◆ 【毎日・MediaNOW!】語彙も多様化の時代 長い名前はお好き?=近藤サト (ナレーター) 抜粋
・ 「リュウグウノオトヒメノモトユイノキリハズシ」は、海草の「アマモ」の別名。 アイドルのグループ名が「月に足跡を残した6人の少女達は一体何を見たのか…」。
リュウグウノよりさらに長く、そのためか場内アナウンスで名前を言い間違える始末。ちなみにライブ中は「ツキアト」という略称で。そろそろ読者の皆さんはお思いでしょう。
「寿限無があるじゃないか」と。日本人が長い名前をつけたがるのは今に始まったことではないようですね。タイトルや名前に工夫を凝らし、言葉の可能性を広げるのは、楽しく意義のあることです。
・ 一方、ナレーターとして近年とても感じるのが、ナレーションの量、文字数が非常に増えていることです。内心、こんなに「詰め込んで」理解してもらえるのかと思うこともあります。
文字数が増えすぎれば、語るスピードも速くなります。ただ、理解できるからそうなったので、日本人の日本語音声情報の理解スピードは上がっています。倍速視聴が良い例です。
★ にもかかわらず、日本人の語彙(ごい)力が低下しているといわれるのは皮肉です。無限に情報が得られる現代、自分の好む情報だけを選ぶことができ、それを咀嚼(そしゃく)する時間は
与えられず、すき間なく流れ込むとしたら。自らの言葉として再構成する時間は残されていないかもしれません。
語彙量に関しては個人個人の偏りが強くなってくる傾向はきっとあるでしょう。語彙も多様化の時代です。
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ナレーションを職業にする人の観察と所見に初めて接した。しかも短い文章の中でツボを押さえており感心した。タイトルやネーミングは関心を惹く使命ゆえ意図的に言葉を長くすることも多い。
近藤氏は、それが言葉の可能性を広げる事もあると指摘。商業的な可能性に限らず、言葉全般への関心を高めるという意味で、確かに可能性を広げるとの指摘は当たっているだろう。
他方、文章中に文字数を増やすのは、発話上での言いにくさや理解不足への懸念がありながら『日本人の日本語音声情報の理解スピードは上がっています』と肯定し、倍速視聴を良い例という。
其の一方で青字下線部でしめしたように<自らの言葉として再構成する>作業は困難だとも言及。これは多様化ではあっても、自分の中で租借できないなら<語彙が豊かになる>とは言えない。
つまり、聞き取りスピードが速くなっても、それは自分が言葉を発する際の選択肢が増え、微妙な意味合いや語感の違いをわきまえた上での慎重さ、思考過程をキチンと踏むことにはならないと、
近藤氏は言っているのだ。
19世紀ドイツリートの歌詞、日本内外で数々の詩人が遺した詩、或いは流行歌・歌謡曲の言葉。これらが人々の心を捉えるのは語彙の豊かさと組み合わせの妙が潜んでいるからだ。短歌や俳句にも
同様の妙があり、それが作句の楽しみとなる。時空を選ばず、詩文は音数の縛りの中で表現したいことを盛り込もうと努力するもの。
音数を増やすことで情報量も増やすのを目指す昨今の流行は語彙を増やすか?自分固有の言葉を増やすことに繋がるか? と問えば近藤氏が指摘するとおり、結びつきそうに思えない。
近藤氏は1968年生まれ。ここには父母とする世代が教育を受けた時代の趨勢が色濃く影響していそうだ。日本でラップ音楽がはやりだした1980年代に10~20代を過ごした年齢層が父母となり、
その子供世代はいま20~30代? 嗚呼、郁子なる哉!
・ 「リュウグウノオトヒメノモトユイノキリハズシ」は、海草の「アマモ」の別名。 アイドルのグループ名が「月に足跡を残した6人の少女達は一体何を見たのか…」。
リュウグウノよりさらに長く、そのためか場内アナウンスで名前を言い間違える始末。ちなみにライブ中は「ツキアト」という略称で。そろそろ読者の皆さんはお思いでしょう。
「寿限無があるじゃないか」と。日本人が長い名前をつけたがるのは今に始まったことではないようですね。タイトルや名前に工夫を凝らし、言葉の可能性を広げるのは、楽しく意義のあることです。
・ 一方、ナレーターとして近年とても感じるのが、ナレーションの量、文字数が非常に増えていることです。内心、こんなに「詰め込んで」理解してもらえるのかと思うこともあります。
文字数が増えすぎれば、語るスピードも速くなります。ただ、理解できるからそうなったので、日本人の日本語音声情報の理解スピードは上がっています。倍速視聴が良い例です。
★ にもかかわらず、日本人の語彙(ごい)力が低下しているといわれるのは皮肉です。無限に情報が得られる現代、自分の好む情報だけを選ぶことができ、それを咀嚼(そしゃく)する時間は
与えられず、すき間なく流れ込むとしたら。自らの言葉として再構成する時間は残されていないかもしれません。
語彙量に関しては個人個人の偏りが強くなってくる傾向はきっとあるでしょう。語彙も多様化の時代です。
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ナレーションを職業にする人の観察と所見に初めて接した。しかも短い文章の中でツボを押さえており感心した。タイトルやネーミングは関心を惹く使命ゆえ意図的に言葉を長くすることも多い。
近藤氏は、それが言葉の可能性を広げる事もあると指摘。商業的な可能性に限らず、言葉全般への関心を高めるという意味で、確かに可能性を広げるとの指摘は当たっているだろう。
他方、文章中に文字数を増やすのは、発話上での言いにくさや理解不足への懸念がありながら『日本人の日本語音声情報の理解スピードは上がっています』と肯定し、倍速視聴を良い例という。
其の一方で青字下線部でしめしたように<自らの言葉として再構成する>作業は困難だとも言及。これは多様化ではあっても、自分の中で租借できないなら<語彙が豊かになる>とは言えない。
つまり、聞き取りスピードが速くなっても、それは自分が言葉を発する際の選択肢が増え、微妙な意味合いや語感の違いをわきまえた上での慎重さ、思考過程をキチンと踏むことにはならないと、
近藤氏は言っているのだ。
19世紀ドイツリートの歌詞、日本内外で数々の詩人が遺した詩、或いは流行歌・歌謡曲の言葉。これらが人々の心を捉えるのは語彙の豊かさと組み合わせの妙が潜んでいるからだ。短歌や俳句にも
同様の妙があり、それが作句の楽しみとなる。時空を選ばず、詩文は音数の縛りの中で表現したいことを盛り込もうと努力するもの。
音数を増やすことで情報量も増やすのを目指す昨今の流行は語彙を増やすか?自分固有の言葉を増やすことに繋がるか? と問えば近藤氏が指摘するとおり、結びつきそうに思えない。
近藤氏は1968年生まれ。ここには父母とする世代が教育を受けた時代の趨勢が色濃く影響していそうだ。日本でラップ音楽がはやりだした1980年代に10~20代を過ごした年齢層が父母となり、
その子供世代はいま20~30代? 嗚呼、郁子なる哉!
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