先日、埼玉で庭の草刈りをした時、フキだけは食べられるから、と刈り残した。
刈り残したフキは、全部ではないがよさそうなものを妻が茎を切って、新潟に持って帰った。
そのフキを調理するのに、筋を1本1本むいて食べられるようにするために妻は悪戦苦闘していた。
その結果、きゃらぶきや煮物にして、しっかりいただいた。
今でこそ抵抗なく食べられるようになったが、子どもの頃はフキが大きらいだった。
家の裏にはフキが生えていて、よく母がみそ汁の具に使ったものだ。
独特のあの匂いやえぐみがどうしても嫌いだった。
フキをくわえ、ストローのようにしてジュルジュルとみそ汁を吸ってしまうと、最後に地獄が待っていた。
かなり大きなフキだけが、とても食べられないような量、汁わんに残されているのであった。
食べ物は粗末にしない、出されたものはすべて食べる、というのがわが家のしつけであったから、鼻をつまんで泣き泣き食べたものであった。
吉田拓郎が10年近く前に出したアルバム「午前中に…」には、「フキの唄」というのが収録されていた。
僕はフキが大好きです 毎日でも食べたくなる
フキは茎だけでなく 葉っぱもとてもおいしくて
こんな歌詞があった。
これを聴いて、いやあフキは好きではないし、毎日食べたくはならないなあ…と思ったものである。
ただ、もう一度よく歌詞を聞いてみると、こんなことも歌っていた。
僕が子供だった頃 日本は貧しくひ弱で
お金もなく肩寄せあって生きていた
物が足りないのはみんな一緒だし普通だし
何よりも平和が大切でありました
そうなのだ。
貧しいからこそ、おいしくもないフキのみそ汁が結構連続して出てきていたはずだった。
この歌は、最後にこう歌っている。
人が生きる道もまた おいしい事ばかりじゃない
足りなくて 満たされぬ日が多くある
何かが足りない時も その事を受け止めたい
何もかも 求め過ぎずに おだやかに
…そうか。
吉田拓郎も、手放しでフキが好きなのではないのだな、とわかる。
なぜなら、「人が生きる道もまた おいしい事ばかりじゃない 足りなくて 満たされぬ日が多くある」と歌うからだ。
フキを食べても、足りなくて満たされぬ思いをしてきたのだ。
それでも大好き、ということで足りないことを受け止めて生きてきたのだな、と気付く。
何もかも 求め過ぎずに おだやかに
このフレーズは、今の自分の心境と重なっているなあ…。
改めてそう感じる「フキの唄」である。
今夜も、フキと麩の煮物をおいしくいただいた私でした。