今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

両界山 横蔵寺(岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲神原)

2013年09月01日 | 神社・仏閣
永保寺の駐車場で地図を開くとミイラで有名な横蔵寺が比較的近くにあることがわかり次の目的地に設定した。

両界山 横蔵寺の歴史
岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲神原にある天台宗寺院。
山号は両界山、本尊は薬師如来。西美濃三十三霊場第一番札所。
国の重要文化財を含む多数の文化財を有し、「美濃の正倉院」とも呼ばれる。
 
横蔵寺という寺名は笈が横倒しになったことに由来し、山号は金剛界と胎蔵界の両界を表す両界山である。
広い駐車場には私の車1台のみ。水分を補給しているとお孫さんと散歩している男性に声を掛けられる。
車のナンバーを見て北海道からよく来てくれた。
この時期は参拝者は少ないが紅葉時期には駐車場が一杯になるといったことを話してくれた。

医王橋、瑠璃橋を渡り緩やかな坂と石段を進むと仁王門が視界に入ってくる。



仁王門(岐阜県指定重要文化財)
檜皮葺の楼門、三間一戸(正面の柱間が3間で中央の1間が戸口)である。 
延宝3年(1675年)完成。







本堂側から見た仁王門。落ち着いた雰囲気ですばらしい。
仁王像は別の場所に安置されている。




三重塔(岐阜県指定重要文化財)
現存する仏像の中で、大日如来像(重要文化財)には平安時代最末期の寿永2年(1183年)の銘があり、同年、三重塔の本尊として造立された。



狭い空間に立っている三重塔で全体をはっきりと見ることはできないが、木材の質感にも歴史を感じることができ、印象に残るすばらしい塔である






本堂側から見た塔。



本堂(岐阜県指定重要文化財)



横蔵寺は日本天台宗の宗祖・最澄が自作の薬師如来を安置して創建した寺とされている。
最澄は比叡山延暦寺を開創する際に、本尊薬師如来像を自ら刻んだが、その薬師如来像を造ったのと同じ霊木から、もう1体の薬師如来像を造った。
最澄は、その2体目の薬師如来像を笈(背中に背負う箱状のもの)に入れて諸国を旅したが、延暦22年(803年)、横蔵寺のある地まで来た時に薬師如来像が動かなくなったので、ここに一寺を建立して薬師如来像を祀ることにし、地元の三和次郎大夫藤原助基が寺を建立したという(創建年は801年あるいは805年とも)。




織田信長の焼き討ちによって、延暦寺の伽藍が灰になった後、横蔵寺の本尊薬師如来像は、「延暦寺本尊と同じ霊木から造られた、最澄自作の像」という由緒ある像だということで延暦寺に移された。
その代わりに、洛北の御菩薩池から移されたのが、横蔵寺の現本尊である薬師如来像であるという。

60年に一度公開される秘仏薬師如来像が安置されている。




観音堂



瑠璃殿
「美濃の正倉院」とよばれているように、国の重要文化財を含む多数の文化財の宝庫。

3年後の今、建物の記憶はあるが仏像の記憶が抜けている。次に記載するミイラの印象が強すぎたのだろうか。


舎利堂
舎利堂に安置される「舎利仏」すなわちミイラは、妙心法師という人物の遺体である。
妙心法師は横蔵寺の地元の村の出身で、俗名を古野小市良。
天明元年(1781年)に生まれ、諸国を巡って仏道修行をし、文化14年(1817年)、断食修行の後、今の山梨県都留市の御正体山で即身成仏したという。
遺体は何らの加工もなく、自然にミイラ化したとされ、日本のミイラ仏の中では最も若い。
当初は成仏した地の山梨県都留郡鹿留村で保存されていたが、明治初年に山梨県庁に移され、明治13年(1880年)に明治天皇が天覧になられた際に、故郷へ戻すようにとのお言葉があり、明治23年(1890年)、本人の出身地の横蔵寺に移された。

係の女性の話では「そば粉」を食していたため遺体に腐敗がみられなかったと聞いたので、私もこの旅行中「そばを主食」にして旅行後に予定されている健康診断を乗り切る計画を立てた。
3年前のことなので結果をいうと1週間で体重5キロ減、血液サラサラ、血圧正常と最高の結果となった。

ところが精神に腐敗がおこり、旅行1ヶ月後には旅行前の正常値に戻った。
広い駐車場には私の車のみ、参拝者も私一人だったような気がする。




撮影平成22年7月23日

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