【Area dot.】★ なぜ今『歎異抄』なのか?高橋源一郎さんが読み解いた 抜粋
作家・高橋源一郎さんが昨年11月に刊行した『一億三千万人のための「歎異抄」』(朝日新書)がロングセラーとなっている。もっとも重要なのは第二条の以下の部分だろう。
・ 「念仏は、まことに浄土に生(うま)るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業(ごう)にてやはんべるらん、総じてもつて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、
念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候(そうろ)ふ」 これを、ぼくはこんなふうに訳してみた。
⇒ 「正直にいいます。ネンブツをとなえて、ほんとうにゴクラクジョウドに行けるのか、それともジゴクに落ちてしまうのか、わたしにはわかりません。ほんとうにわからないのです。
けれどそれでもいいのです。そんなことはどうだっていいのです。結果としてホウネンさまにまんまと騙され、ネンブツをとなえながらジゴクに落ちたってかまわないのです」
① およそあらゆる宗教というものにつきまとうもの。「信仰」とか「来世」とか「救済」とか「神」といったもの。それがなければ、そもそも「宗教」など存在することができないなにか。
しかし、それらはほんとうに「信じる」ことができるのだろうか。「死後の生」なんて、ほんとうにあるのだろうか。
② あらゆる宗教が「ある」と宣言しているものを疑えば、どんな信仰も崩れ去ってしまうような何か。その宗教を信じている人たちすべての人の心の奥底に、ほんとうは存在している、小さな、
でもほんとうは大きな疑問。それを押し隠したところで、あらゆる宗教は成立している。
③ いや、宗教だけではない。家族も、社会も、もしかしたら、人間が作り出したものはすべて、どこか疑わしいところがあるのかもしれない。でも、疑えば、すべてが終わってしまうから、
ぼくたちは黙りこむのだ。黙りこむことによって、かろうじて、すべては成立しているのだ。 ← そう、此の恐怖から何かを信じたくなるのだ
【A】 「ジゴク」とか「ゴクラクジョウド」とか、そんなものがほんとうにあるのかと。「シンラン」は、弟子である「ユイエン」にいうのである。
<わたしは信じている。ほんとうに心の底から信じている。信じることができる。師である「ホウネン」さまのおっしゃることだけは。それだけで十分なのだ。なにもいらないのだ。
誰かを心の底から信じることができる、ということ。その能力が自分にはあるのだ、ということ。それ以上のものは、世界には存在しないのだから。
世界はそのようなものであるべきだ。見返りがあるから、意味があるから、みんなに認められるから、そのことをするのではない。なにもなくとも、見返りなどなくとも、意味などなくとも、
誰にも認められなくとも、私は、たったひとりで、誰かを信じるのだ。たったひとりの私しか、その人を信じることがなくとも>。
【B】「ことば」には実体などなく、もろく、か弱い。だが、それをこそ信じなければならないのだ。それが「信仰」なのだ。それ以外の「信仰」は無意味なのだ。
そして、そんな「信仰」がなければ、この世界が存在する意味などないのだ。「シンラン」が「ユイエン」に告げたのは、そのことだった。
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人間は成長するにつれ、周囲・社会を見渡し、対象が何であれ表現手段を問わず、何らかの意味づけ・生きた証を求めるようになる。最も下卑た実例は昨今のSNS における鬱憤晴らし連中だ。
上の③で高橋氏が言うように、家族への愛を含めて全てを疑えば人生は終わる、それは怖いから何かを信じたいのだ。この「意味づけ」に<信仰>はもってこいだ。
其の<信仰>とは【A】にあるとおり、見返りが無くても自分が尊敬する誰かの全存在を信じ、言葉を胸に戴くこと。これは一神教であろうがなかろうが同じ【信者の精神構造】だ。
【B】で高橋氏が言っているのは、誰かを崇めるにせよ、人間だから言葉でつながる他はない。だから尊崇する人の放った言葉を<信じ仰ぐ>しかないのだと。
◆ 私は<信仰>に生きる人の精神構造と人生を簡潔に整理する高橋氏の解析に異論はない。そのとおりだ。・・唯、私は③を幼少から感じているが、信じる誰かを持たないし、持とうと思わない。
作家・高橋源一郎さんが昨年11月に刊行した『一億三千万人のための「歎異抄」』(朝日新書)がロングセラーとなっている。もっとも重要なのは第二条の以下の部分だろう。
・ 「念仏は、まことに浄土に生(うま)るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業(ごう)にてやはんべるらん、総じてもつて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、
念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候(そうろ)ふ」 これを、ぼくはこんなふうに訳してみた。
⇒ 「正直にいいます。ネンブツをとなえて、ほんとうにゴクラクジョウドに行けるのか、それともジゴクに落ちてしまうのか、わたしにはわかりません。ほんとうにわからないのです。
けれどそれでもいいのです。そんなことはどうだっていいのです。結果としてホウネンさまにまんまと騙され、ネンブツをとなえながらジゴクに落ちたってかまわないのです」
① およそあらゆる宗教というものにつきまとうもの。「信仰」とか「来世」とか「救済」とか「神」といったもの。それがなければ、そもそも「宗教」など存在することができないなにか。
しかし、それらはほんとうに「信じる」ことができるのだろうか。「死後の生」なんて、ほんとうにあるのだろうか。
② あらゆる宗教が「ある」と宣言しているものを疑えば、どんな信仰も崩れ去ってしまうような何か。その宗教を信じている人たちすべての人の心の奥底に、ほんとうは存在している、小さな、
でもほんとうは大きな疑問。それを押し隠したところで、あらゆる宗教は成立している。
③ いや、宗教だけではない。家族も、社会も、もしかしたら、人間が作り出したものはすべて、どこか疑わしいところがあるのかもしれない。でも、疑えば、すべてが終わってしまうから、
ぼくたちは黙りこむのだ。黙りこむことによって、かろうじて、すべては成立しているのだ。 ← そう、此の恐怖から何かを信じたくなるのだ
【A】 「ジゴク」とか「ゴクラクジョウド」とか、そんなものがほんとうにあるのかと。「シンラン」は、弟子である「ユイエン」にいうのである。
<わたしは信じている。ほんとうに心の底から信じている。信じることができる。師である「ホウネン」さまのおっしゃることだけは。それだけで十分なのだ。なにもいらないのだ。
誰かを心の底から信じることができる、ということ。その能力が自分にはあるのだ、ということ。それ以上のものは、世界には存在しないのだから。
世界はそのようなものであるべきだ。見返りがあるから、意味があるから、みんなに認められるから、そのことをするのではない。なにもなくとも、見返りなどなくとも、意味などなくとも、
誰にも認められなくとも、私は、たったひとりで、誰かを信じるのだ。たったひとりの私しか、その人を信じることがなくとも>。
【B】「ことば」には実体などなく、もろく、か弱い。だが、それをこそ信じなければならないのだ。それが「信仰」なのだ。それ以外の「信仰」は無意味なのだ。
そして、そんな「信仰」がなければ、この世界が存在する意味などないのだ。「シンラン」が「ユイエン」に告げたのは、そのことだった。
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人間は成長するにつれ、周囲・社会を見渡し、対象が何であれ表現手段を問わず、何らかの意味づけ・生きた証を求めるようになる。最も下卑た実例は昨今のSNS における鬱憤晴らし連中だ。
上の③で高橋氏が言うように、家族への愛を含めて全てを疑えば人生は終わる、それは怖いから何かを信じたいのだ。この「意味づけ」に<信仰>はもってこいだ。
其の<信仰>とは【A】にあるとおり、見返りが無くても自分が尊敬する誰かの全存在を信じ、言葉を胸に戴くこと。これは一神教であろうがなかろうが同じ【信者の精神構造】だ。
【B】で高橋氏が言っているのは、誰かを崇めるにせよ、人間だから言葉でつながる他はない。だから尊崇する人の放った言葉を<信じ仰ぐ>しかないのだと。
◆ 私は<信仰>に生きる人の精神構造と人生を簡潔に整理する高橋氏の解析に異論はない。そのとおりだ。・・唯、私は③を幼少から感じているが、信じる誰かを持たないし、持とうと思わない。
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