今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

太宰治記念館「斜陽館」(青森県五所川原市金木町朝日山)

2021年09月22日 | 博物館・美術館・記念館
訪問日 令和3年6月11日

太宰治記念館「斜陽館」(重要文化財)
明治40年(1907年)に太宰の父で衆議院議員であった津島源右衛門によって建てられたもの
和洋折衷・入母屋造りの建物は、米蔵にいたるまで青森ひばが使用されている



階下11室278坪、2階8室116坪、付属建物や泉水を配した庭園など合わせて宅地約680坪の規模を有する大地主の豪邸である



太宰が中学進学に伴い大正12年(1923年)に青森市へ転居するまでこの家で暮らした






太宰はこの家を「苦悩の年間」の中で
「この父は、ひどく大きい家を建てた。風情も何も無い、ただ大きいのである」と書いている









欄間の透彫






襖絵









津島家仏壇






絵皿には興味はないが、金銭的にどの程度の価値あるものなのかには興味がある



柱時計
これもただの大きなのっぽの古時計ではないはず



「SEIKOSHA」の文字
文字盤の周りの装飾も普通ではない






「太宰治像(中村晋也 作)
芦野公園にある太宰治像の原型



文庫蔵展示室
この先は撮影禁止となる
展示室では多くの作品の中に「トカトントン」という懐かしい本を見つけた
若い頃に読み、印象に残っている本だった



数年前に「走れメロスの裏話」をTVで知った
走れメロスは太宰治の実体験が元になっている
<以下引用>
ある時、熱海の村上旅館で遊んでいた太宰の元に、彼の妻の依頼で檀一雄は金を持ち駆け付ける。
しかし太宰はあろうことか、檀一雄をひき止め遊び倒して、金を使い切ってしまう。
呑み代や宿代が払えないので、太宰は檀一雄を人質にし、師匠の井伏鱒二に金を借りに東京に駆ける。

「逃がした小鳥が帰って来るというのか」
「そうです。帰って来るのです」



しかし何日待っても帰って来ない太宰に、檀一雄は痺れを切らし、支払いを待ってもらい井伏鱒二を訪ねる。
すると太宰は呑気に井伏鱒二と将棋を指していたという。何でも迷惑をかけ続けた師匠に、金を借りるとは言いにくかったそうである。
激怒した檀一雄に太宰は「待つ身が辛いかね。待たせる身が辛いかね。」といきり立って反駁したという。

このような実体験が、あの感動小説になるのだから、太宰はある意味天才だ



庭園



金融執務室



2階に上がる



洋間






書斎・母の居室
子供達の勉強部屋・遊部屋でもあった
襖には4枚の漢詩(左から2枚目に注目)



太宰はこの漢詩の前に机を置き勉強していた
漢詩の最後の文字に「斜陽」と書かれていてる
太宰には見慣れた文字で小説「斜陽」との関連性をうかがえる貴重な部屋



主人室
全室で一番質素な部屋
貴族院議員になってから東京の別宅で過ごす事が多くなった



金襖の日本間
貴賓室として使われていた



西側和室
一般の来客や議員のお付きの人が通された部屋












昭和23年(1948年)農地改革によって津島家が手放すことになった
昭和25年(1950年)から平成8年(1996年)まで46年間は、旅館として太宰ファンに親しまれた



平成10年(1998年)から旧金木町が買い取り、現在の太宰治記念館となっている



平成16年(2004年)国の重要文化財に指定
平成17年(2005年)の市町村合併に伴い、五所川原市の所有となる



太宰治の代表作「斜陽」は、没落していく上流階級の人々を指す「斜陽族」という意味の言葉を生みだした
太宰治の生家である記念館は、本書の名をとって「斜陽館」と名付けられた



米蔵
小作人が納めた米俵を収納していた
2250俵の米を納めることのできる米蔵が全部で3棟あった



駐車場近くにある津軽三味線会館



撮影 令和3年6月11日

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