36℃の経年優化

日々一歩一歩自然体で成長し、経年優化を実現するための奮闘ブログ

選択の善し悪しはいつ決まるか?

2012-07-08 10:59:08 | 意識を整える

  皆さんは毎日、あるいはどの瞬間も選択、決断をしていると思います。

 今朝はパンにしようかご飯にしようか?
 今日の服装はどうしようか?
 (今日は出勤しようか、しないでおこうか?も一応選択していますよね(笑))
 今日は傘を持っていこうか持っていかないでおこうか?
 今日は歩いて行こうか、タクシーで行こうか?
 この案件は上司に今説明しておこうか?もう少し握っておこうか?
 今日の昼食はうどんか?牛丼か?中華か?イタリアンか?
 コンビニでおやつを買おうか、買わないでおこうか?
 残業するか?さっさと家に帰るか?
 映画を見るか?ゲームをするか?勉強するか?本を読むか?
 外食をするか?自炊をするか?
 何時に寝るか?徹夜するのか?

 ここには書ききれないくらいの選択、決断が日々皆さんの頭の中で行われ、行動につながっています。上に書いたものはおそらく誰にでも心当たりがある日常の選択、決断でしょう。↑のような問題なら、選択するまでにすごく悩んだり、決断を後悔することはありませんよね?(人によってはおやつを買うか買わないかなど非常に悩ましいかもしれませんが…)



 一方で、人によっては相当悩む問題に人生で直面することもあると思います。

 理系に進むか、文系に進むか?
 大学院に進むか?就職するのか?
 大手企業に進むか?中小企業に進むか?ベンチャー企業か?もしくは起業するか?
 流通業界に進むか?コンサルティングファームに行くか?公務員になるか?
 家を買うのか?賃貸物件に住み続けるのか?
 いまの交際相手と結婚するか?しないか?
 子供は産むのか?産まないのか?
 今の会社を辞めるのか?そのまま働き続けるのか?
 子供を私立に入れるのか?公立に入れるのか? 
 (介護が必要な場合)親と一緒に住むのか?施設に入れるのか?
 
 人によって何を重大な決断と考えるか、は一概に言えないと思います。それでも下の問題のほうが選択、決断が難しいというニュアンスは伝わるのではないでしょうか?

 決断が難しくなればなるほど、多くの人が悩むでしょうし、後から後悔する可能性も増えると思います。後悔する時にはたいてい

 「あの時今の道ではなく、あっちの道を選んでおけば…」

というような言葉が頭の中を駆け巡るのではないでしょうか?

 この言葉には

 今の道が悪い選択で、自分は悪い選択をしてしまった。
 あっちの道は良い選択で、良い選択を選べば成功していた(苦労しなくてすんだ)。

そういったニュアンスがあるように思います。

 しかしながら、Ozakiは選択そのものに善し悪しはないのではないか?と考えています。明らかにまずい選択は別として(ここでいう「明らかにまずい」というのは死など、誰にとっても悪い帰結です。例えば交通量が多く、みんなスピードを出している車道を横断しようとする、薬の用法用量を守らず大量に飲む、など)基本的には選択した時点では、その決断は善くもなるし、悪くもなるという状況のはずです。

 文系か理系かの選択はその後の人生のおよその傾向が決まるかもしれませんが、それは絶対的なレールの上に乗るという意味ではありません。

 大学院に進学するか、就職するかの選択は大学院時代をなにもせず過ごしてしまえば就職したほうがいいでしょうが、追究したい事柄があれば進学したほうがいいでしょう。

 今の交際相手と結婚するかしないか、の善し悪しは結婚後に二人がどれだけ相手のことを慮り、大切にできるかにかかってくるのであって、相手選びの時点では結末は不明です。

 そして今の会社に残るか独立するか、は独立した後に自分の会社を軌道に乗せ、従業員の雇用と、自社の利益を守るために情熱を傾けられるか?知恵を出せるか?次第でしょう。



 つまり、ほとんどの選択はその時点で善し悪しはない、善し悪しを決定づけるのはその後の選択した人の気持ちと行動力次第なのだ、そう考えられるのではないでしょうか?後から後悔した時に別の選択肢を選んでいたとしても、その選択肢が悪い結末に終わることもあるでしょう。
 逆に、善い選択をした(とその時点で感じた)からといって、その後無為に過ごせばきっと激しく移り変わる社会の渦に飲み込まれて悪い結末を招くこともあるでしょう。



 選択の善し悪しは選択した時点ではなく、選択後に決まる。そして選択の善し悪しを決めるのは本人の努力や気持ち次第。

 Ozakiにとってこの言葉は非常に重たく、大切にしたい考え方の一つです。

インプットが沸騰を起こすとき

2012-07-04 23:49:24 | 読書
前回はとにかくインプットを倍増してみましょうというお話でした。今回はインプットを増やすとどうなるか?をOzakiなりにまとめてみたいと思います。



 インプットを増やすことはとても大切だと思います。でもインプットそのものが目的になってしまっては意味がありません。インプットは皆さんの頭の中でインスピレーションを生むために、もしくは他人との会話の中で共通項を見出したり、新しい発見を生んだり、という付加価値づくりのための手段の一つです。

 インプットを増やすと直感的な判断が磨かれるという表現を使いました。これは直感的な判断を磨くためにはインプットを増やす必要がありますよ、ということと表裏一体。難しい判断をするためにはそれまでのインプットが問われる、そう捉えることもできますよね。



 では、どこまでインプットを増やせばいいのでしょうか?

 具体的に本を何冊読めばいいのか?
 新聞を何時間読めばいいのか?
 講演会でどのくらいの人の話を聞けばいいのか?
 新しい経験をするために何か所くらいに出かけていけばいいのか?

答えはおそらくない、というよりも求められるインプットの量は無限大なのだと感じます。どれだけ追いかけてもインプットできる情報は常に増えています。今から一時間で1つの情報をインプットしたとしても、その一時間の間に1万位の情報が生まれているのではないでしょうか?

であれば、

 この情報をインプットしたからもう大丈夫、
 この情報をインプットしたからこれ以上のインプットは不要

なんていうことは起こりえません。それならば、目の前に現れる情報をインプットし続け、いろんな経験を積むしかありませんよね。

 こうやって書くと苦行のようにも感じてしまうかもしれません。しかし、インプットを続けているとある瞬間、

 「これはすごいぞ!!」

と興奮を禁じえない場面に出くわすことがあります。


 悩みや困難な状況に陥っている時、

 「そういえば、この情報とこの情報を組み合わせれば解決できるかも!」
 「あ、よく考えたら何日前から続いているエラーの原因がこっちにも影響しているのでは!?」
 「前にAさんが困っているって言ってたのはこういう状況じゃなかったっけ?」

という思いつき、みなさんも経験がありませんか?

 このような経験の事例としてよく知られた逸話は、アルキメデスが冠の比重を測る方法を思いついて

 「エウレカ!(わかった!)」

と叫んだというものもありますよね。

 なにも材料がないまま、悩みや問題の解決策を思いつくことはないでしょう。これまで知っていたこと、経験したことが組み合わさって解決の糸口を思いつく、皆さんのこれまでにもきっとその繰り返しがあったのではないでしょうか?



 いろんなインプットを増やしてもすぐに役に立つわけではないことは前回お話しました。でも、インプットを増やして自分の体の一部に取り込んでおくからこそいざというときに決断や発明や困難な状況を乗り切るインスピレーションといったものの元になるのだと思います。



 これはちょうどお湯を沸かす時と同じようなものですね。熱を加えていっても100℃になるまでは水は水のまま。
100℃になって沸騰するまでは加えた熱が明確な変化を生むわけではありません。(見た目泡がたくさん出て沸騰しそうだな、というのは分かるのですけど…)

 でも100℃になった瞬間に水は沸騰して内部からも蒸発が起こるようになります。これは100℃になった瞬間に加えられた熱だけではなく、それまで何の変化も生まなかった熱を加え続けてきたからこそ起こる現象です。

 情報のインプットもお湯を沸騰させるための熱と同じ。何かのインスピレーションが起こるまでには延々とインプットが続き、見た目の変化がありません。でも、ある瞬間これまでインプットを続けてきたからこそきっかけさえあれば、インスピレーションが生まれ、難しい決断や面白い発明や解決策が思いつくのではないでしょうか?



 Ozakiは「これまでのインプットが沸騰を起こす」瞬間こそ興奮を禁じえない時なのだと感じます。そのためにも一見変化が見えない状況でもインプットを増やし、インプットを続けることが大切なのだと思いますし、それは決して苦しいことではなく面白いことだな、と捉えています。