静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

≪ 石原慎太郎氏逝去をめぐる”品位・品格”論争 ≫  「公人」の功罪を均衡よく論じる事はいけないことか?

2022-02-06 11:34:13 | 時評
 予想どおり、同氏の死去後、生前の言動に対する批判の声を挙げた人への反論や攻撃がでてきた。其の批判や攻撃の核心は、死去直ぐに批判することが中国古典の<史記>にある『死屍に鞭打つ』
にあたる行為だから慎め!というものだ。批判の内容は横に置き、タイミングが良くないとする伝統的感情であろう。では、間を置けば良い・・との根拠は何だ?間を置けば忘れるだけでは?

 同氏が作家として時々の政治や社会批判活動に加わっていた場合でも、其の言動は飽くまで私人としてであり、今回批判を受けている言動があっても、それが他者の人権を損なわず、且つ、
個人の思想&言論の自由の範囲内にとどまる限り、生前から其の批判や否定的論評は覚悟のうえでの行為だし、死後に繰り返されても『死屍に鞭打つ』とまでは誰も思わない。

 だが、選挙を経て付託された公的権力を行使する立場にある間の言動は、歴史的検証に晒されるものであり、其の地位が高いほど死後も批判は甘受せねばなるまい。これが公人と私人の決定的な差
であろう。此の差を自覚することが”品位・品格”でもある。 石原氏は此の意味での品位・品格を敢えて意図的に脱ぎ捨てることを「売り」にしており、公言して憚らなかった。

 厳しく批判する人からすれば、公人としての品位・品格を欠いた人物は『死屍に鞭打つ』に値するくらいは感じているだろう。そうするか否かは、批判者の自由だ。忖度の対象ではいけない。
日本の穏やかな風土には馴染みにくい峻別だが、私人としての評価が公人としての評価を左右してはならない。此の1点において、タイミングではなく、批判の中身をこそ論じ合うべきだと信じる。
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