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集団的自衛権と湾岸戦争(1991年)のトラウマ

2014-07-17 09:33:20 | トーク・ネットTalk Net
 詳細は 7/17付毎日「記者の目」欄:http://mainichi.jp/shimen/news/20140717ddm005070010000c.html をご覧戴きたい。
但し、要約の出発点として、以下の文は引用しておく。
 <いわゆる「保守」の人々が湾岸戦争の「教訓」を長年考え続けたのに対し、いわゆる「リベラル」の人々は「トラウマ=忌まわしい記憶」として忘れようとする傾向が強かったのではなかろうか。このことは集団的自衛権をめぐる論戦にも影響していて、双方に優れた論考があるのは確かだが、私の目には「リベラル」の側に稚拙で雑な文章が多いように映った。「こう書くのが平和主義なんだ」という安易で根拠のない思い込みが論理の緻密さを失わせ、朝日社説が指摘した「怠慢」にも通じるような気がしたのである>。
  ここで引用されている朝日社説(1991.5.3)とは<「今回浮き彫りになったのは、日本の政治・外交が平和主義の基本理念を積極的に発信し、世界に浸透させる努力を十分重ねておらず、むしろ憲法理念を『制約』として自らの怠慢の言い訳にしか使ってこなかった、という事実ではないだろうか」>。また <翌92年の憲法記念日には毎日新聞の社説が「『正義の戦争などない』という正論性を、とことん詰めもしないで済ませてきた日本が、その虚を突かれたのが湾岸戦争だった」と総括し、「戦争放棄の理想という原点」を踏まえ「人的な貢献策をギリギリ詰めていく」必要性を説いている>。
 
 そして<国連決議を積み重ね「正義の戦争」といわれた湾岸戦争から同時テロを経て、米国は大義なきイラク戦争へ突き進んだ。これが湾岸戦争のイメージを損ない、集団安全保障の論議などに響いているのは残念だが、ともあれ米国が各国を強引に「テロとの戦争」に組み込む過程を私はつぶさに見た。米国の力が衰えた時も、肩代わり的に日本が巻き込まれる状況は生じよう。だが、米国の力に頼りつつ米国に巻き込まれるのを警戒するのは日本の宿命的な現実であり、二律背反的な要素を使い分けて日本は平和を保ってきたともいえる。そう簡単に日本が巻き込まれるとは思わないし、巻き込まれることを自明とする必要もない>と同欄筆者:布施広氏(論説室)は説く。
 ← これを根拠なき楽観論と観るか見ないか?これは「見捨てられ論」の対極でもある。

 布施氏自身は<2001年の米同時多発テロ後、日本周辺の防衛と邦人保護に限って集団的自衛権の行使を認めた方がいいと思い始めた。テロもそうだが、中国や北朝鮮も含めて国際秩序の流動化が続く。憲法解釈は大事だし、閣議決定を急いだ安倍晋三政権を批判するのも当然である。だが、安全保障や国際貢献が絡むこの問題は所詮、賛成と反対では割り切れないのではないかという疑いを禁じ得ない。集団的自衛権をめぐる論戦は50年後100年後の日本を見据えた論議であってほしい。「私たち日本人は世界の中で、平和のためにどうしたいのか」。昔からリセットされがちな問いと向き合わない限り、行使を容認しようがしまいが、日本人は国際貢献でも安全保障でも主体的な選択はできないだろう>と結んでいる。  ← 非武装中立・核武装いずれも排除し、且つ日本は自力で自国を守れる3国<米・露・中>にはなれないので、米国に頼る選択肢しか現実にはない。  その中での<主体的な選択>とは何か? 考え続けよう。
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