まち・ひと・くらし-けんちくの風景-

建築設計を通してまち・ひと・くらしを考えます。また目に映るまち・人・くらしの風景から建築のあるべき姿を考えています。

アメリカ大都市の死と生などを読む

2013-09-16 15:11:32 | 講義・レクチャー Lecture

ジェーンジェイコブスの『アメリカ大都市の死と生』はなぜか前半の2章だけが黒川紀章氏によって翻訳されていました。最近その後半部も含めた完全版が出版されました。

最近読んだ槇文彦氏のエッセイのなかにご自身がアメリカで建築家としての基礎を形成していた時期にジェーンジェイコブスがモーゼス(ニューヨークの都市計画・建設部門のドンを長く勤めていた人物。スクラップアンドビルド型の近代都市計画の権化としてジェイコブスの本に登場。最近でた『ジェイコブスとモーゼスの戦い』という本に詳しい)に反旗を翻す活動を目の当たりにしていたという記述がありました。一市民であるジェーコブスが時の「権威」にたいして堂々と物申す姿を槇文彦氏は健全な市民社会の一断面として捕らえておられます。そんなことを念頭に、新訳書を読んでみました。

      
ジェーコブスの本はまさに彼女が実体験の中で発見した事柄を生き生きと記述します。私はこの本の中で彼女の都市に対する捉え方を再認識しました。

19章「視覚的秩序」を読むと彼女が、視覚的な美しさを求めるという意味での都市デザインに否定的であることがよくわかります。都市デザイナーたちが理想とする、形態や素材が統一され、都市形成の原理がわかりやすく共有されている美しいまちは、閉鎖社会が生み出した過去のものであり、現代都市が目指すものではないと切り捨てます。

都市は大変多くの多様な要素が一定の関係性を持ち合いながら集合している複雑な全体であるというのが彼女の都市観です。都市デザイナーが好むようにそこにわかりやすいストラクチャーを持ち込むなど無用のことです。しかし複雑だけどそこに意味のある秩序を見出すのが人間です。そういう意味では市民みんなが芸術家なのです。都市デザイナーが芸術家ぶって「生活を無視した秩序」を押し付けるのはやめなさいというわけです。

都市デザイナーの役割は用途の多様性を用意して、住民・利用者がお互いを支えあう活動を支援することだと断言します。

都市デザイナーが理想とする美しい集落景観に比べると現実の都市景観は大変平凡だけどそれは無数の人々が無数の計画を作り活動する自由の表れだと彼女は見ています。都市は、「相互依存的な利用、自由、生活の生きた標本」であり勝手に単純化してそれをあるがままに見る精神を失ってはいけないものなのです。

彼女の都市観は槇氏の都市の捉え方と通ずるものがあるのではないかと改めて気付かされました。

また、槇氏の別のエッセイ(最近一気にいくつかのエッセイを読んで、どのエッセイだったか若干混乱しています)に触発されて読んだNew Directions in American Architecture(今頃読んでいるのが恥ずかしい限りですが)で提示されるインクルーシブな建築という概念をジェイコブスは以下のように自在に展開しています。

20章「プロジェクトを救うには」の中で都市計画家によって遂行されるプロジェクトを「普通の都市から抽象的に取り除かれて分離された」ものとして断罪します。プロジェクトの本来の目標は「都市のパッチ(端切れ布)を全体としての布地に編み込み直すこと-そしてそのプロセスの中で周囲の構造を補強すること」に置くべきだと主張します。

プロジェクトは「それ自体として健全な都市構造の性質を身につける必要性」があり、周辺との関係性の中で敷地の中のあり方を考えていくべきとの主張はまさにインクルーシブな建築のことを言っているように思えます。

この本が書かれた1960年代はコルビジェ、CIAMに代表される近代建築や近代都市計画の考え方に疑問が呈された時期です。ヨーロッパ中世都市の統一的な美しさやコルビジェ的な輝く都市という明快な目標像が揺らいでいく時期ですが一方では大変中身の濃い議論が健全な市民社会という枠組みの中で自由に展開された時代なのでしょう。、まさにジェーコブスが言うように統一されてはいないがさまざまな主体の自由が保障されていた時代だったのでしょうか。