ON  MY  WAY

60代になっても、迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされながら、生きている日々を綴ります。

浄土平から鎌沼周辺ハイキング

2014-07-28 22:30:37 | お出かけ
入院している娘のところには、1日1度は会いに行ってあげたいと言う気持ちがある。
だから、われわれ夫婦のお出かけも、遠出もしにくくなっている。
なかなかままならない状態である。

だが、今は夏。山は花見のシーズンである。
本来なら、気軽に登れて、きれいな高山植物をたくさん見られるところに行きたい時期なのだ。
梅雨も明けず、毎日荒天が続いていたのだが、先週の3連休では最終日が晴れそうだという予報を聞いた。
1日くらい出かけたい。
そこで、われわれが選んだのは、福島県・浄土平の鎌沼周辺歩きであった。
海の日なのに、山に出かけた。
天気予報は、くもり、であったけれど、たくさんの花との出会いが楽しみだったのである。

磐越道に乗り、猪苗代磐梯高原ICで降りる。
国道115号線に乗って、しばらく行くと、浄土平に続く道につながる。
その道は、少し前まで磐梯吾妻スカイラインと言って有料道路だったのだが、昨年から無料になった。
浄土平の駐車場は有料だったが、料金は以前より安くなっていた。
天気は一部に青空も見えたが、くもりと言えた。
鎌沼への道は、一切経山への登山口と共通する。
登山道の始まりは、数日間天気が悪かったせいか、上方から水が流れていた。
周辺には小さい白い花のかたまりが。

イソツツジという花であった。

登り始めると、10分もしないうちにゴゼンタチバナが現れた。

やがて、シラタマノキの花と思われる花が。

そのさらに10分後には、とてもかわいいアカモノの花がたくさん見かけられた。

最も多かったのが、マルバシモツケの白い花。

ここまで、ずっと白い花ばかりであった。
途中せっかくハクサンチドリを見つけたが、もう枯れかかっているものだった。

40分後、少しずつ登っていくうちに、ツマトリソウをいっぱい見かける地域になった。

このあたりには、イワカガミもちらほらと残っている。

また、マイヅルソウも見かけたりする。

やがて出発して55分後、上りは終わり、酸ヶ平と呼ばれる平らな湿原地帯に入る。
木道が敷かれているが、直進と右折に分かれる。

右に曲がれば、一切経山の登山コースである。
一切経山の山頂付近からは、「魔女の瞳」と言われる五色沼を見下ろすことができる。
以前一度見たことがあるが、魅力的な眺望が待っている。
だが、今回のわれわれの目的は、花見であって、登山でも「沼見」でもないのである。
なので、酸ヶ平を直進していく。
足元の木道の左右には青いミヤマリンドウがそこかしこに咲いていた。

茶色い花のネバリノギラン、ホソバノキソチドリ

と思われる緑色の花も多く見かけた。

間もなく左側に沼が見えてくる。
これが、鎌沼だ。

この鎌沼周辺では、ゴゼンタチバナやカラマツソウ、ワタスゲなども見つけた。

ただし、残念なことに、今年はコバイケイソウの花は見られなかった。
そして、鎌沼周遊も終わるころ、楽しみなのは、運が良いとある高山植物の花が見られる地域がある。

これは、言わずと知れたチングルマの咲いた後である。
雪解けの後咲くようなので、今では遅いのだが、毎年いくつか咲き残っている花があるものだ。
だが、今年は、咲き残りは少なく、おまけにやっと見つけた咲いている花は、木道からは遠かった。

(どれが花かわかるかな?)

出発して1時間50分後、姥ケ原という分かれ道に達した。
ここからは、下り道になる。
足元は、数日間の雨でドロドロの状態であった。
そこを苦労しながら下りていく最中、雨が降り出した。
安いレインコートしかもっていかなかったのだが、それを着てひたすら下山する。
アカモノやツマトリソウ、マイヅルソウ、ゴゼンタチバナなどが時折目を楽しませてくれた。
足元が道なのか小川なのかわからないようなところもあった。

が、およそ2時間半余り歩いて、この鎌沼周辺ハイクを終えた。
浄土平には、浄土平ビジターセンターという周辺の自然を紹介してくれる施設がある。
この日は、浄土平一帯の花の写真が図とともに展示されていた。


一切経山は登らなかったが、花見をするには、鎌沼1周ハイキングは最適だ。
歩くことがあまりきつくなく、高山植物が種類多く見られる。
もう1週間早ければ、きっともう少し見られた花の種類は増えたことだろう。
雨には当たってしまったし、足元のぬかるみもあってすそは汚れてしまったが、とても楽しい花見ハイクであった。
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娘よ(52)~とまどいの再入院

2014-07-27 13:58:08 | 生き方
娘を車に乗せて、久しぶりのR病院に着いた。
駐車場に車を止めて、病院の入口に向かう時、娘に「見覚えがあるだろう?」と聞いてみると、「ある」との返事が返ってきた。
受付で再入院の手続きをとった。
前にいた病院に再入院と言っても、様々な変化があり、娘だけでなくわれわれも違う病院に入院したような感覚になっている。
まず、以前いた病棟に戻るのではなく、今度は以前に比べ元気な人が多い病棟に入ることになったことだ。
この病院でお世話になる主治医も変わることになった。
主治医や看護師と面談を行い、4人部屋の病室に入ったが、入口近くなので外の景色も見えない。病室の作りも違う。
食事のとり方も、今度は、ホールに行ってそこで他の患者さんたちと一緒になって食べることになっている。
献立をメモしながらゆっくり食事をしていた娘としては、周囲の人の食べ方が早いので、落ち着かないようだ。
まだ足元がふらふらしているから、と、トイレに行くときもコールを押して人を呼ばなくてはいけないことになった。
上に上がるとナースコールとなるマットが敷かれることになってしまった。
ちょっとしたストレスである。

こんな環境で、新たな入院生活が始まり、リハビリも行っているが、娘はまだひたすら眠いのだと言う。
そのせいか、多少もうろうとしたまま時間が過ぎているようで、作業療法、言語療法、理学療法と3種類のリハビリが毎日行われているようだが、何をしたのか聞いてみても、「覚えていない。」という状態である。
看護師さんや看護助手の人たち、各種の療法士さんたちの名前も覚えられず、すべて知らない環境での再スタートとなっている今。
人を含め、環境に慣れることがまず最大の課題となっている、再転院後の娘である。
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娘よ(51)再転院

2014-07-26 11:43:18 | 生き方
2日前の木曜日。
娘が半年ぶりに全身けいれんを3度起こして搬送され、3週間余りお世話になった病院から再転院した。

ここのところの娘は、やけに眠たがっている。
しゃべり方もスローモーで滑舌が悪い。
しじゅう眠たがっているし、ぼうっとしている感じに見える。
これは、けいれんの影響で調子が悪いのか、薬が増えたから眠気が増しているのか、よくわからない。
そんな状態でありながら、転院の日を迎えた。

娘は、看護師さんたちを見かけると、人なつこくほとんどの人に話しかけたりする。
たいがいの看護師さんがそれに快く応えてくれていた。
娘は結構好かれているように見えた。
しかし、この病院は救命救急が中心であるから、今回は、リハビリを行ってくれることにはならなかった。
本当は、3か月前までお世話になったOTやSTの方のことも、娘は大好きだったのだが、残念ながら、リハビリはしてもらえなかった。
だが、OTのOさんや、STのNさんは、時々娘の顔を見に来てくれていたようだった。
ただ、夕方訪れると、娘はそのことをすでに忘れていることが多かったようだ。
でも、多くの方々に受け止めていただけているので、娘にとって、非常に居心地のいい環境ではあった。

そんな愛されている環境からの再転院。
娘にとって大きな環境の変化に思えた。

転院=今の病院退院の日、OTのOさんが、わざわざ病室を訪ねてくれた。
「ああ、よかった。間に合った。」と、Oさんは言った。
娘は、うれしいのと別れが悲しいのとで、泣き出した
Oさんと別れを終えて、病室を出ると、目の前に知っている看護師のSさんがいた。
娘はそちらに寄って行った。
すると、Sさんも、大きく手を広げて、娘を抱きしめてくれた。
ナースステーションの前でも、大好きだった看護師の◎さんに抱きついたり、いろいろな方にハグされたりして、涙の止まらない娘だった。

最後には、STのNさんも来てくれていた。
たくさんの方々に囲まれ、別れを惜しんでもらえることを、不憫な状況だけにとてもありがたいと思った。
お世話になった大勢の方々に心から感謝したい。
命の不安がない限り、もうここへは戻っては来ないだろう。
たとえ全身けいれんが起こっても、重くならなければ、中途半端な症状のままなら、ここへ搬送されることはないだろう、そう思っている。

ぼうっとしている雰囲気の娘だったが、この病院の2度目の退院の際は、それを感じさせない感情に揺れていた娘であった。
そして、リハビリ専門の病院へ再転院したのであった。
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娘よ(50)

2014-07-21 18:34:48 | 生き方
先々週末の主治医の話では、先週のうちにも娘が以前いた病院への転院ということだったが、その「連絡が来たのが先週のうち」となってしまった。
予定より遅くなって、今週の木曜日に転院となった。
転院が決まったが、ただ以前の病院に戻るのではなく、主治医も変わり別な病棟への再入院となるようだ。

けいれんは起こっていないが、まだ今月初めに起こった影響が残っているように感じる。
やはりけいれんが起こると、脳へのダメージは大きいようだ。
やたら眠たがっており、一日の中で昼寝をしていることが結構多い。
トイレに立つときなど、ふらつきも見られる。
そして、トイレから戻る時に、部屋を間違えたりしてしまうこともある。
記憶が失われる部分もあるように感じる。

そんな娘の状態ではあるが、まあまあ回復してきたと言えるようだ。
最近は、さかんにアイスを食べたがっている。
甘いものは好きではないのだが、アイスやシュークリームなどを食べたがるのは、多少嗜好が変わったのだろうか?
それとも、甘いものを体がほしがっているのだろうか?
昨日は、チョコミント系のアイスを持って行ってあげた。

元気になってほしいので、いっぱい食べさせたいのはやまやまなのだが、運動不足で10kg以上も太ってしまっている。
それが、体調不良の遠因となってしまうことも考えられる。
最近は、カロリーを考えながら、おやつを準備して持って行ってあげている。
この病院では、リハビリが何もなされていないので、われわれが一緒に廊下を歩いてあげたりしなければ、さらなる運動不足で太ることも考えられる。
だから、気をつけなくては。

再転院まであと3日。
また家からは遠くなるが、娘にとってリハビリしてもらえる環境となる。
家族としてまたできるだけ支えていきたい。



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新潟シティマラソンはハーフにすることに

2014-07-19 10:53:11 | RUN
先日、今年も10月に行われる新潟シティマラソンに参加申し込みをした。
息子は、20代。走ることに自信を深め、去年はハーフに出場したが、今年はフルにエントリーするとのこと。
私も、息子と一緒にフルマラソンに挑戦したい気持ちもあった。
3年前から参加して、年に1度のフルマラソン挑戦を行ってきた。
しかしながら、3回のうち2回は、時間制限もあり、途中棄権の憂き目にあっていた。
だから、リベンジしたい気持ちもありありではあった。
しかし、結局、今年は、フルマラソンにエントリーするのはやめた。

先週には、地元紙「新潟日報」に、新潟シティマラソンの記事が出ていた。


「人気上昇の新潟シティマラソン 『5時間制限』が課題」
「フル完走率は8割」
と書いてある。
そうなんだよ。5時間制限がキツいのだ。

今まで3回走ったが、現状では練習量が少なく、42kmを走り切るほどの体力がないのだと、昨年よくわかった。30kmまでなら、走り切る自信はあるのだが、そこから先は簡単ではない。
「30kmのカベ」というが、本当なのだなあと思う。
それでも、制限時間が5時間というのではなく、6時間というのなら、歩いていけばなんとかゴールにたどり着ける自信はある。
だが、今年も新潟シティマラソンの制限時間は5時間と、変わらなかった。

私自身を取り巻く状況は、今、練習量を増やせるような状況ではないため、走力・体力の向上は望めない。
週末に1回、10kmくらいを走ることしかできていない。
今週行ってきた人間ドックでは、肺活量が去年より数値が低くなったことも気になった。
そんな訳で、残念な気持ちはあるのだが、フルへの挑戦は今年はあきらめ、ハーフマラソンへのエントリーを行った。

もともとは、走る喜びを感じるために行っているRUNである。
過大な欲望は、今は置いておこう。
ただ、走れる体があるうちに、また挑戦したいと思っている。
人生は、時間が限られているのだから。






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星に祈りを

2014-07-14 18:36:32 | うた


七夕の星に回復への祈りを込めて、ということで、娘の体調がよくなるように、と、娘の「伯父さん」に当たる方から、花かごが届いた。

「星に祈りを」という歌があったことを思い出した。
昔、私がよく聞いていたのは「チェリッシュ」がカバーしたものだったと思う。
だから、甘い声での歌という記憶がある。

もともとこの歌は恋・愛の歌ではあるのだが、病床の娘のためには、
「涙をふいて笑顔を見せて   明日の明るい日ざしをあびよう」
「ゆくてには  今日にもまさる喜びがある」
という部分の歌詞が実現することを祈りたい。


昼間、病院で花かごを受け取った娘は、意外とそっけなかった様子であったと聞いた。
しかし、病のためにそんな態度だったとしても、娘はもともと気持ちのよさが取り柄の子だったから、人から受けた温情に何かしなくてはいけないと考えたようだ。

夕方、弟(娘の)が行くと、おじさんへの感謝の手紙が書いてあったそうである。
われわれが言わなくても、「お礼の手紙を書かなくちゃ」という気持ちになったらしい。
B5判の白い紙に、自分を不細工に描いた絵を添えて、感謝の手紙を書いていた娘であった。
娘との面会を終了して、誰かが帰ろうとすると、娘は決まって、「気をつけて帰ってね。」と言う。
何度も書く話だが、気のよさは相変わらずだ。
そんな娘だから、少しでも病状が改善されることを、星に祈りながら帰る毎日である。
感覚は、だいぶ6月の頃に近づいたように見える娘である。
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娘よ(49)

2014-07-08 23:18:09 | 生き方
娘の再入院から1週間が経過した。
幸い、点滴生活は、およそ3日余りで終了した。
その後、体調不良も起こっていない。
昨日は、7月7日。
織姫、彦星が年に一度会えるすばらしい日(?)である。
夕食後、ぼんやりしながら七夕の天の川で自分を醜い織姫として、可愛い彦星を付け足して落書きの絵を描いていた娘であった。
そう、けいれんから5日近く経過して、ようやくまた落書きを描く元気が出てきたようだった。
その7月7日、娘にはうれしい出会いがあった。
以前の職場で、最も仲良くしていた方(女性)が、病室にお見舞いに来てくれたのだった。
娘は、素っ気ない顔をして、落書き絵を描いていた。
「いいんだよ。○○ちゃんなんだから。」と、言いながら、気安い仲だからと言って、絵を描き続ける娘。
「せっかく来てくれたのに、ちゃんとこっち向きなよ。」と私に言われて顔を上げると、
娘の目には、涙が光っていた。
そうか。照れくささと涙がにじむ恥ずかしさがあったか。

その後も、ずっと話をしながら絵を描き続けていた娘だった。
でも、お見舞いに来てくれた方も、気楽に話しかけてくれていた。

娘の表情が豊かになって、目を見開いて話したりしたのは、以前の職場の人々の話になった時だった。
「所長が●●さんのとき、○○さんっていたでしょ。」
「えーっ。所長さんって、■■さんじゃなかったっけ。」
「今は、▲▲さんも、△△さんも、もうやめてしまっていないんだよ。」
「へえー。▲▲さんがいない職場なんて、どんな感じなんだろう?」
こんな風な具合で話していたのだった。
久々に見た、娘の生き生きした話しぶりだった。
こんなふうに、3年くらい昔の話をしっかりできるというのは、娘にとってよいことなのだなあと感じた。

今夜は、面会時間が終わろうとするころ、駆け付けで病室を訪ねた。
娘は、ナンプレ(数独)をやっていた。
一番簡単な類のものだが、今日はなんとか少し解けていた。
面倒だからしない、というのがここのところだったから、少しは調子が良いのだと実感した。

なのに、病院では、まだ夜など家族が付けない時間は、抑制ベルトをされてしまっている。
それに対しては反抗はしないが、いやだろうなあ、と思う。

痙攣によるダメージは大きかった。
しかし、痙攣からの立ち直りが少し早くなったのなら、何よりだ。
ただ、この病院では、今、リハビリの対象にはなっていない。
一日中、特にやるべきことが指定されていない娘の様子を、気の毒に思う今日であった。



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娘よ(48)~なぜ!?…半年ぶりの…~

2014-07-04 23:07:21 | 生き方
それなりに順調だと思っていた。
半年も痙攣は起こっていなかった。
記憶障害は容易に改善されないが、それでも一日の中で排便があったかどうかについては、ほぼ間違いなくは言えるようになってきていた。
家から病院に戻った後も、疲れは見せなくなっていた。
日曜日に時間外出で帰宅した時には、自宅の洗面所がきたなく見えたらしく、ていねいに拭き洗いして磨いてくれたりした。
そのようなわずかながらの変化でも、状況が明るく見えるものは、本当にうれしいものだった。
完全な記憶障害からの脱却は難しいだろうが、状態が少しずつでも改善に向かうことをずっと祈っていたからだ。
歩き方もしっかりしてきて、結構大股で歩くようになってきていた。
転院してから、2か月を経過して、リハビリの効果も少しは感じられるような気もするこの頃であった。

それが―。

病院から、わが家へ電話が入ったのは、月の変わった火曜日のことだった。
その日は、7月1日。
去年の7月1日は、ICUで治療中だったにもかかわらず、日に5回も全身痙攣を起こし、人工呼吸器をつける羽目になったのだった。
今年は、それに比べたら雲泥の差。こうして毎週数時間とはいえ、日曜日の日中は家で元気に過ごせるようになったのだから。
そう思っていたのに、突然の電話であった。

病院から入った電話は、早朝、娘に痙攣が起こったということを知らせるものだった。
誰か来られるかを聞かれ、妻が駆け付けることになった。
息子も、仕事場を経由して行くことになった。
私は、去年こそ代理を立ててドタキャンしたが、この日は地域で大きな行事があり、そこに出かけて参加しなければいけない日であった。
2年続けて休むわけにはいくまい。そう考えて、勤務先に向かった。

勤務先で届いたのは、妻のメールだった。
その後も2度、そのうち1度はたった今目の前で痙攣が起きたとのこと。
なので、リハビリ専門の今の病院から、以前入院していた大きな病院に、救急車で搬送されることになった、とのこと。
心は騒いだ。半年ぶりの痙攣を、3回も頻発している。
2年続けて地域の行事をドタキャンする訳にもいくまいと思ったが、動揺は隠せなかった。
見かねた職員が、代わって出席するから休んでください、と名乗り出てくれた。
迷ったが、その言葉に甘えることにした。
行事の主催者側に連絡して、詫びながら、代わりの人が行くことを告げた。

病院に駆けつけると、救急外来の待合室に妻がいた。
CTほか様々な検査をして入院するとのこと。本人には会えなかった。
この後、2時間以上も、われわれ夫婦に声がかかることはなかった。
12時近くになって、「病室が空いて入院できるのは、午後2時からになる」とのこと。だから、食事をとってきた方がよいと言われた。

結局、2時半近くになってから、病室へ移動。
ようやく娘に会うことができた。
娘は、寝ながらぼんやりと片手を振ってくれた。
しかし、その仕草は緩慢でだるそうであった。
2か月余り前までお世話になっていた、なじみの看護師のIさんやNさんがベッドごと娘を上の階まで運んで行ってくれた。

結局、病棟も2か月余り前と同じ。
病室は、1年余り前、娘が最初に入院を始めた時の部屋●▲★号室であった。
担当看護師も、またIさん。
師長のSさんが、わざわざ訪ねてきてくれた。
「何と言えばいいかわからないけど、また精一杯お世話します」というようなことを話していかれた。
知っている人たちばかり。
2か月余り前に気持ちよく退院(転院)を祝ってくれた人たちばかり。
それなのに、またこの人たちにお世話になってしまうことになるのが、なんとも歯がゆかった。
かつての主治医の先生は、「半年ぶりというけど、退院しても痙攣をおこすのはよくあること、よくある話なのです。」というようなことをおっしゃった。
その言い方が、いかにも大したことがないことだ、と言わんばかりに受け取れた。
看護師さんたちに比べて、軽くとらえられているように思われて、あれほどお世話になった先生だが、感じがよくなかった。

病室の娘は、両手が点滴につながれていた。非常に眠たそうであった。
眠っている間に、この2か月余りの間入院していた病院へ、娘の荷物を取りに行った。
せっかくこの2か月間お世話になって、娘も慣れて知っている人も多くなってきたというのに、この病院を離れなければならないということに、無念さを感じた。
看護師さんの中には、子どもの頃を知っている人がいた。
ナースステーションにあいさつをしたら、目が合った。
彼女は、会釈をしてくれたが、何とも悔しい別れになってしまった。
荷物を積んで、再び娘の入院した病院に向かった。

着いて荷物を運び入れると、もう夕方であった。
まもなく夕食となったが、普通の食事が運ばれてきたので、娘を起こして食べるよう促した。
さすがに、痙攣のダメージが大きかったようで、娘はおかずにはほとんど手を付けずに、味噌汁に入っていた、嫌いなはずのしめじとご飯の3割ほどを食べただけであった。
まだ頭が痛い、と言っていた。
ダメージが大きいようだった。手は、いつもより熱く感じた。
私たちは、娘をさっさと寝せることにした。

翌日は、娘は一日中眠たがっていたとのこと。
お見舞いに来てくださった方もいたが、眠たがっていたということであった。
妻の話では、食べ方もきたなく、ひどかったようだ。
3日目は、妻は、だいぶ改善されたと言っていた。
冗談も言えるくらいになっていた、と言う。
しかし、私が、ここはどこかと問うと、ショッピングセンターだったりホテルだったりした。
数分前にいた妻のことも、もう覚えていなかった。
今日は、同じ問いに対し、近くの老人ホームの名を言った。
でも、娘に、「おまえは老人でないよね、じゃあ、どこだ?」と聞くと、病院名を言うことができた。
まだまだ、回復してきた、とは言い難いが、痙攣が起きた初日や2日目よりはましである。
しかしながら、その様子は、去年のよくなかった姿と同じである。
家族が付いていない時には、腰に抑制ベルトを付けられている。
今までのことは何だったのだ、と言いたいぐらい、むなしい「ふりだしに戻る」の仕打ちを受けている思いがする。

今週は、火曜日からが早かった。
そして、疲れも半端ではないくらい、われわれ夫婦は疲れた。
ようやく週末を迎えられる。
やっと今日になって、このエントリーをまとめられる心身と時間の余裕ができた。

娘の入院生活は、合計400日を超えた。
少しは改善されるのかと思っていた近頃だったのに、「ふりだしに戻る」に落胆した今週であった。
だけど、落胆したままではいられない。
希望は、失っていない。
前を向いていくしかないのだ、私たちは。
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