ON  MY  WAY

60代になっても、迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされながら、生きている日々を綴ります。

ひまわりが咲いた

2013-08-31 13:10:01 | 草木花

ひまわり。
夏を代表する花である。
その大きさ、明るさは、夏の太陽にふさわしい。
ひまわりは、たぶん娘が一番好きな花だったはずである。
娘が病になってから2週間もたたないとき、我が家では家の庭にナス、トマト、ピーマン、オクラなどの野菜の苗を植えた。
それらの苗を購入する際、店に置いてあったひまわりの種を見つけて、それも買った。
ひまわりが、娘が好きな花だからである。
だいたい、基本的に明るい娘は、わが家のひまわり的存在であった。
夏には、元気になって、このひまわりの花を見てもらいたいな、という願いがあったのだ。
さっそく種まきをして育てた数本が、大きくなってきた。
ただし、6月にまいたので、成長はするがなかなか花が開かなかった。
2日前の朝、数本大きくなってきたひまわりの1本が花を開かせようとしていた。

そして、今日の朝、完全に花開いていた。
もう1本も咲き始めた。
すでに8月も最後の日だけれど、今日は蒸し暑い。
近くの道路の気温は、午前中から33度や34度を示していた。
8月を夏の最後の月だとすると、わが家のひまわりは、夏の最後の日に咲いたことになる。
夏に間に合ってよかったな、という思いである。

さて、ひまわりが好きな娘の様子は、相変わらず、である。

○ 食事は、自力で普通に食べることができ、毎食ほとんど完食している。
○ 手首から肘までの前腕部に点滴針が刺され、24時間点滴を受けている。
 針の位置は3日ぐらいで変わるので、両腕の前腕部は、両手の甲を含めて、針の跡だらけである。
 そこを見るたびに、その跡は、娘の闘病の記録だと感じる。
○ D剤は、少しずつ薄められ、また2.0まで下げられてきている。飲み薬のけいれん止めも併用しながら、である。
○ ただし、1週間前のすっきりしていた状況には戻って来てはいない。
話の内容が、一貫しない。現状をすぐに忘れてしまう。時に自分なりの思い込みが口から出てくる。
○ 時々現状を認識して嘆き、涙を流すことがある。
 「覚えていない。」と、直近のことや最近のことについて記憶がなくなることを嘆くのだ。
 私が行った時の夕食などを日々書き留めているのだが、それを見るたびに、「わからない。」「覚えていない。」と、涙をこぼす。

 けいれんが起きなくなれば、一般病棟で暮らせるのだろうけれど、現状の認識ができなくなった時の娘は、点滴針を抜いてしまったりすることがある。
 だから、目が離せない。
 だから、拘束ベルトを腰や手首に巻かれてしまう。
 そうすると、妄想することぐらいしかすることがなくなってしまう。
 
 
 さて、今日で8月も最後。
 夏にふさわしいひまわりの花言葉は、
「あこがれ」、
「あなただけを見つめる」
などがあるのだそうだ。
 これを当てはめれば、
娘の今の「あこがれ」は、院外に出ることになるだろう。
われわれ家族にとっては、「娘(の快復)だけを見つめる」ことになるのだろうか。



 娘の快復への願いを込めて、わが家のひまわりよ、もっと鮮やかに、もっと大きく咲いてほしいなあ。
 
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娘よ(11)

2013-08-24 11:11:26 | 生き方
D剤が2.0になり、ずいぶん少なくなった水曜日のことだった。
夕食の付き添いに行ったら、娘は、突然私に聞いた。
「父、髪切った?」
こんなことを聞くのは、注意力のあった娘の発病前の言葉である。
髪の少ない私が床屋に行っても、家族は気付かないことが多い。
だが、娘だけはいつも、一発で気付くのだ。そして、「髪切った?」と聞いてくる。それが、正常な頃の娘だった。
「そうだよ。実は、先週床屋に行っていたんだ。気付いてほしかったけどね。」
と答えながら、娘の言葉に、ここしばらくない感覚を覚えた。
そこで、改めて尋ねてみた。
「ここは、どこだと思う?」
すると、その問いに、正確に答えた。
「病院。○○病院。」
すごい!
何がすごいって、この2か月余り、娘が今を正常に認識したことだ。
「ここは、どこ?」の問いに対して、毎回、ホームセンターや商店、食いもの屋などの名前が出てきたりしていたのだった。
現在の居場所を病院と認め、しかも正確に病院名が出てきたのだ。その後も、2度聞いたがいずれも正しく応答した。

そのうえ、「頭がぐちゃぐちゃする。」と言った。
頭がぐちゃぐちゃする、ということは、自分の体のことを正しく認識している言葉だと思った。
「今は、脳の病気で入院しているのだから、仕方ないんだよ。」と答えながら、昨日までの娘との会話と違うものを感じていた。
「今日は、何日?」と聞くと、(デジタル置時計を見ずに)「8月21日。」と答えた。
「今は、8月。ずうっと入院していたんだよ。」と言うと、
「いつから?」と聞いてきた。
「5月29日から。ほら、カレンダーに印がついて救急車と書いてあるでしょ。」
「そんなにたっているんだ…。職場で倒れたって、私どこで仕事をしていたの?」
「順番に思い出してみよう。学校はどこだっけ?」
「K…(高校)。」
「そうだね。じゃ、そのあとは?」
「H…(専門学校)。」
「そうそう。その後、最初どこに勤めたんだったっけ?」
「………。」
思い出せずに、娘は無言で涙をこぼした。
「いいんだ。少しずつ思い出せば。じゃ、教えるよ。…。」
…こんなふうに、まともな会話ができるのは、2か月ぶりだった。
あのひどいけいれんを目撃して、帰りにホタルを目撃した6月20日以来のことだった。
本当に久しぶりだった。

娘は、この日、何度も泣いた。
でも、涙の質が違っていた。
前の涙は、つらいことや家族と会えたうれしさがあったことからだった。
この日の涙は、「自分が悔しい」ことでこぼれていた。それだけ長く入院していたのに、何も覚えていないこと、大事なことが思い出せないことが悔しいのだと言う。

私の帰りがけに、娘は、急に「ねーかあさんとKちゃん」と、声を出した。「ねーかあさん」というのは、親しい親類に対する彼女独特の呼び名である。Kちゃんはその娘だ。
「えっ!?」
「…なんでもない。妄想しようとしていた。」と、彼女は言った。
この時、真の復活だと思えた。
妄想や幻想を口にしていた娘が、自らそれを押しとどめようとしている場面だと見えた。

今までの治療が効いているのかもしれない。
この1週間に行った免疫グロブリンの投与療法が効果があったのだろうか。
あとは、けいれん止めの薬がなくても、けいれんが起きなくなれば、本物だ。
うれしかった。

病院から家に帰るとき、ふいに涙がこぼれた。
長い長い闘病から、やっと復活への一歩を踏み出せたのだ。
よかった。本当によかった。
そう思った途端に泣けていた。



…だが、悔しいことに、よいことは長く続かなかった。

金曜日の夕食の時間に娘を訪ねると、娘は拘束ベルトをズボンを脱ぐように器用に脱出したところだった。
そして、食事を「家に帰ってから食べよう。」と言う。
言っていること、やっていることが明らかに正常ではない。
横を見ると、またもやD剤は、4.0に引き上げられていた。
娘に、「ここは、どこ?」と聞くと、「施設」とか「○○屋(弁当屋)」と言うのだった。
3日前と同じになってしまっていた。

木曜日、けいれん止めのD剤は、1.5にまで下がっていたはずだ。
その日も日中は、しっかり会話ができていたのに…。
その夜、けいれんが起きたのだそうだ。
そして、この金曜日の午前中にも2度のけいれんが起きたのだと、看護師さんが教えてくれた。
この看護師さんは、木曜午後に車椅子で娘を連れて病院の展望室に行ってくれた方だった。
その時、娘は、展望室から臨む自分の家の方を看護師さんに教えながら、力強く、
「わたし、(退院したら)もう絶対にここには戻って来ない。」
と、言っていたのだそうだ。

むろん、娘はそのことも覚えていなかった。
長く入院していることも忘れてしまっていた。
悔しい。
また、やり直しだ。

しかし、3歩進んで2歩下がるの、下がった状態なのだと考えたい。
いや、2歩進んでいたのが、3歩下がったという表現が今の感覚に近いかもしれない。
深いため息が出る。


でも、負けない。
娘と共に、前を向く。

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娘に乗せてもらうタイムマシン

2013-08-19 22:30:00 | 生き方
娘は、食事を自力でとれるようになった。
盆の休みを利用して、毎日昼や夜に食事の付き添いに行って、様子を見てきた。
食事はおかゆが主食だが、出てくるおかずは、一般人と同じものになった。
少し前までは、小皿に少なくもられたものが多く、飲み込みやすいものばかりだったのだ。
スプーンや箸を使いながら、最初から最後まで自分で食べることができる。
以前のどに太い管を通されていて、まったく口から物を食べることができずにいたことを思えば、長足の進歩、というか回復ぶりである。

しかし、記憶が積み重ならない。
自分がどこにいるのか、なぜここにいるのかが理解できないでいる。
何度説明しても、数分後には忘れてしまうのである。
周囲の者にとっては、歯がゆいというか悔しい姿をこの1週間余り見てきた。

今のことがわからなくなっているゆえ、時々昔のことが出てくる。
いや、昔のことは鮮明であり、確実である。
次のような言葉たちをつぶやくのを聞いてきた。

・H幼稚園でよかった。
(確かに、幼稚園はH幼稚園だったなあ。そこに行ったよ。)
・ミニバスの練習に行かなくちゃいけない。
(小学校高学年時代は、ミニバスをやっていたね。)
・卓球と陸上とどっちにしようか。
(中学校入学時、部活の選択では、卓球部と陸上部で迷ったよね。)
・K(高校)のフェスティバルがあるから。
(6月、高校では、体育祭や文化祭が統合されたような大きな行事があったね。)
・ばあちゃんと母の具合よくなった?
(10年近く前に亡くなった祖母は癌だったし、そのころ母は腕の手術で入院したよね。)

こんな言葉たちを娘の口からきくと、確かに娘と時間を共有して今までの人生を送ってきたことを思うのである。
ある種時々タイムマシンに乗っているような気がする。
1つ1つあった昔のことが、娘にとって、人生の大切なできごとだったのだな、と改めて思う。
そして、その1つ1つは、私たち家族にとってもまた貴重なものだったのである。

娘に乗せてもらうタイムマシン。
改めて大切な家族の絆を思うひとときになるのだ。
だが、できれば過去への旅だけでなく、娘には輝く未来への旅ができるようになってほしい。
未来を自ら切り拓くことができるようになってほしい。
親としては、そう願っているのだが…。

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夏水仙

2013-08-14 14:51:39 | 草木花

夏には、ヤマユリやオニユリをよく見かけるが、昨年、突然わが家に庭にもユリのような花が咲いた。
ピンクの花が咲く。
少々違和感があるのは、地面からにょきっと茎だけが生え、葉がない。
その立ち姿は、どこかで見たことが…。
そうだ。ヒガンバナだ。
ヒガンバナも、葉をつけずに花が咲く。
それで、花の咲き方はユリに似ているが、ユリ科ではないかもしれないと思った。
ヒガンバナ科かな?と思って調べてみたら、やはりヒガンバナ科だった。
その名は、ナツズイセン。


夏水仙。
葉が、水仙に似ているからとの命名らしい。
ヒガンバナやサフラン同様、春に葉を茂らせ、夏には葉が枯れてすっかりなくなり、茎だけで花を咲かせる。
私の感覚からすれば、春から葉がたくさん茂るのだから、いつ花が咲くのだろうと期待して待つうちに、枯れてしまう。それなのに、ある日突然花を咲かせている。そんな不思議な花。
水仙というより、やはりユリのように見える。


8月初旬から咲いていたが、薄いピンクの花が涼しそうに感じた。梅雨が明けるとともに次第に咲く花の数が増えていた。だが、今週になっていよいよ花も終わりのようだ。

夏水仙。
花言葉は…
深い思いやり、あなたのために何でもします、快い楽しさ、楽しむ、悲しい思い出
…など、いろいろあるということだ。
今年もわが庭に咲いてくれて、「快い楽しさ」をありがとう。
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日日草(ニチニチソウ)

2013-08-13 22:51:01 | 草木花
わが家のニチニチソウが元気だ。
今年は、梅雨が長かったのだが、根腐れを起こすこともなく、咲き続けている。

ニチニチソウ。漢字で書くと、こうなる。

日日草。

毎日のように花が咲くから、この名があると言われている。
1つの花は、毎日咲いて毎日枯れるというわけではなく、1度咲いた花は3日くらいはもっている。
確かに、毎日毎日よく咲いている。

ふと気になって、花言葉を調べてみると、
・若い友情
・友情、楽しい思い出、ゆるぎない献身
・積み重ね、しるし
・生涯の友情、やさしい追憶
…などが並ぶ。

日々の草。
毎日は当たり前のように訪れるが、着実に過ぎていく。
日々新たなり、ということかな。
こんなことを、毎日があっという間に過ぎていく今、その名から考えさせてくれる花だ。


ところで、娘のことで、今困っているのは、記憶が蓄積しないことだ。
今さっきまで弟が一緒にいたのに、帰ってすぐその話をすると、「いたっけ?」。
食事がすんだばかりなのに、何を食べたか、思い出せない。
かつて、彼女が勤務したところで相手していたお年寄りと同じだ。彼女自身がそんなふうになってしまっている。
時々は、つぶやく。「記憶がない。」
医師が、その症状を指して言う。
「これが、記憶に関連する部分を扱う脳の辺縁系の異常の特徴なのです。」
だから、彼女には毎日毎時間が、すぐに忘れてしまうものになる。

日日草。
花言葉にあるような、「積み重ね」や「楽しい思い出」「やさしい追憶」などが、娘にもたらされる日々になることを祈る日日でもある。
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「突然、妻が倒れたら」(新潮文庫)を読んでから

2013-08-11 12:15:01 | 読む
最近読んでいた文庫本は、「突然、妻が倒れたら」(新潮文庫;松本方哉著)。
今回の娘のことがあって、久々に本屋に行ったとき、この本が目に留まった。
40代半ばの著者が書いているのは、妻が重いくも膜下出血で倒れてしまい、救急車で運ばれてから、どのようなことが起こったかである。
ニュースキャスターを務めていた著者の苦闘する様子が描かれている。
妻は、なんとか一命は取り留めたものの、言語や記憶など知的機能が十分働かない高次脳機能障害が残ってしまった。
夫としてどのようなことを経験してきたか。そのドキュメントである。
脳の障害、ということで、娘のことを考えていくことに、様々な示唆を与えてくれた本となった。
娘の場合と病名は異なるが、脳に障害が起こった場合、本人にどのようなことが起こるのか、どのようなことを家族は克服しなければならないのか、そんなことを考えさせられた。
長い闘いの記録である。

うちの娘のことも、長い長い闘いになる。
今やそんな自覚がある。
数日前から、まだ飲み込みが悪いものの、おかゆやとろみのついた食べ物を少しずつ食べられるようになり、口から栄養をとれるようになった。
回復途上にあるか、と見られた娘だったが、昨日けいれん止めのD剤が薄まったら、やはり久々のけいれんが発生してしまった。

前日書いた「塞翁が馬」のごとく、よいことばかりは続かない。悔しい限りである。
結局あれほど苦しんで行った血しょう交換は無駄だったのか?
いや、そうではない効果が必ずあったはずだ。
長い闘いと認識しよう。山や谷はつきものだ。
娘も私たち家族も、負けて落ち込んでばかりはいられないのだ。
生きるために。
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塞翁が馬

2013-08-10 11:43:43 | 生き方
各地で頻発する集中豪雨。
その短時間での降水量のものすごさ。
そこから受ける莫大な被害。
各地で被害にあわれた方々には、なんと申し上げようもないくらいかける言葉が見つからない。

ただ、人間万事塞翁が馬、という。
また、禍福はあざなえる縄のごとし、ともいう。
人生、いろいろなことが起こるが、それもまた運命なのだろう、と思うしかない。

そして、悪いことばかりが起こる時には、そのうちによいことが起きるはず、と思って過ごす。
よいことばかりが重なる時には、浮かれ過ぎず慎重に過ごす。
そんなことが大切だと思っている。

東日本大震災しかり、今回の各地の集中豪雨しかり。
そして、自分や家族に起こる災厄しかり。
何が起こるかわからないが、一度の人生、懸命に生きるしかないのである。

その人生、すべて悪いことばかりが起こるのではない、と信じたい。
きっと、よいことも起こるのだ、と信じたい。

今回、秋田を襲った集中豪雨。
娘のことが何もなければ、私たち夫婦は、この時期夏の休暇をとって、秋田方面に旅をしていたはずだった。
それが、娘のことで、旅行を断念せざるを得なくなった。
だから、難を逃れることができたのかもしれない。

その前日には、かつての娘の職場の方が、娘の回復を願って折ったのだという、すばらしい折り鶴の飾りを持って来てくれた。
娘がよい人たちに囲まれていたことを、改めて知った。
人の思いの温かさを、改めて知った。

できるだけよいことがたくさんあった方がよいことは当然である。
でも、「塞翁が馬」の気持ちももって、生きていきたいものだ。
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娘よ(10)

2013-08-09 14:17:24 | 生き方
水曜日。看護師さんからうれしい変化をたくさん聞いた。
・その日の昼食の時間に、おかゆを少し食べさせたこと。
・リハビリで、平行棒の間を2mくらいつかまって歩いたこと。
・導尿の管を抜いたこと。
・抜いた後、2回ほどうまく教え、ベッドそばのポータブルトイレで小用を足せたこと。
ただ寝ていただけの姿から、こんなにいろいろな変化が起こるのはうれしい。
常人の生活に近くなったことが、何よりすごくうれしく感じる。
しかし、まだ、鼻から栄養を取ったりするための管は通っているし、鎖骨の辺りから点滴の管が通っている。
また、話すことも、会話が成立するときもあるが、前方の壁を見て「信号が青」だと言ってみたり訳のわからないことをぼそぼそ言っていたりする。
そんなことにはがっかりするのだが、眠り姫だったころに比べれば、面会のしがいがあるというものだ。

昨日は、久しぶりに主治医と面談ができた。
・またいくつか今までと違う検査の結果が出たが、ウイルスや抗体の検査の結果は、いずれも陰性であったこと。
・つまり、何が原因で起こったのか相変わらず不明だということ。
・肝機能がよくないが、肺炎で投与した薬の影響ではないかということ。
・ただし、治療は順調に進んできていること。
・けいれん止めの薬も1種類をやめることができ、もう1種類も少しずつ低くしてきていること。
・集中治療室に入ったころに比べて、現状は少し良く見えること。・来週には、集中治療室を出て、新しい治療に移ることになるだろうということ。

…などなど…。

医師の話でもっともうれしかったのは、
「私は、娘さんが『ありがとうございました』と言って、退院する日が来ると信じています。」
という言葉だった。
 まだ病気の原因も突き止められていない難病であることは間違いないが、その言葉は、今まで悲嘆に暮れることばかりであったわれわれ家族には希望の明かりを灯してくれるものだった。

ところが…

病室に戻ると、看護師さんたちが騒いでいた。
なんと、娘は、鎖骨付近に刺してあった点滴の針を、抜いてしまっていたのだった。
けいれん止めの薬を入れるための大切な点滴である。
両手にはミトンの手袋をしているので、指先は自由な動きはできないはずなのに、器用にも両手で抜いてしまったのだ。
毛布カバーには、薄い血の飛び散った跡が…。
けいれん止めの薬を薄めるとともに、娘の動きが活発化してきた。
時々瞬間的にとんでもないことをしでかすようにもなってきたのだ。
翌日である今日の午前中に訪ねていくと、今度は、鼻の管も抜いてしまったとのこと。

……うーん……。
元気になるのはよいが、困ったものだ…。

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娘よ(9)

2013-08-05 17:10:23 | 生き方
このごろの娘は、ベッドを起こしてもらって上半身を起こしていることが多くなった。
この方が、痰がたまらない。
呼吸用の酸素も外された。
胃かいようのための管も外された。
ただ、けいれん止めの薬と栄養剤の点滴は、ずっと続いている。
けいれん止めは、D剤が2.0、P剤が8.0。P剤は最高値のままだが、D剤は少しずつ下げられてきている。
食事はとれないままだ。

気の毒なのは、ベッドは起こされていても、手が使えないように固定されていることだ。
まだ、意識が正常ではないので何をするかわからない。命を守っている管を引き抜きでもしたら大変だ。
仕方がないとは思えども、テレビがあるわけでもなく窓もなく景色もない。
拘束されて何もすることがないまま一日を過ごすだけなのだ。

そんな不自由な生活を送っているせいなのか、著しい不安感に襲われるのだろう。よく泣く。
昨日も、娘は私たちが会いに行くと、眉間にしわを寄せ、涙を流して泣いた。
この頃は、いつもそうだ。
何を言っているのかわからないけれど、様々なものを指差しながら、不安感を訴えている。毎回その不安の中身は違うようだが、声がよく出ないのでよくわからない。
午後の時間に面会に行くと、この日も泣き出した。

看護師さんが、車椅子に乗ってみますか、と言うので、乗せてもらった。
集中治療室に、車椅子に座ったまま窓から風景が見えるところは、残念ながら、ない。
先日見たところと同じ場所に行き、同じ窓ごしに見える景色を見た。
「この前も見たよね。」と確認すると、首を横に振った。もう忘れているらしい。
それよりも、周囲で働く人の方に関心があるらしく、私と一緒に行った弟に、「○○ちゃん、いたよね。」などと、相変わらずとんちんかんなことをか細い声で言っていた。

ふと、私は、近くにあったカタカナの「アイウエオ表」に目が行った。それを借りて、一字ずつ声を出して、名前を指差してごらんと促した。
1回目は、名字を何とか指差せたが、名前の2文字目で間違えた。
もう1回、とさせてみると、2文字目で間違えてしまっている。
よく見えていないのか、認識できないのか…。
日頃話させてみるときに、言葉はよくわからないが脈絡がないことが多いことや、今回のこのことでも、やはり意識障害が継続していることがよくわかった。

それでも、ただ寝ているだけではないので、面会に行くかいがある。
泣くことは多いが、会うことによって、少しでも不安を解消してあげたり暇な時間をなくしてあげたりしたいと思っている。
午前、午後、夜と、集中治療室で面会可能な3回の機会をフルに生かして、会いに行った昨日日曜日の私であった。
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新潟の梅雨明け

2013-08-04 21:12:23 | アルビレックス新潟
昨日8月3日、気象庁は、新潟県の梅雨明け宣言を行ったらしい。
だが、昨日だって、ずっと低い雲に覆われていたのだけどなあ。

ただ、サッカーJ1リーグの新潟は、確かに梅雨明けしたようだ。

【新潟名物「円陣ダッシュ」】
昨日の清水戦も、川又の「新潟J1通算400ゴール」を含めた3ゴールで、3対1で快勝した。
今の新潟の選手の動きはすばらしい。

【大したもん蛇】
攻撃では、何人もの選手が連係してチャンスを作り出している。
新潟は、これで3連勝。3連勝が2年ぶりだとのこと。
去年は、連勝が一度だけ。最終の2戦だけだった。そんなだから、残留争いの最先端を行っていたわけなのだが。
今季は、攻撃を見るのが楽しい。
特に、得点をあげて結果を出し続けている川又には、風格らしきものも感じられるようになってきた。


自信をもってプレーしているのは、川又だけではない。
どの選手も頼もしい。

【勝利の後は、皆いい顔をしている】
GK東口が復活してからは、さらに守備も安定してきている。
これからの新潟の「夏」が楽しみだ。
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