ON  MY  WAY

60代になっても、迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされながら、生きている日々を綴ります。

「靖国への帰還」(内田康夫)を読む

2018-08-20 22:14:13 | 読む

この3月、私が好きだった、ミステリー作家内田康夫氏が亡くなった。
彼の作品で、最も好きだったのは、なんといっても「浅見光彦」シリーズである。
浅見光彦が主役となって登場する小説は、文庫本、新書判、単行本のどれかで必ず持っている。
このシリーズは、33歳で独身のルポライター、兄を警察庁刑事局長に持つ、という名探偵が主役である。
主役の浅見の推理、活躍がとても楽しいのはもちろんのことであった。
それ以外にも、その主役の浅見や浅見が出会う人々を通じて語られる、内田氏の価値観にはいつもかなり賛同するものがあった。

ところで、浅見光彦シリーズのような推理小説のほかには、あまり目立った作品がない。
今回読んだ「靖国への帰還」は、2011年に刊行された、珍しく推理小説ではない小説の一つである。
戦争にかかわる内容があるので、8月に読もうと思っていた。
主役は、昭和20年、海軍飛行士、22歳の武者滋である。
夜間飛行機「月光」に乗って、B29を迎撃したが被弾し、命からがらたどり着いたのは、なんと現代の厚木基地。
タイムスリップしてしまった彼を通して、靖国神社だけでなく現代社会が抱える様々な様相を浮き彫りにしている。

この作品で特に、大きくうなずいたのは、「命」「『覚悟』と『責任感』」に関して書いてある箇所であった。


 二十歳を越えることもなく、若くして逝った戦友たちの無念さ。彼らを失った国家の損失を思った。
 それは、戦争という抗し難い時代の流れによるものだが、この平和な現代に生きて、溢れるばかりの豊かさを享受しながら、「自殺サイト」などという、愚かしい現象に巻き込まれ、自らの命を絶つ者がいるという。
 それ以外にも、毎日のニュースを見ていると、驚き、呆れ、怒るしかないような事件が次から次へと起こる。親が子を殺し、子が親を殺す。意味もなく死に、意味もなく殺す者たちが後を絶たない。
(略)
 こんな病んだ社会を護るために、かつて、若者たちが命を賭して戦ったわけではないはずだ。戦争の愚かさとともに、若くして死ぬことの悲しさと虚しさを学んだはずの日本人が、平和の中でなぜ死んでゆかなければならないのか―武者はどうしても理解できそうにない。
 「生き返って」から三カ月間。武者は日本人の資質が昔と大きく変わっていることを感じ取っている。かつてあって、現在の日本と日本人に欠けているものは「覚悟」と「責任感」だと思う。
 何かを行うにあたっては、あるいは何もしないでいれば、そのいずれに対しても何らかの事態が発生することを、予め承知しておくべきだ。それを覚悟と呼ぶ。他人に害を及ぼせば、それと同等か、それ以上の害が我が身に及ぶことを覚悟してかかるべきだ。
 だが、実際はどうだろう。人を殺せば、自分も死を与えられると覚悟すべきなのに、人を殺しておきながら、犯した罪がばれて裁かれると、のたうち回って罪を逃れ、せめて死刑を免れようとする。
 そうして、なろうことなら、責任を相手や他人に転嫁しようとする。この責任感のなさは、国の行政機関に最も顕著なのだから、国民がそれに倣おうとするのは当然のこととも言える。


…人として生きるために大切なことは、昔であろうと現代であろうと変わりがないはず。

自他の命を大切にすること。
そして、自分の行いがやがては自分に返ってくるという覚悟をもつこと。
したことに責任をもつこと。

まさしく今の日本に必要な大切なことを、この作品を通じて内田氏が示しているように思えたのであった。

コメント
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