ON  MY  WAY

60代になっても、迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされながら、生きている日々を綴ります。

いくつになっても happy birthday ~吉田拓郎~

2023-02-28 19:47:02 | うた

昨年で音楽活動の一線から退いたシンガー・ソングライターの吉田拓郎氏。

近ごろまた彼のベストものやライブアルバムなどを聴きたくなって時々聴いている。

一時期、新作のアルバムを出しても買わないときがあったけど、.その頃に出た曲も今は新鮮に聴ける。

そんななかで、今、力を抜いて聴けるのが、「いくつになっても happy birthday」。

 

誕生日がやって来た

祝おうよ今日の日を

良かったネ 元気だネ

おめでとうをおくりましょう

いくつになっても happy birthday to you

いくつになっても happy birthday to you

 

こんなふうに始まる歌。

ライブでもよく歌っていたから、本人も気にいっていた曲なのだろう。

2001年3月発売の吉田拓郎氏の通算48枚目のシングルなのだそうだ。

発売は、もう22年も前になるのだなあ。

 

大きく言って2番まであるのだが、1番と2番の間に、特別にこんな部分があるのがいい。

 

いろんな事があったでしょう

人にかくれて泣いたでしょう

 

誕生日を迎えるのは毎年のことだけど、人は、毎年喜怒哀楽いろいろな経験をして、また新たな誕生日を迎えている。

たしかに、「いろんな事があった」し、「人にかくれて泣いた」こともあっただろう。

そこをわかってくれるこの部分があるのが、たまらなく、いい。

 

そして、2番。

 

ケーキにローソク立てて

皆で乾杯しよう

くじけないで頑張る君

勇気に拍手おくろう

 

と歌う。

ありがとう。その拍手にこちらこそ勇気をもらう気分になる。

いくつになっても happy birthday to you」のくり返しの後、

 

人生の主役は君

幸せ運ぶのも君

いつまでも変わらずに

元気でいてくださいネ

 

と続く。

そうなのだ。

人生の主役は、それぞれ、自分なんだよ。

幸せを感じられるのは自分なのだから、幸せ運ぶのも自分なのだ。

自分しだいなのだと、改めて確認させて教えてくれている。

 

そして、「いつまでも変わらずに 元気でいてくださいネ」だよ。

最高の贈る言葉だなあ、と思う。

いつまでも変わらずに」は、そのままの自分でいいということ。

自分をわかってもらえていると感じられる言葉だ。

元気でいてくださいネ」は、こちらの身を案じてくれているとわかるうれしい言葉だ。

 

ラストに、「いくつになっても happy birthday to you」のくり返しを今までの倍の4回。

本当に祝ってもらえている気になるのである。

齢をとったせいか、以前に比べて本当にいい歌だと思う今日である。

 

それもそのはず(?)

It’s my birthday,today.

 

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福寿草の花開き、しあわせな気持ちに

2023-02-27 20:17:42 | 草木花

珍しくいい天気になった。

朝から太陽がまぶしく照っていた。

ここのところ、ずっと曇天で、雪がちらつく日が続いていた。

それでも、2月も月末になると、雪が積もってもとけるのが早い。

 

暖かかった1月から顔を出していた福寿草も、つぼみをふくらませてきていた。

2,3日前には、そのつぼみの先が黄色くなっていた。

 

今朝、このあと気温が上がって、そして陽射しが当たれば、今日は咲くかもしれない、と期待した。

 

すると、思ったとおり。

陽光が当たって、つぼみが開き始めた。

 

1時間もすると、だいぶ開いていた。

 

ああ、いいなあ!

この黄金の輝き。

見るからに明るく、早春に輝く姿は、見る人を幸せな気分にしてくれる。

 

さすが、福寿草。

「幸福」と「長生き」が一緒になった漢字が使われたその命名。

よくぞ付けられたものだ。

この黄金色の輝きを見ると、春が来るそー、という気分になる。

 

春の訪れを告げる、福寿草の花。

幸福な気分をくれて、ありがとう。

 

午後になって、日陰になったら、またつぼんでしまった。

つぼんだりひらいたりを繰り返して、長く咲いていてほしい。

明日も晴れると、天気予報。

明日も、福寿草の花に、幸せな気分にしてもらおう。

 

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難敵の広島から、2023年J1初勝利! ~第2戦 アウェイサンフレッチェ広島戦~

2023-02-26 20:09:27 | アルビレックス新潟

難敵サンフレッチェ広島から、アウェイで勝利をもぎ取った!

6年ぶりのJ1での勝利。すばらしい!!

 

試合後、キャプテン堀米は、コメントをツイッターにあげている。

J1でひとつ勝つことの難しさ、大変さを感じるゲームでした。

だからこそ勝ち点3を取れたこのチームを誇らしく思います。

課題を改善し、次の試合に向かいます!

ビッグスワンで会いましょう🤝

 

「J1でひとつ勝つことの難しさ、大変さを感じるゲーム」

本当にそうだったと思う。

 

試合前のスタメン発表では驚きがあった。

開幕戦先発だった小見、途中出場した新井が、ベンチ入りしていない。

昨年同様に、メンバーが固定されていない、松橋監督流。

DFに舞行龍ではなく、トーマス・デン。

ボランチに、島田ではなく秋山。

右ウイングに太田修介。これは、J1初先発。

1トップに谷口ではなく鈴木孝司。

 

だが、このメンバー変更が見事に当たった試合でもあった。

試合開始から、広島はハイプレスで強いプレッシャーを与えてきた。

新潟は、なかなかボールを持てない展開が続いた。

でも、慣れればきっと打開できるはず。

初めの15分で失点しなければ何とかなるだろうと予想した。

すると、思った通り。

 

前半14分、伊藤からのパスを受けた三戸が、鋭い動きで左から中央に切れ込んでいくと、相手DFのタックルで転んだが、そのこぼれ球に素早い反応を見せた太田。

迷わず左足でシュートを放つと、ボールはネットに突き刺さった。

新潟先制。

 

ここで試合の流れが変わった。

新潟がボールを保持する展開が多くなった。

広島に早く追いつきたいという焦りが生まれたせいか、新潟の鋭い攻撃の場面もよく生まれた。

前半37分、鈴木から伊藤にスルーパス。

伊藤は前線へと持ち上がると、右の太田はにパスを送る。

エリア中央へマイナスのパスを供給すると、走り込んだ鈴木がゴールに流し入れるように追加点を決めた。

前半のスタッツを見ると、シュート数は五分ながら、ボール支配率も新潟が上回るようになっていた。

ところが、後半開始から広島が一度に3人を替えると、流れは再び広島へ。

新潟のパスがつながらなくなり、何度も何度も攻め込まれた。

そのたびに、GK小島のすばらしいセーブに救われた。

 

後半の79分には、広島がFKからはね返されたボールを、塩谷がペナルティエリア手前からダイレクトでボレーシュートを放つと、ゴールに突き刺さり、1点差となった。

そこからが長かった。

VARが何度かあったせいか、アディショナルタイムは「+7分」の表示。

それが次には「+10分」に変更された。

そのたびにハラハラ。

でもよく守って、試合終了。

2-1で、新潟6年ぶりのJ1で初勝利!

アウェイ2試合で、1勝1引き分けで負けなしとは、すばらしいスタートだ。

 

1ゴール1アシストの太田修介選手のインタビューが印象的だった。

松橋監督からは、「自分が何者なのか、示してこい」と言われたのだそうだ。

「この舞台に立つまでにすごく時間がかかったのだが、なんで来れたのか表現しようと思った」と心中を語っていた。

よくやった!さすが期待の新戦力!!期待にたがわぬ大活躍!!!

後半のスタッツを見ると、攻撃的なチームを趣向する新潟が、なんと後半のシュートはゼロであった。

広島は後半だけで17本も打っていた。

チーム全員でよく防いだと言える。

太田選手も、「後半は防戦一方だったので、課題が残った」とも言っている。

 

松橋監督は、以前から、「J1の強いチームとやることで、ますます自分たちが成長できる」と語っている。

だから、きっとこれから選手一人一人がもっともっと成長していくことだろう。

 

次節は、待望のホーム開幕戦。

コンサドーレ札幌を迎え、どんなドキドキワクワクする試合を見せてくれるだろう。

これからが大変楽しみになった、久しぶりのJ1初勝利であった。

 

Visca Albirex !!

 

 

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読みながら大学の卒論が書けなかった日々を思い出した ~「あの歌詞はなぜ心に残るのか―Jポップの日本語力」(山田敏弘著;祥伝社新書)を読んで~

2023-02-25 21:12:20 | 読む

本書を読みながら、自分が大学を卒業するために書いた「卒業論文」のことを思い出した。

私がいた学科では、大学を卒業するために、卒業論文は必修科目であった。

卒業論文を書いて、ABCDの評価のうち、少なくとも「C」を取らないと単位が取れないというわけだ。

論文は、300字詰めの大学の原稿用紙に100枚以上書くことが求められた。

あの当時は、パソコンなどなかったから、全部手書きだった。

手書きはまだいいとしても、中身に何を書くか、それが最も大変で大事だった。

 

テーマを決めるのも、内容にどんな主張を込めるのかも、中身の薄っぺらな私には、とても大変だった。

自分が選んだテーマは、「日本語と日本文化」であった。

島国である日本には独特の文化がある。

どんなところが独特なものなのか。

その独特さは、日本語のどのようなところに現れているのか。

そんなことを書くつもりだった。

 

ところが、途中でゼミの教授に30枚下書きを提出しろと言われたが、結局書けなくて出せなかったのだ。

言いつけに従わなかったら、教授にはこう言われた。

「ぼくはもう君たちの面倒は見ない。君たちの卒論、あとは学科長会議に任せるだけだ。卒業できるかどうかは、学科長会議で決めてもらうだけだ。勝手に書いて出しなさい。」

一瞬で顔が青くなった。

30枚でさえ書けないのに、100枚書いて提出しなくては、大学を卒業させてもらえない。

これは厳しい仕打ちであった。

しかも、書いて出したからと言って、卒業できるかどうかはわからない。

少しだけ気休めになったのは、それを言われたのは、私だけでなく私を含めて3人が、一緒にそう言われたという事実だった。

3人とも、とにかく必死になって(?)それぞれ、自分なりに100枚の卒論を書いた。

原稿用紙100枚をこえるだけのものをなんとか書いて提出したときはほっとした。

…さいわい、春には3人とも「C」をもらえ、卒業はできたのだった。

 

思い出話になってしまったが、文頭の本の趣旨は、Jポップを理解するには、日本語ゆえの表現に着目してほしい、ということだった。

日本の歌には「助詞力」が必要だと、著者は言っていた。

たとえば、ZARDの「あなたを好きだけど」という曲には、

「あなた好きだけど」という表現も「あなた好きだけど」という表現もあるが、どう違うのか、どういう効果が出てくるのかについて述べている。

沢田研二の「勝手にしやがれ」では、

「壁ぎわ寝がえりうって」と歌っているが、

「壁ぎわ寝がえりうって」とどう違うのだろうか。

「壁ぎわ寝がえりうって」だと、壁の方に向かって背中を見せる、という意味になり、行動に意味がある。

「壁ぎわ寝がえりうって」だと、単に壁ぎわで寝返りをくり返しているだけで、深い意味はない。

…など。

 

そして、補助動詞の「…ていく」「…てくれる」、「…ておく」「…てみせる」なども、日本語独特の表現。

同様に、接続助詞の「と」「ば」「たら」「のに」「けど」なども、意味を深める働きがある。

渡辺真知子の「かもめが翔んだ日」では、

人はどうして哀しくなる 海を見つめに来るのでしょうか

と歌う。

この「」は、繰り返す日常を表す意味がある。

…など。

 

こうした日本語特有の表現が、Jポップ独特の表現となって、日本人の心に歌が入り込む。

だから、魅力を感じる歌のどんな表現にひかれるのか注目して聴くと面白い。

そういうことを著者は言いたかったようだ。

 

ただ、私には、内容の一つ一つよりも、日本語独特の表現に着目するということが、私自身の卒論を書いた40数年前の経験に重なった。

読みながら、たびたび懐かしい、いや恥ずかしい思いに浸っていた。

あわや卒業できないかも、というゼッペキに立っていた日々を…。

 

 

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県内のマラソン大会も続々開催復活、3月4月に3大会出場を決める

2023-02-24 20:43:28 | RUN

感染症禍で、RUNの大会も2020年からこの3年間、開催中止が続いた。

たとえば、

3月の新潟ハーフマラソン、4月の笹川流れマラソン、5月の白根ハーフマラソンなどは、自分にとっては、4年前までの定番のマラソン大会だった。

いずれも、ハーフマラソンを走り、2018年や2019年には自己ベストが出せるようになったのだった。

それが、2020年にこのパンデミックになってから、ほとんどの大会が中止になり、その間に自分の体調も落ち込んできた。

昨年からは、自己新記録を出すことは考えずに、楽しくゴールにたどりつけばいい、という走りをすることにしている。

 

今年になったら、今まで過去エントリーしながらも中止になっていた大会が、続々と開催を再開した。

 

☆3月19日(日)新潟ハーフマラソン

☆4月  2日(日)笹川流れマラソン

☆4月15日(土)燕さくらマラソン

★5月14日(日)白根ハーフマラソン

★5月21日(日)柏崎潮風マラソン

2週間に1度というのは体力的に厳しいかもしれないが、上記の最初の3つのマラソンについては、迷ったがエントリーした。

2週間ごとにハーフマラソンを走る。

そんなことが66歳の練習不足の自分に、どの程度できるか、試してみることにした。

体調がきつくなったら、参加料がもったいないなどと考えずに、出場を取りやめることにしよう。

そんなことで、5月の2つはまだ様子見。

 

迷ってもエントリーしたのは、だんだん走れなくなるのを感じているから。

悔しいことだが、5年前ならやれていたのにできなくなってきていることがあったりする。

だけど、ちょっと高齢化に抗いたいのだな。

まあ、無理のない範囲で3つのハーフマラソンにチャレンジしてみよう。

 

 

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娘よ(96) ~3,555日ぶり復活の日~

2023-02-23 19:37:06 | 生き方

その日、朝7時半の路面は圧雪になって凍っていた。

スピードは出せない。

場所によっては、一部とけていて、車がガタガタ揺れる。

悪路となっているから、スピードは出せず、車間距離は詰まる。

坂道を下るときには、何度も短くブレーキを踏む。

凍り付いたつるつるの路面上で、踏むたびに車は「ガガガガ」と音を立ててがんばってくれているのが分かるが、さすがに怖さがある。

怖い思いをしてまでも朝のこの時間に車を出さなくてはいけない理由がある。

世間一般の人は、出勤の時間である。

出勤、そう、つまり仕事をするためだ。

 

私?

いや、仕事をするのは私ではない。

私は運転手役。

助手席に乗っている人を職場に送るために、この時間に車を運転している。

今日が初出勤。

悪路ではあったが、無事に目的の場所に着くことができた。

 

初出勤のために助手席に乗っていたのは、…わが娘だった。

娘が、ついに社会復帰を果たす日が来たのだった。

10年前に病に倒れ、1年4か月も入院した娘。

つらくかなしくきびしかった毎日。

そのことについて、ここではずっと表題に「娘よ」をつけて書いていた日々があった。

退院以降も、ずっと自宅で療養生活が続いていた。

今回、去年の6月以来、本当に久しぶりで「娘よ」を書いている。

 

記憶障害は完全になくなったわけではない。

今も2か月に1度は通院し、朝晩多種の薬を服用している。

だが、日常生活における支障はかなりなくなった。

体力や運動能力も、昔ほどの動きではないがかなり回復し転ばなくなって久しい。

先日2回も雪道で転んだのは、一緒に散歩していた私の方だ。

 

本人にも働くことへの意欲が高まり、去年の夏ごろから、働けそうなところの求人募集を見て応募し、面接に行くなどのチャレンジを始めた。

さすがに、終日勤務はきついし、1週間(5日間)勤務もまだきつい。

だから、あまりに複雑な作業はなく、1日4,5時間で、週に何日か休めるような仕事を求めていたのだった。

やはりネックになったのは、履歴書にこの10年間の職業履歴がないことであった。

正直に病気のことを言わなければならず、それが毎回採用されない主な理由のようであった。

今回の職場にも正直にそのことを伝えたので、だめかなと思っていた。

ところが、それでも採用してくれた。

これは、障がい者枠というわけではない。

ごく一般人としての普通のパートとしてであった。

ありがたいと思う反面、いざ採用となると、本当に大丈夫だろうか、と少々心配になった。

 

 

さて、無事に勤められるのだろうか?

求められる仕事はできているのだろうか?

職場に送り届けて家に帰ってきたが、われわれ夫婦は娘のことがずっと気になって仕方なかった。

 

やがて、勤務時間終了の時間となるので、今度は妻が娘を迎えに行った。

疲れた顔も見せずに帰ってきた娘の顔を見て、ほっとした。

遅い昼食を食べながら、仕事の話をあれやこれやとする娘の様子に、ひと安心したのであった。

 

退院してから、娘は毎日を家で生活してきた。

だが、まだ真の復活ではないと思ってきた。

社会復帰できてこそ、復活。

家ではない場所で働けることは、まぎれもなく社会復帰を果たせた、と言ってよいだろう。

かつての職場で倒れ救急車で運ばれてから、長い年月だった。

あの頃は「アラサー」だったのに、今は「アラフォー」となってしまった。

後ろを向いたらきりがないが、今は素直に喜ぶことにしたい。

そんな娘の3,555日ぶりの社会復帰、復活であった。

 

 

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「遺言 野村克也が最後の一年に語ったこと」(飯田絵美著;文藝春秋社)を読んで

2023-02-22 19:17:29 | 読む

 

好著だ。

 

野村克也氏は、プロ野球に選手としても監督としても偉大な業績を残した方だ。

その言動に注目が集まるようになったのは、解説者として実に専門的な話をしていたころから。

そして、監督として弱小チームを強くする力量をもち、どのように強くしたか、どんな理論を持っていたかが書かれた本は、読んでみるとどの本も読みごたえがあった。

書かれた言葉は、経験に裏打ちされた重みがあって好まれている。

それゆえ著書も100冊を超えているはずだ。

中には、名言集や格言集の類だってある。

そんな重みのある言葉を数多く発した野村氏が亡くなったのは、妻の沙知代氏を喪ってから2年余りでしかなく、実に短い時間だった。

本書は、野村監督時代にヤクルトスワローズの番記者だった著者が、沙知代氏を喪って気力も体力も失った野村氏と交流しながら、野村氏の生き様と最後の一年を綴ったものである。

 

あれほど素晴らしい強打者であり、指導力のある監督であり、野球人として成功を収めた野村克也氏。

なのに、本書には多くの人から敬愛されていた彼が、自分には人望がない、とずっと思い込んでいる姿が描かれていた。

「好かれなくても良いから、信頼はされなければならない。嫌われていることを恐れている人に、真のリーダーシップはとれない」

そんなリーダー哲学をもっていた野村氏だったが、監督業から離れた後、妻を喪うと、その哲学を通してきた副作用が深い孤独となって彼を襲ったのだった。

 

著者は、駆け出しの記者の頃、野村監督に暴言を吐かれて1年も無視された経験もあった。

だが、野村氏の人間性を理解した著者は、生気を失った彼のために行動を起こした。

野村氏の「究極の望み」に、以前気付いたことがあったからだ。

それは、「人を残す」ということだった。

 

「人生の中で何を残したのか。それによって、その人の価値というものが決まる。ワシはそう思っている。財産、仕事、人があるとしたら、やっぱり大切なのは、人だろう。そう思わんか?ワシは<財を残すは下、仕事を残すは中、人を残すは上とす>を座右の銘としてきた。しかしワシは、何を残したんやろな」

 

野村氏に今改めて「人を残した」という確信を持ってもらうために、著者は行動を始めた。

最初は、月に一度の野村氏との食事会に始まった。

そこから様々なことを聞き、野村氏本人の思いを引き出そうとする。

「番記者」との「同窓会」、コーチとの同窓会、ヤクルトの選手たちとの同窓会…。

著者は、そんなことを次々に企画し実現させて、「人を残した」思いを野村氏に抱いてもらうことに成功したのだった。

 

本書は、そんな最期の1年のエピソードの合間に、野村氏の野球人生での歩みをはさんでいく。

彼は、テスト生から出発して一流選手にまでその地位を向上させていったすごさを持っているというのに、選手時代も監督時代も、そしてその後も、自己肯定感が低いままであった。

そして、スター選手だった長嶋氏や王氏に対するコンプレックスをずっと持ち続けていた。

人から愛されたい、愛されているという実感を得たい、そういう願いが人生でずうっとあったように見える。

 

それは、貧しさの中から生まれていた。

若くして夫を亡くし、幼い子どもたちを守り、老いた舅と姑を支えて64歳で人生を終えた野村氏の母。

貧しくても苦労をしても、弱音を吐かずに生きた母の背中を見て育った彼は、33歳のときに母を喪っている。

 

野村の生きる基準は、常に母だった。人に迷惑をかけると、母は悲しむ。それなら、人の役に立てば、母は喜んでくれるのだ―。

「自分が選んだ野球という仕事で、何か、人さまの役に立ちたい」

亡き母に誓った思いは、やがて「人を残したい」という具体的な目標に結びついていった。

 

 

本書をずっと読み通して、思う。

彼は、母の愛がほしかった。

貧しい子ども時代、もっと母の愛がほしかった。

だが、貧しさはそれをさせなかった。

母は、生きるために精一杯働いていたのだった。

それを見て育った彼は、働くことに精一杯の精力を傾けた。

それが野球だった。

人生の中で、母の愛に近い愛を得ることができた。

それが沙知代氏だった。

彼を丸ごと包んで愛してくれる愛だった。

自分を丸ごと包んでくれる愛をほかに見いだせないから、彼女の死後、自分には人望がない、とつぶやくばかりになっていたのではないかと思う。

だが、著者の尽力によって、彼は「人を残した」という実感をいくばくかでも得ることができたはずだ。

 

本書によって、野村克也氏は、「すごい人」から「弱い老人」にまでなり下がる。

だが、その真の姿を知って、なおさら人間味が深くなって、好感が持てた。

こうして寄り添って、彼の最期の一年を書き記しながら、その人生もたどってくれる本書。

彼の人生を教えてもらいながら、自分の人生についても考えてしまう。

 

やはり、好著だ。

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「10years」(渡辺美里)の歌が前と違って聴こえる

2023-02-21 20:55:16 | うた

あれから10年も この先10年も 

行き詰まりうずくまり駆けずり回り

この街にこの朝にこの手のひらに 

大切なものは何か 今も見つけられないよ

 

渡辺美里の「10years」。

全部を聴くと、失恋の歌だとは知っている。

だけど、いつも愛や恋とは違う思いでこの歌が聴こえていた。

自分にとっては、時間が過ぎたなあと思うとき、いつも頭の中に流れる歌だったのである。

 

あれから10年も この先10年も

 

この部分を聴くと、いつも時の流れの速さを思う。

あっという間に10年がたってしまった。

きっと同様に、この先の10年もあっという間に過ぎていくことだろう。

そんなことを思うのだ。

10年たっても、自分は何も変わっていないし、これからも大きく変わることはないだろう。

そんなことを思ってきた。

 

最近は、少しこの歌の聴こえ方が変わってきた。

「あれから10年も」が、時間が早く過ぎたという意味で、変わらない。

だけど、「この先10年も」を聴いて思うことが違うのだ。

この先10年、生きているのだろうか?

そんなことが、頭の隅をよぎるようになってきたのである。

 

私の年齢が、父の享年からあっという間に10年。

そして、母の享年まで10年を切ろうとしている。

さて、自分の人生は、いつまでだ?

確かにずっと人生は、「行き詰まりうずくまり駆けずり回り」の連続できたよなあ…。

そこに付け足して、10年といえば、娘が突然の病に倒れてからの年数にあたる。

まさに、「あれから10年」…。

そんなことなどを思うようになったから、聴こえ方が変わってきたのだろう。

 

生きているか?

そんなことは考えずに、この先10年も、

行き詰まりうずくまり駆けずり回りながらでいいから、ゆっくり生きていくことにしよう。

この街に この朝に この手のひらに 大切なものを1つ1つ見つけながら。

 

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戦争を知るマンガ家が描いた漫画が見られなくなっていく

2023-02-20 20:31:16 | 読む

数日前に、マンガ「はだしのゲン」が問題視されて、広島市教委の平和学習教材から外されたというニュースがあった。

理由は、被爆の実相に迫りにくいから、だという。

原爆の恐ろしさを伝えるのに、このマンガは適してていると思うのだが、何が問題なのだろうと思ってしまう。

市教委が設置した会議では、教引用された漫画の場面が「浪曲は現代の児童の生活実態に合わない」「コイ盗みは誤解を与える恐れがある」などの指摘が出ていたという。

そうかなあ。

それらの描写自体が時代を表しているのだと思うのだがなあ。

授業で使うことで、戦争の悲惨さを知ったり、類似した作品を読むきっかけになったりして、子どもたちの学習が広がるはずだとも考える。

 

間もなく、ロシアのウクライナ侵攻から1年になろうとしている。

これは「侵攻」というだけでなく、間違いなく侵略であり、戦争になっている。

戦争は、人をゆがめ、人を殺すという行為が当然のこととして行われる。

人々の生活をすべて変えてしまう。

 

かつて日本もその過ちをおかして、多くの人が亡くなり、多くの人が悲しみ、多くの悲惨な思いを味わってきた。

私たちが生まれた時代は、今から思うと戦争が終わってから、まだ10年あまりしかたっていない時代だった。

その時代にマンガで表現する文化が発達し、私たちは、子どものころからマンガに親しんできた。

多くの楽しいマンガの中に、戦争を扱い、戦争がどれだけ悲惨なものか、を教えてくれるものもあった。

 

それらは、戦争を経験してきたマンガ家によって描かれていた。

だから、実体験を通してのものが多く、嘘や誇張はなかった。

中沢啓治や水木しげる、手塚治虫らの作品には、自分が味わいたくなくても味わわざるを得なかった戦争の実態が描かれていた。

だから、マンガではあっても、それらを読んで、絶対に戦争はいけないと思ったのだった。

 

先日、図書館からは、単行本だがマンガの本を借りてきた。

「平和をわれらに! 漫画が語る戦争」(水木しげる、手塚治虫、藤子・F・不二雄、石ノ森章太郎;小学館(2014年刊))

「ぼくの描いた戦争」(手塚治虫;KKベストセラーズ(2004年刊))

 

戦争を知る一流のマンガ家たちが描いた作品たちには、現在巷にあふれているマンガとは違い、作品自体に重みがあった。

このような、戦争を知るマンガ家たちが、次々と鬼籍に入っていく。

そのことが残念でならない。

 

今日も、「宇宙戦艦ヤマト」や「男おいどん」を描いた松本零士氏の訃報が流れていた。

松本氏の父は、陸軍の軍人で、フィリピンの戦線に派遣されたが、教育隊長として若者を特攻に送り出していたとのこと。

そして、終戦後、生きて帰国したが、

「あんたはなぜ生きて帰れて、部下だったせがれを連れて帰ってこなかったんだ」

といろいろな人に言われた。

その父が、深々と頭を下げて『すまん』と言っている姿を何度も見たという。

松本氏は、その父から、くどいくらい言われたのは、「もうこのような戦いを二度とやってはダメなのだ」ということ。

なぜこんなに多くの人が死んだのかいうことを、さんざん聞かされたと話していたそうだ。

彼も、平和や戦争に対する思いを抱いていたマンガ家であった。

そんな人が、また一人亡くなったのが残念だ。

 

戦争を知るマンガ家が描いた漫画が、どんどん見かけなくなっていく。

一方で、現在、ロシアの侵攻、中国や北朝鮮の脅威などから、平気で防衛力強化とか反撃能力強化とかの理由で防衛費予算が急激に膨らんでいこうとしている。

それにつれて、かつての戦争の怖さや悲惨さが、架空のことになっていきそうで怖いとも感じるのである。

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「降り積もる光の粒」(角田光代著;文藝春秋社)

2023-02-19 20:43:13 | 読む

角田光代さんのエッセーは、「なんでわざわざ中年体育」を皮切りに何冊か読んできた。

 

「なんでわざわざ中年体育」(角田光代;文藝春秋)を読む - ON  MY  WAY

この本を読んでみたかったのは、スポーツ誌「NumberDo!」にかつて連載されていたエッセーをまとめたものだと知っていたからだった。誌上で率直な文章が、非常に読...

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今回読んだのは、旅に関するエッセー集である。

旅に特化した彼女のエッセー本は、読んではいなかった。

だが、今から思えば、単行本や文庫ではなくても彼女の書いたエッセーは、実はよく見かけていたのだ。

たとえば、新幹線に乗ったときに、「トランヴェベール」というJR東日本が発行する社内サービス誌が置いてあるものだったが、旅に関する雑誌といってもよいものだった。

それをめくってみると、よくこの角田さんの書いたコラムが載っていたものだった。

 

この「降り積もる光の粒」は、そのトランヴェベール誌や他の雑誌等に掲載された、旅に関するエッセーを集めた本である。

内容のまとまりでいうと、4章からなっている。

◆第1章「旅先で何か食べるのが、私はよほど好きなのだ」

ここでは、自分なりの旅の楽しみ方、感じ方が書かれている。

特に、不便さを楽しむということが書かれてあり、いろいろな面からそのよさや面白さが披露されている。

また、彼女は、運転免許証を持っていないので、車を使わないで旅をするのが普通なのだそうで、それゆえにいろいろな不便さを味わい、困ることもあるのだろう。

だが、だからこそ面白いらしい。

「困っていると、必ず神様が現れる」なんていうのは、多くの旅をして困った経験がなければかけないことだろう。

◆第2章「旅には親役と子役がいる。年齢や関係じゃなく質だ」

◆第3章「旅と本に関しては、私には一点の曇りもなく幸福な記憶しかない」

ここまで、それぞれ2,3ページでしかないエッセーが次々と展開され、彼女独特の旅に関する経験や思いが綴られている。

どこからどう読んでも、のほほんとした雰囲気で楽しく読めた。

 

ところが、この本は、最終章の第4章でその雰囲気は一変した。

◆第4章「彼女たちは、母親の世代からずっと、ひどい仕打ちを受けているという意識はあった」

NGOの団体である「プランジャパン」の依頼を受けて、世界各地で女性ゆえの被害を受けている人たちを取材する旅に出たときのことを書いている。

この章は、アフリカのマリ、インド、パキスタンなどに行ったときのことを綴っているので、文章は2,3ページではなく、何ページにもわたっている。

マリでは女性器切除の習慣廃止の活動、インドでは人身売買や性的搾取の被害にあっている女性たちを保護するシェルターの活動について、それぞれ現地で女性たちを取材し、その置かれている状況やNGO団体の活動について書かれてある。

日本に住んでいると、そんな状況におかれている女性たちがいることなど信じられない。

だが、本書を読んでその現実を知り、本当に驚いた。

 

行ってみないとわからないのが、旅。

行ってみて初めてわかることが多いのが、旅。

そうやって、旅に出て旅を終えたときに、気がつくと自分の中にキラキラと光を発しながら降り積もっている光の粒を見つけるのだという。

 

第1~3章の、とるに足らないような旅に関する小さな事柄の豊かさ。

第4章の、今なお残る女性の人権の厳しさ。

いずれも、旅したからこそ書けたことだ。

読む人にも、キラキラと光の粒が降りてくるような気がした。

 

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