ON  MY  WAY

60代になっても、迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされながら、生きている日々を綴ります。

33年前の同僚との再会

2018-08-28 18:14:26 | 生き方
日曜日、新潟に出て、ミニ同窓会のような昼食会を行った。
集まったのは(男性1人+女性3人+私)の5人で、久々の再会を果たした。
メンバーは、3分の1世紀前、つまり33年前の同僚だった皆さんである。
この顔ぶれで会うのは本当に久しぶりだ。

正確に言うと、私ともう一人の男性は、当時の同僚ではない。
ちょうどすれ違い。
34年前に私がその男性のしていた仕事の後釜のようにその職場に赴任したとき、3人の女性はそこに勤めて2年目だった。
ちなみに、その男性と女性の一人は、その後一緒になって現在に至っている。
今回この会を企画してくれたのも、このご夫婦である。

ほぼ同世代だったし、気のおけない同僚だったので、よく皆でいろいろ話をしたものだった。
私は、そこに勤めている間に、父が亡くなったり、途中から妻子と別居の単身赴任となったり、いろいろなことが起こったものだった。
ただ、若い人が多くて、活気のある職場だった。
主任クラスの人たちとは20歳近くも離れていることが多かったが、指導力のある人たちだったので、われわれ若い者たち(当時は)は、安心して仕事ができたのだった。

合唱指導が素晴らしかったM女史。
「ちゃんとお尻の穴を締めて歌いなさい。」などと、まったく恥じらいなく大きな声を出していたっけ。
「去年お会いしたとき、まだまだお元気でしたよ、たしか90歳近いと思うけれど…。」とのこと。
当時最上位の上位だったN氏。
よく若い人々の写真を撮って、それを同封した手紙をわれわれの実家に送ってくれていた。
「今年お会いしたけれど、懇親会では『オレの酒が飲めねえのか。』と、90歳くらいの今でもパワハラできるくらいお元気な様子でしたよ。」
あの頃、ガリ版で印刷物を作っていたけれど、そこに書かれた計画案などの文字が圧倒的に美しかった主任の中心、T氏。
よく気分転換の卓球に誘ってくれた、温かみのある先輩だった。
その2年後くらいに早逝したのだが、その後息子は途中で会社員をやめ、資格を取って試験を受け、父と同じ職業についた。
父同様に絵画指導が得意となり、専門誌に投稿、優秀な賞を受けた。

あの頃は、同年代の若さだったから、職場に残った方がよい仲間がたくさんいて楽しかったのだ。
当時は、宿直専門の管理員が勤務を開始する午後10時まで残って、一緒に仕事をすることが本当に楽しいことであった。
私も、単身赴任となってからは、もっぱら残って好きな仕事をした。
今のように、ブラックな気分など何もなかった。
それもこれも、若い人たちがたくさんいたからである。
自分たちの前5年、後5年くらいまでのいろいろな人たちがいたので、同僚として本当に楽しかったのである。
だから、あの当時別れの時を迎え、送別会の2次会が終わる時は、悲しかった。
若いメンバーで最後に「言葉にできない」(オフコース)を歌って別れるとき、私は、「これで、自分の青春が本当に終わりだ」と、強く感じたのを思い出す。
妻子持ちだったくせに…。

…話し出すときりがなく、思い出話に花が咲いた。

今回会ったメンバーは皆、現在は、(定年)退職後である。
定年の前に辞めた方もいるし、退職後も再雇用(再任用)して続けている方もやめた方もいる。
ただ、皆、以前のような重い責任感からは解放されている、と言っていた。
本当にそうだと思う。
もちろん、働いている人は、今している仕事に対しては誠実に勤めている。
だけど、同じ仕事であっても、あの頃は遅くまで残っていてもつらくはなかった、とやっぱり意見は一致した。


昼食をとって、食後のコーヒーを飲み、あっという間に3時間がたってしまった。
最後に、女性の一人から私たちに、おみやげをいただいた。
それは、その最後の青春の地、特産のものだった。


コメント
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