。
その後、新潟明訓が1度、日本文理が2度そこに進出しているが、新潟県の優勝はもちろんまだない。
今大会新潟県代表の中越は、出場3大会連続サヨナラ負けと、全国でも見劣りしないレベルまできてはいるが、勝ち進むというところまではきていない。
まだまだこれからだ。

様々な思いにつつまれながら、結局は、優勝候補筆頭の大阪桐蔭の優勝で第100回の記念大会は終わった。

甲子園夏の大会が終わると、急速に秋の近づきを感じる。
日が沈むのが少し早くなってきたと感じている。
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「靖国への帰還」(内田康夫)を読む

2018-08-20 22:14:13 | 読む

この3月、私が好きだった、ミステリー作家内田康夫氏が亡くなった。
彼の作品で、最も好きだったのは、なんといっても「浅見光彦」シリーズである。
浅見光彦が主役となって登場する小説は、文庫本、新書判、単行本のどれかで必ず持っている。
このシリーズは、33歳で独身のルポライター、兄を警察庁刑事局長に持つ、という名探偵が主役である。
主役の浅見の推理、活躍がとても楽しいのはもちろんのことであった。
それ以外にも、その主役の浅見や浅見が出会う人々を通じて語られる、内田氏の価値観にはいつもかなり賛同するものがあった。

ところで、浅見光彦シリーズのような推理小説のほかには、あまり目立った作品がない。
今回読んだ「靖国への帰還」は、2011年に刊行された、珍しく推理小説ではない小説の一つである。
戦争にかかわる内容があるので、8月に読もうと思っていた。
主役は、昭和20年、海軍飛行士、22歳の武者滋である。
夜間飛行機「月光」に乗って、B29を迎撃したが被弾し、命からがらたどり着いたのは、なんと現代の厚木基地。
タイムスリップしてしまった彼を通して、靖国神社だけでなく現代社会が抱える様々な様相を浮き彫りにしている。

この作品で特に、大きくうなずいたのは、「命」「『覚悟』と『責任感』」に関して書いてある箇所であった。


 二十歳を越えることもなく、若くして逝った戦友たちの無念さ。彼らを失った国家の損失を思った。
 それは、戦争という抗し難い時代の流れによるものだが、この平和な現代に生きて、溢れるばかりの豊かさを享受しながら、「自殺サイト」などという、愚かしい現象に巻き込まれ、自らの命を絶つ者がいるという。
 それ以外にも、毎日のニュースを見ていると、驚き、呆れ、怒るしかないような事件が次から次へと起こる。親が子を殺し、子が親を殺す。意味もなく死に、意味もなく殺す者たちが後を絶たない。
(略)
 こんな病んだ社会を護るために、かつて、若者たちが命を賭して戦ったわけではないはずだ。戦争の愚かさとともに、若くして死ぬことの悲しさと虚しさを学んだはずの日本人が、平和の中でなぜ死んでゆかなければならないのか―武者はどうしても理解できそうにない。
 「生き返って」から三カ月間。武者は日本人の資質が昔と大きく変わっていることを感じ取っている。かつてあって、現在の日本と日本人に欠けているものは「覚悟」と「責任感」だと思う。
 何かを行うにあたっては、あるいは何もしないでいれば、そのいずれに対しても何らかの事態が発生することを、予め承知しておくべきだ。それを覚悟と呼ぶ。他人に害を及ぼせば、それと同等か、それ以上の害が我が身に及ぶことを覚悟してかかるべきだ。
 だが、実際はどうだろう。人を殺せば、自分も死を与えられると覚悟すべきなのに、人を殺しておきながら、犯した罪がばれて裁かれると、のたうち回って罪を逃れ、せめて死刑を免れようとする。
 そうして、なろうことなら、責任を相手や他人に転嫁しようとする。この責任感のなさは、国の行政機関に最も顕著なのだから、国民がそれに倣おうとするのは当然のこととも言える。


…人として生きるために大切なことは、昔であろうと現代であろうと変わりがないはず。

自他の命を大切にすること。
そして、自分の行いがやがては自分に返ってくるという覚悟をもつこと。
したことに責任をもつこと。

まさしく今の日本に必要な大切なことを、この作品を通じて内田氏が示しているように思えたのであった。

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気温が25℃になっただけで、こんなに走りやすいとは

2018-08-19 22:38:08 | RUN
昨日の夕方、6日ぶりに走りに出た。
1週間に2回走る予定が、珍しい雨によって木・金と走れなかった。
なあに走り出してしまえれば、いくら濡れようとかまわないのだが、土砂降りに竜巻や雷の情報まであると、さすがに気が引けた。

7月中旬から気温が高かった。
走りに出ていた日でも、31~34℃はあった。
だいたい晴れている日ばかりだったから、陽射しも強かった。
だから、なるべく陽射しをさえぎられる木陰があるコースを走ったり、走る距離を12~14kmに制限して走ったりしてきた。

昨日は、3日ぶりに夕方雨が降らなかったから、うれしい気分になった。
ずいぶん涼しくなった気がして、道路脇の表示を見たら、25℃であった。
30℃以上の環境で走っていたのに比べたら、本当に気持ちのよい環境であった。
こんなに走りやすさが違うものか、気温が25℃になっただけで、こんなに走りやすくなるものなのか、と実感した。

ペースはそんなに上がらなかったけれど、実に気持ちよかった。
だから、走る距離をのばしていった。
結局、走った距離は、18km。
6月17日に、ハーフマラソンを走って以来、これだけの長距離を走れたのは初めてだった。
気温が高かった時期は、13,4kmのRUNでも、走った後には3kgくらい体重を減らしていたのだが、今回は18kmと多く走ったにもかかわらず、減った体重は、2kgにとどまった。
それだけかいた汗の量も減ったということだろう。
疲れ方も、いつになく少なかった。

2020年の東京五輪は、7・8月の猛暑の時期に行われる。
マラソンは、やっぱりきついと思うなア。
30℃以上ある中を走るのって、絶対キツイ。
少し涼しくなった中を走って、そんなことを改めて思ったしだいである。
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敗戦で5連敗とはいえ、見ていて楽しいサッカーをしていたと感じたが…

2018-08-18 22:51:19 | アルビレックス新潟
第29節、アウエー大宮戦。
第19位、4戦連続敗戦で、13失点。
おまけに2試合無得点で7失点。
応援はしているが、もう勝敗は度外視して、
「どんなサッカーを見せてくれるか」
この一点に興味を集中して、DAZN観戦した。

片渕監督代行は、先発メンバーを6人入れ替え、ポジションも少し変えてこの試合に臨んだ。
連敗脱出を図りたい新潟の選手たちは、攻守に積極的であった。
前半は、まさに前季J1同士の戦いぶり。
なかでも、新潟の選手たちの動きのよさが目立った。
メンバー入れ替えの手が当たったか、と思った。

ところが、自陣でソン・ジュフンが相手に強く当たっていったら、それがファウルの判定。
嫌な予感がした。
前回の対戦では、大前にFKを決められて負けている。
今回も?と思っていたら、大前と並んで立っていたマテウスがFKを蹴り、それが見事にゴールに突き刺さった。
またまた先制されてしまった。
これで、第22節から8試合連続で先制点を許している。
これが、まず新潟の試合運びの拙さだ。
その内容を見ると、FKからの失点、CKからの失点、オウンゴール、相手のセンタリングがそのまま入ってしまうなど、アンラッキーな失点が先制点となっているのだ。
先制を許さないようにしなくてはいけない、これが最近の大きな課題なのだ。

そして、第2の課題は、簡単なミスをしでかして相手に侵入され、追加点を許してしまうこと。
前節、前々節と後半直後の失点で追加点を奪われ、0-4や0-3の大敗につながっている。
今節は、後半直後の失点はなかった。
後半は、新潟の攻勢が目立ち、大宮は守勢一辺倒だった。
なのに、72分、久々に大宮がボールを持って攻めてきたな、センタリングを上げたなと思ったら、ゴール前に突っ込んできた相手選手の動きを止める人が誰もいない。
あえなく追加点を許してしまった。

こうなると、得点力不足の新潟には2点は厳しい。
アディショナルタイムに1点を返したものの、結局、1-2で負けて5連敗。
連敗脱出はならなかった。

惜しいのは、あの追加点の時には危機管理が足りなかった。
先制点のFKにつながってしまったファウルも、もったいなかった。

ただ、見ていて選手たちの気迫は伝わってきた。
今日出場した選手たちは、よく足を動かしていた。
強い気持ちをもって今日のような試合を続けていければ、連敗脱出から反転攻勢に移れると思うのだ。
矢野の右サイドの突破や、ボランチ梶山の動きやボールさばきなどは、今までに見られない素晴らしさを感じた。
可能性が広がるプレーがたくさん見られた。
見ていて、結構楽しい試合だった。
もう少し慣れると、強い試合ができると思う。

ただ、その前に新監督が決まってプレーの仕方がまた変わってしまうのだろうか。
うーん…。
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「暑い」から一転「寒い」くらいの今日

2018-08-17 21:54:05 | 自然・季節
朝から涼しく、風が強かった。
涼しいというよりも、今までの蒸し暑さから比べると、「寒い!」というような日だった。
だから、家の中で長袖・長ズボンを着用していた。
当地の今日の最高気温は25℃。
最低気温は19℃。
なんて極端な気温変動だろう。
2日前は猛暑日だったのに。

昨日は走る曜日の木曜日だったが、あまりにも雨が強かったので走るのを今日に延期した。
ところが、今日の夕方、走ろうと思っていたら、突然強い雨が降ってきた。
断続的に強い雨が降った時間があった。
それで、昨日に続き今日も、走るのを中止してしまった。

昨日今日と雨が降ったので、県内の水不足はだいぶ回復したとのニュースもあった。
柏崎市の鯖石川ダムは、今月1日に0%だった貯水率が、17日午後には、70%余りまで回復したという。
ただ、私の住んでいる下越地方では、たった2日間では雨の量がまだ少なかった。
新発田市の「内の倉ダム」は、17日午後2時の時点で貯水率が6.9%、胎内市の胎内川ダムは28.5%でしかないのだそうだ。
そのうえ、向こう一週間は、まとまった雨が降らないという予報だ。

天候不順。
不安な夏は、まだまだ続くようだ。

そんな日だったが、夜見た野球中継では、中日笠原が巨人を相手に7回1失点。
新潟県出身というだけでなく、新津高校、新潟医療福祉大と、新潟県内のチームでしか野球をして来なかった彼が、立派に中日のローテーションを守って勝利に貢献している。
この活躍は、うれしいなあ。
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やっと雨…降れば土砂降り

2018-08-16 22:56:27 | 自然・季節
昨日は、35℃近くで蒸し暑さが続き、昨夜は熱帯夜だった。
夜中から、雨が時々降った。
特に明け方からは、激しくなった。
何週間ぶりのまとまった雨だろう。
しかし、今日は、「まとまった」どころではない大量の雨が降った。

午前6時までの1時間に、村上市で63ミリ、関川村で32.5ミリの激しい雨を観測したという。
7時頃には、たたきつけるような、非常に強い雨が降るようになった。
出勤するために息子はいつもJRを利用するのだが、あまりの土砂降りに、駅まで送って行こうか?と聞いて、送って行った。
JRのダイヤは乱れているばかりでなく、しばらく運行停止ということで、息子はやむなく別な路線を使って出勤したということだった。

それにしても、極端な天気だ。
昨日までは猛暑で、今まで全く降らずにいたのに、今日は降れば土砂降り、とは全く困ったものだ。

午前中、雨が上がった隙間をねらって、娘のリハビリ散歩でスーパーまで歩いていった。
いつも歩く小さな川を見ると、水量が一気に増えた時があることを物語るように、川の土手の植物が倒れていた。

近くの木には、ごみがずいぶん上に引っかかっていた。

一時期、ここまで水が上がったことがわかった。

その後、買物をしている間に、横なぐりの雨が打ちつけるほどひどい降り方になっていた。
雨が小止みになるのを待って、帰ろうと歩き出すと、道には側溝からあふれ出した水が流れ、道を狭くしていた。
川の水は、再びかなり水位を高くしていた。

この時降っていたのは、わずか10数分間のことだっただろうけど、一気に水量が増える。
ここでさえこんなだったのだから、ひと月前にもっと長時間降り続いた西日本の大水害は、本当にどれだけすごい量の雨が降ったのだろうかと、改めて思った。

結局、今日は、降っては止み、降っては止みだった。
ただ、降れば土砂降りだったから、相当の降水量だったと思う。
粟島浦村では午後4時10分までの24時間に降った雨の量が186.5ミリと、昭和51年に観測を開始してから最大だったのだそうだ。
これで、県内の水不足が解消されたか、というと決してそうではないと考える。
なぜなら、一気に降って一気に流れていったからだ。
作物にとっては、いくらかは恵みの雨だったとは思うが、急激な変化でかえって傷んだりしてしまったのではないだろうか。

他県等に比べて、今まで雨が降らなかったこともあり、土砂災害警戒情報が出るまでにはいかなかった。

それにしても、全く降らずに猛暑が続いたり、こうして降れば災害級の降り方になったりと、異常な気象が続く。
次々と発生する台風の進路も、今までにないおかしな進み方をしている。
地球規模でおかしくなっているのかなあと、怖さを感じてしまう。
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灰谷健次郎「遅れてきたランナー」(角川文庫)を読んで

2018-08-15 22:32:09 | RUN

児童文学作家だった灰谷健次郎氏が亡くなってから、もう10年にもなるのか。
そんなことを思いながら、「遅れてきたランナー」を読んだ。
これは、ランニングに関して経験が描かれた氏のエッセイである。
「兎の目」や「太陽の子」などの作品で知られる氏が、走っていたことやそれについて書いていたエッセイがあることなど、私は知らずにいたのであった。
こんな本があると教えてもらい、さっそく読んでみた。

灰谷氏は、49歳で「ランナー」となって走り始めた。
しかし、義理で走ることになると、最初の頃は、走ることは苦しいこと、ひたすら辛抱、タイムや勝ち負けを気にしてひたすらがんばって走るだけだった。
初めて走ったフルマラソンがホノルルマラソンで、前半快調に飛ばした氏は、20キロを過ぎて走れなくなり、30キロからは地獄を見ながらなんとかゴールにたどり着いた。
走った時の細かいことが、さすが作家、詳しくわかりやすく書いてあるのだ。
その書いてあることの一つ一つが、私自身の経験したこととまったく同じであった。
だから、懐かしいような、失敗が恥ずかしくて仕方がないような、そんな気になって一気に読んだ。

その後は、当時住んでいた淡路島で毎日12km走ることによって、食生活の改善もあるのだが、心身共に健康な生活になったのだそうだ。
走ることによって、より深く自然を感じ、より多くの世界を知ることができたとも書いてある。

特に同意できるのは、ゆっくり走ることによって走ることが好きになっていったこと。
走ることが好きになると、走りながら様々なものが見えたり感じられたリするようになる。
一人で走る分には、人より早いとか遅いとかの比較は必要ない。
ただ、心や体との対話を楽しむ。
そんなことも書いてあった。
これらのことも、自分が走ってきた中で感じてきたことだ。
読んでいながら、自分の思いが作家の手で書かれているようで、うれしくなった。

面白いのは、走り始めたのは、先日ここで書いた高石ともやさんとの縁があったから。
そして、高石氏から紹介を受けた群馬大学教授の山西哲郎との出会いもあった。
本の後半には、3人の鼎談も載っていた。
そこで、見出しと使われている言葉だけでも、賛同と感心でいっぱいになる。
例えば、
・ 子どもの持っている可能性を引き出すのが教育の仕事。
・ がんばるということが唯一の善ではないと思う。
・ 走ったからって世の中変るわけじゃない。でも走る行為の中には大きな意味がある。
・ はやいだけの人生がすばらしいんじゃない。
・ 走るということには人生の生き方みたいなものがみんな絡まってる。

…そうなんだよなあ、と読んでいて深くうなずくことが多かった。
さすが元教育者であり、作家である。

残念ながら、灰谷氏は亡くなってしまったけれども、この本の中で書かれてあったことたちを思いながら、走ることを生活の中に入れて、人生を楽しみ、進んでいきたいと思っている。

そんな思いから、今回のテーマのジャンルは、「読む」ではなく「RUN」なのである。あしからず…
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新盆,元の同僚宅を訪ねて

2018-08-14 22:36:00 | ひと
お盆なので、ご焼香に訪ねて行く。
親戚関係を除くと、同級生の関係か職場で縁があった人との関係か、ということになる。
2年前は、同級生関係で亡くなったの人々のところを次々と回ったのだった。

今日は、今年3月上旬に亡くなった、元の同僚宅を訪ねた。
新盆である。
定年退職を目前に控えて同業の研修団体の仲間であり、かつて2年間一緒に勤めて明るく元気な職場づくりに力を出してくれた人。

彼の家は、県外にある。
少々遠い。
そう、彼は、県外から毎日新潟県に通っていた人だったのだ。
初めて行くので、家が分からない。
車のナビに電話番号を入力して近くまで行ったが、よくわからない。
これはもう、人に聞くほかはないと、車を止めて歩いていると、家の戸が開いていて会話中の年配の女性たちがいたので、聞いてみた。
ナビが告げたよりも、どうやらまだだいぶ距離がありそう。
仕方がないので、今度は通りの洋品店で聞いてみる。
そこの社長さんがいい人で、絵をかいて説明しているうちによくわからないだろうからと、住宅地図までコピーしてくれ、丁寧に教えてくれた。

絵と地図のコピーを頼りに、車に乗って探していくと、なんとか見つけることができた。
彼の奥様とご子息が在宅中だったので、あがらせていただき、仏壇の彼の遺影に手を合わせた。

木工が好きで趣味の一つだった人だけに、家には明らかに彼が作った“作品”ばかりだった。
相田みつをのように強いインパクトはないが、柔らか味のある教訓のような言葉が飾られた額がいくつも並んでいた。
ほかにも、写真を飾った額、見えるところは木だけで作られた振り子時計、花を飾るミニテーブル、そして長椅子…等々。
「まだ材料の木がいっぱい残っているんです。木は細工する前によく乾燥させないとダメだと言っていましたから。」
「面の模様を見て、『うわあ、どっちもいいなあ。どっちを表にするかなあ。』なんて言ったりしていました。」
「このテーブルの『耳』がいい、なんて言ってたんですよ。『耳』なんてどこのことだかわかりますか?独特の言葉で言うもんですから、意味がわからなかったですね。」
奥さんの話を聞きながら、木工好きの彼らしいこだわりが伝わって来て、懐かしく思った。

実は、彼が亡くなったときに、奥さんの勤務先は、偶然にも私が彼と共に仕事をしていたところであった。
「勤務先に、彼の作った長椅子があったでしょ!?」
と私が聞くと、
「手製の長椅子があったから、あれ?と思ったんだけど、どうも作り方が似ているなあと思って家に帰ってから聞いてみると、自分が作ったと言ったんですよ。」
という返事が返って来たのだとか。

彼の趣味は、木工だけでなく、アウトドア派であった。
釣り、山歩き、山野草の栽培、ミニチュア盆栽なども得意としていた。
玄関には、取り残されたミニ盆栽がいくつも残っていた。

職場で話をすると、いつも彼は、「どうせやるなら、楽しくやりましょう。」と言うのが口癖だった。
仕事も皆で楽しくやろう、というのが彼の主張であった。
だから、職場も堅苦しくなることがなかった。
彼の人柄に救われていたのは確かである。

定年退職後は、たくさん抱える趣味を存分に行う時間がある。
だから彼は楽しみにしていた。
なのに、進行性の癌が再発して2カ月後、帰らぬ人となった。
「佳人薄命」と言うが、そのとおりだと思う。

家ではおそらく知らない、私が知っている彼の姿をお二人にいろいろ話もした。
あっと言う間に小一時間が過ぎてしまった。

帰路に運転しながら、思った。
彼のように、自分はこれが好きだ、このことが楽しい、こんなことをしたい、というものをもちたいなあと。
彼が味わえなかった、60歳以降の時間を私は生きている。
これから後の時間は有限だ。
創造的で充実した時間をより多くしたいものだ。
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迎え盆の日

2018-08-13 22:16:32 | 生き方

8月13日。
迎え盆の日だ。
墓参りをして、ご先祖様の魂を家に持ち帰る。
そんな意味があったはずだ。
今日は、娘や息子と共に、墓参りに出かけてきた。
今は、ご先祖様というよりも、自分の父や母の霊にご挨拶に行くような気持ちになっている。
彼岸と盆との違いもはっきりしなくなっている。
昔と比べて、盆だからと特別なことをすることはずいぶん減ったなあと思う。
野菜を切って供えたり、野菜で家畜など動物の形を作って供えたり、特別な飾りを作ったり…というのは、以前はどこの家でもやっていた。
しかし、今は、どこの家でもという訳ではない。

様々に伝承されてきたことが、父と母の世代まではまだあったというのに、いろいろなものがなくなっている。
なくなっているというのが正しいのか、しないようになったというのが正しいのかはともかく、父と母の世代まではあったのに、今ではなくなっているというのは、なくしてきたのはわれわれの世代だということではないかと思う。
特に、わずらわしいことは避け、ずいぶんしなくなってきたように思う。
冠婚葬祭に関することは、その最たるものだ。
そして、この盆のような年中行事もそうだ。
墓の前で手を合わせ、ちゃんとした盆の準備をしなくてごめんね、ということも思ったりする。

ただ、墓参りをし祈るときの、あの神妙な思いは変わらないと思う。
墓の向うの両親に語りかけるとき、自分の心のありかを確認できるような気もする。
時代は変わって、盆のやり方も変わったけれど、墓参りをすることは変わっていない。
そこには、自分にかかわってくれた人や自分の過去と向き合うことに貴重な価値を見出す人が多いからではないかと思う。

父や母、伯父や伯母が遠い世界の人となってから、久しい。
還暦も過ぎてしまった自分だが、過去・現在と向き合いながら、もうしばらく自分の人生を進んで行こうと思った、迎え盆の日であった。
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「総史沖縄戦」(大田昌秀編著;岩波書店)を読む

2018-08-12 22:49:53 | 読む

8月は、広島や長崎に原爆が投下された月であり、終戦を迎えた月である。
そして、先日、翁長雄志沖縄県知事が亡くなった。
辺野古への基地移設をめぐって、政府と対立していたが、その問題が知事が亡くなって今後どうなるのか、注目を集めている。
翁長知事が県知事選挙に出た時、「辺野古に新基地はつくらせない」ということと合わせ、「日本の安全保障は日本国民全体で考えるべきもの」と主張していた。
そのことがずっと気になっていた。

「総史沖縄戦 写真記録」は、元沖縄県知事で、昨年亡くなった大田昌秀氏の編著である。
1982年8月の刊行である。
大田氏は、久米島の出身であり、自ら沖縄戦を体験している。
30年余りの研究によって沖縄戦の実相を集大成した本と言われている。

私自身、この本を購入したのは、今から20数年前であった。
定価は、5000円。
10%減の価格で購入したことだけは覚えているが、高い金を出したわりには、ずっと読まずに「本棚の肥やし」になっていた。
読む気力と読む時間がなかったことを言い訳にしていたのだが、今こそ読んでみようと思って読み始めたら、翁長知事の訃報である。
やはり今こそちゃんと読んでおくべきなのだと認識し、読み進めた。

単に沖縄での戦争のことだけが書いてあるのかと思ったが、違った。

明治以前の沖縄は、本土とは違う歴史を持っていた。
また、本来争いを好まぬ気質を有していた。
それゆえにもっている文化に明らかな違いがあり、それを後進性と思い込み、日本本土のものとの違いの差を縮めないといけないという意識や事情があった。
そんなことから、日本との同質化の志向が屈折した忠誠心を生んでしまったという背景があった。

そして、民衆を巻き込んで行われた沖縄戦。
だがこれは、日本本土防衛のための捨て石の戦いでしかなく、沖縄自体を防衛するための戦闘ではなかった。
さらに、軍隊が戦争中に民衆を守るというのは幻想にすぎなかった。
逆に、それによって、住民殺害というより多くの犠牲を生んでしまった事実が無数に生じてしまった。
久米島では、8月15日以降も事情は変わらず、最終的に「沖縄戦」が終了したと言えるのは、9月7日だったという。
その日まで、住民が軍によって殺されることは続いたのだということだ。

…このようなことが起こっていた沖縄。
だから、戦争から70年以上たった今でも、なぜ沖縄だけが被害や損害を受けても、基地等の問題を我慢し続けなければいけないのだ?という思いがあって当然だと思う。
翁長知事のこだわりが少しわかるような気がした。

明日から盆を迎える。
まもなく終戦記念日を迎える。
戦後73年である。
戦争をしてはいけない。
戦争があったことを忘れてはいけない。
自分の考えというものをしっかりもって生きたい。
改めてそんなことを思っている。
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