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永子の窓

趣味の世界

枕草子を読んできて(58)

2018年05月23日 | 枕草子を読んできて
四五  池は (58) 2018.5.23


 池は 勝間田。磐余の池。贄野の池、初瀬にまゐりしに、水鳥のひまなく立ちさわぎしが、いとをかしく見えしなり。水なしの池、あやしう、などてつけるならむと問ひしかば、「五月など、すべて雨いたく降らむとする年は、この池に水といふ物なくなむある。また、日のいみじく照る年は、春のはじめに水なむおほく出づる」と言ひしなり。「げになべてかわきてあらばこそさもつけめ、出づるをりもあるなるを、一すぢにつけけるかな」といらへまほしかりし。
◆◆池は 勝間田。磐余の池。これがいい。贄野の池、これは初瀬の長谷寺に参詣した時に、水鳥が隙間もなく立ち騒いだのが、とても面白く見えたのだ。水なしの池、不思議で、どうしてこんな名をつけたのかと聞いたらば、「五月など、いったいに雨が例年より多く降ろうとする年は、この池に水というものがないのです。また、逆に日がひどく照りつける年は、春のはじめに水がたくさん湧き出るのです」と言ったのである。「なるほど、ずっといつも乾いているのであれば、水なしと付けてもよいだろうが、水が湧き出る時もあるという話なのに、いちずにつけたものですね」と応酬したかったことよ。◆◆

■勝間田(かつまた)=奈良県生駒郡にあったが、当時すでに名のみだったらしい。歌枕。
■磐余の池(いはれのいけ)=奈良県磯城郡にあった池。歌枕。
■贄野の池(にへののいけ)=京都府相楽郡にあった池。『蜻蛉日記』『更級日記』に見える。



 猿沢の池、采女の投げけるを聞こしめして、行幸などありけむこそ、いみじうめでたけれ。「寝くたれ髪を」と、人麻呂がよみけむほど、言ふもおろかなり。たまへの池、また何の心につけけるならむとをかし。鏡の池。狭山の池、三稜草といふ歌のをかしくおぼゆるにやあらむ。こひぬまの池、「玉藻はな刈りそ」と言ひけむもをかし。益田の池。
◆◆猿沢の池、采女が身を投げたのを帝がお聞きあそばして、行幸などがあったというのこそ、たいへんすばらしいことだ。「寝くたれ髪を」と、人麻呂が詠んだという折など、そのすばらしさは、言うにも言葉が足りないほどだ。たまへの池、「給え」とはまたどういうわけでつけたものだろうと、おもしろい。鏡の池。狭山の池、これは「狭山の池の三稜草(みくり)」という歌がおもしろく感じられるのであろうか。こいぬまの池。はらの池、「玉藻はな刈りそ」とうたったというのもおもしろい。益田の池。◆◆

■猿沢の池=奈良県興福寺の南
■采女の投げける=『大和物語』に説話が見える。奈良の帝の時、一人の采女(うねめ)が帝の寵愛の薄れたのを悲しみ、この池に投身した。帝は池に行幸、その時人麻呂が詠んだ歌が、「吾妹子が寝腐れ髪を猿沢の池の玉藻と見るぞ悲しき」だとする。
■たまへの池=給えの池?
■鏡の池=所在不詳
■狭山の池=大阪府南河内郡の池か。
■三稜草(みくり)=水草の名。「恋すてふ狭山の池の三稜草(みくり)こそ引けば絶えすれ吾は根絶ゆる」古今集
■こひぬまの池(恋沼のいけ)=所在不詳。
■はらの池=埼玉県旗羅郡(現、深谷市周辺)にあった池か、または高槻市内にあった池。
■益田の池=奈良県高市郡。


枕草子を読んできて(57)その2

2018年05月19日 | 枕草子を読んできて
四四   木の花は  (57)その2

梨の花、世にすさまじくあやしきものにして、目に近く、はかなき文つけなどだにせず。愛敬おくれたる人の顔などを見ては、たとひに言ふも、げにその色よりしてあいなく見ゆるを、唐土には限りなき物にて、文にも作るなるを、さりともあるやうあらむとて、せめて見れば、花びらの端にをかしきにほひこそ、こころもとなくつきたンめれ。楊貴妃、御門の御使ひに会ひて、泣きける顔に似せて、「梨花一枝春雨を帯びたり」など言ひたるは、おぼろけならじと思ふに、なほいみじうめでたき事は、たぐひあらじとおぼえたり。
◆◆梨の花は、世間では興ざめで変なものだとして、近くに置いたり、ちょっとした手紙にさえ付けたりしない。可愛げのない人の顔を見ては、その例えにして言うのも、なるほどその色からしてどうにもならない感じに見えるのだが、中国では、この上ないものとして、漢詩にも作るということであるから、きっと何か理由があるだろうと思って、目を凝らして見ると、花びらの端のところに、美しい色艶が、ほんのちょっと付いているようだ。楊貴妃が、玄宗皇帝の御使者に会って、泣いた顔にたとえて、「梨花一枝春雨を帯びたり」などと言っているのは、並一通りではあるまいと思うにつけて、やはりとてもすばらしいことは、他に類があるまいと感じられる。◆◆



 桐の花、紫に咲きたるは、なほをかしきを、葉のひろごりざまうたてあれども、また、こと木どもとひとしう言ふべきにあらず。唐土にはことごとしき名つきたる鳥の、選りてこれにしもゐるらむ、いみじう心ことなり。まして琴に作りて、さまざまに鳴る音の出で来るなど、をかしなど、世の常に言ふべくやはある。いみじうこそはめでたけれ。
 木のさまぞにくけれ楝の花いとをかし。かれわれにさまことに咲きて、かならず五月五日にあふもをかし。
◆◆桐の花が、紫に咲いているのは、ことに情趣があるものであって、葉の広がり方が嫌な感じがするけれども、他の木々と同列に論ずるべきではない。中国では大げさな名のついている鳥―鳳凰―が、選んでこの木に棲むそうであるのは、たいへん格別な感じがする。まして、桐を琴に作って、いろいろな鳴る音が出てくるなどというのは、おもしろいなどと、世間一般の言葉で言うことができようはずがない。非常にすばらしいものだ。
 木の様子は感じがよくないけれど、楝の花はたいへんおもしろい。?のように変わった咲き方をして、
五月五日にの節供に咲きあうのもおもしろい。◆◆

■楝の花(あふちのはな)=紫色で穂状をなして群がって咲く。現在の栴檀(せんだん)という。
■かれわれに=不詳


枕草子を読んできて(57)その1

2018年05月16日 | 枕草子を読んできて
四四   木の花は  (57)その1  2018.5.16

 木の花は 梅の、濃くも薄くも、紅梅。桜の、花びら大きに、色よきが、枝はほそうかれはれに咲きたる。
 藤の花、しなひ長く、色よく咲きたる、いとめでたし。
 卯の花は、品おとりて、何となけれど、咲くころのをかしう、郭公の陰に隠るらむ思ふに、いとをかし。
祭のかへさに、紫野のわたり近きあやしの家ども、おどろなる垣根などに、いと白う咲たるこそをかしけれ。青色の上に、白き単襲かづきたる、青朽葉などにかよひて、なほいとをかし。
◆◆(草の花に対して)木の花は、梅の、濃いのでも薄いのでも、紅梅がよい。桜の、花びらが大きくて、色のよいのが、枝は細くて乾いた感じに咲いているのがよい。
 藤の花、これは花房が長く、色がよく咲いているのがたいへんよい。
 卯の花は、品格が劣って、何ということはないけれど、咲く時節がおもしろく、ほととぎすが花の陰に隠れているだろうことを思うと、たいへんおもしろい。
賀茂祭の帰りがけに、紫野のあたりに近いみすぼらしい家々や、乱れ茂っている垣根などに、たいへん白く咲いているのこそおもしろい。その様子は、黄ばんだ萌黄色の表着の上に、白い単衣襲を引きかぶっているのや、また卯の花のない所は青朽葉色の衣などに似通っていて、やはりたいへんおもしろい。


■郭公=ほととぎす。
■祭のかへさ=四月中の酉の日に行う賀茂祭。翌日斎院が紫野に帰るのを「祭のかへさ」という。
■紫野=むらさきの。京の西北にある野。
■単襲(ひとへがさね)=単衣を二枚重ねたもので表着(うわぎ)の下に着る夏用の衣装。



 四月のつごもり、五月ついたちなどのころほひ、橘の濃く青きに、花のいと白く咲きたるに、雨のふりたるつとめてなどは、世になく心あるさにをかし。花の中より黄金の玉かと見えて、いみじくきはやかに見えたるなどは、朝露に濡れたる桜におとらず。郭公の寄るとさへ思へばにや、なほさらに言ふべきにもあらず。
◆◆四月の月末や五月の初めなどのころ、橘の葉が濃く青いのに、花が真っ白に咲いているところに、雨が降る早朝などは、言うに言われぬほど情趣があっておもしろい。花の中からまるで黄金の玉かのように見えて、たいそうはっきりと見えているのなどは、朝露に濡れた桜の風情に劣らない。ほととぎすが寄ってくるとまで思うからであろうか、改めて言う必要もないくらいの素晴らしさだ。◆◆



枕草子を読んできて(56)その2

2018年05月08日 | 枕草子を読んできて
四三  七月ばかり、いみじく暑ければ  (56)その2 2018.5.8

 人のけはひのあれば、衣の中より見るに、うちゑみて、長押に押しかかりてゐぬれば、恥ぢなどする人にはあらねど、うちとくべき心ばへにもあらぬに、ねたうも見えぬるかなと思ふ。「こよなき名残の御あさいかな」とて、簾の内になからばかり入りたれば、「露より先なる人のもどかしさ」といらふ。
◆◆人の気配がするので、女は、かぶっている着物の中から見ると、男がにこにこして、下長押に寄りかかって座り込んでしまっているので、遠慮すべき相手ではないけれど、といって打ち解けてしたしくしてもいいという気持でもないのに、いまいましくも寝姿を見られてしまったことよ、と思う。「格別な、お名残りの御朝寝ですね」と言って、御簾の中に身体半分ほど入って来るので、「置く露より先に起きて帰った人のとがめたさに」とあしらって答える。◆◆



 をかしき事取り立てて書くべきにあらねど、かく言ひかはすけしきどもにくからず。枕がみなる扇を、わが持ちたるして、およびてかき寄するが、あまり近く寄り来るにやと、心ときめきせられて、引きぞくだらるる。取りて見などして、「うとくおぼしたること」など、うちかすめうらみなどするに、明かうなりて、人の声々し日もさし出でぬべし。
◆◆こうした風流事は、特に取り立てて書くべき程のことはないけれど、こんなふうに言葉のやりとりをしている男女の様子は悪いものではない。女の枕もとにある扇を、自分の持っている扇で、及び腰になって引き寄せる男が、度がすぎて近くまで寄って来るのかと、自然胸がどきっとして、女は思わず身を奥の方に引っ込めるようになる。男は扇を手に取って眺めたりして、「よそよそしく思っておいでのことよ」などと、軽く思わせぶりに恨み言を言ったりなどするうちに、明るくなって、人々の声がして、きっと日も差し出てしまうだろう。◆◆


 「霧の絶え間見えぬほどにといそぎつる文もたゆみぬる」とこそうしろめたけれ。出でぬる人も、いつのほどにかと見えて、萩の露ながらあるにつけてあれど、えさし出でず。香のいみじうしめたる匂ひ、いとをかし。あまりはしたなきほどになれば、立ち出でて、わが来つる所もかくやと、思ひやらるるもをかしかりぬべし。
◆◆「朝霧の晴れ間が見えないうちにと急いでいた後朝の文もつい遅くなってしまったことよ」と男は気がかりである。さきにこの女のもとから立ち出て帰ってしまった男も、いつの間にか書いたとみえて、萩の露がおいたままの枝につけて手紙を使いの者が持って来ているのだけれど、差し出すことができないでいる。手紙にたいそう香り高くたきしめてある香の匂いが、とても風情がある。あまり明るくて具合の悪い時刻になるので、男は女のもとから立ち出て、自分がさっき出て来てしまった女の所もこんなふうであろうかと、自然想像されるのも、男にとってはきっとおもしろいことであろう。◆◆





枕草子を読んできて(56)その1

2018年05月04日 | 枕草子を読んできて
四三  七月ばかり、いみじく暑ければ  (56)その1  2018.5.4

 七月ばかり、いみじく暑ければ、よろづの所あけながら夜も明かすに、月のころは、寝起きて見いだすもいとをかし。闇もまたをかし。有明はた言ふにもあまりたり。
◆◆七月のころは、ひどく暑いので、あちらもこちらも開けたままで、昼はもとより夜も明かすのだが、月のある頃は、寝て目を覚まして起き上がって、家の中から外を見るのもたいへんおもしろい。闇夜もまたおもしろい。有明の月のころの素晴らしさは、言うにおよばない。◆◆

■有明(ありあけ)=陰暦十六日以降の月。


 いとつややかなる板の端近く、あざやかなる畳一枚、かりそめにうち敷きて、三尺の几帳奥の方に押しやりたるぞあぢきなき。外にこそ立つべけれ。奥のうしろめたからむよ。人は出でにけるなべし。薄色の裏いと濃くて、上は所所すこしかへりたるならずは、濃き綾のいとつややかなる、いたくは萎えぬを、頭こめて、引き着てぞ寝たンめる。香染の単衣、紅のこまやかなる生絹の袴の、腰いと長く、衣の下より引かれたるも、まだ解けながらなンめり。
◆◆たいへん艶のある板敷の間の端に近く、ま新しい薄縁の畳を一枚、ちょっとそのときだけ敷いて、三尺の几帳を奥の方に押しやっているのは、なんとも意味のないことだ。外の方にこそ立てるべきである。奥の方が気がかりとは妙なこと。男はきっともう出て行ってしまったのだろう。女は薄い紫色の衣で、裏がたいへん濃くて、表面はところどころ少し色が褪めているものか、さもなければ、濃い綾織のとてもつやつやしているもので、それほど糊気が落ちてないのを、頭ごと引きかぶって寝ているようだ。その下には丁子染めの単衣を着て、紅色の濃い生絹の袴をつけているが、その腰紐がとても長く、着ている着物の下からのびているのも、まだ解けたままであるようだ。◆◆

■あざやかなる畳一枚(…たたみひとひら)=新しい畳。畳は現在の薄縁(うすべり)。
■香染の単衣(かうぞめのひとへ)=丁子で染めたもの。黄を帯びた薄紅色。

 
 
 そばの方に、髪のうちたたなはりて、ゆるるかなるほど、長さおしはかられたるに、またいづこよりにかあらむ、あさぼらけのいみじう霧立ちたるに、二藍の指貫、あるかなきかの香染の狩衣、白き生絹、紅のとほすにこそあらめ、つややかなるが、霧にいたくしめりたるをぬぎ垂れて、鬢のすこしふくだみたれば、烏帽子の押し入れられたるけしきも、しどけなく見ゆ。朝顔の露落ちぬ先に、文書かむとて、道のほどもなく「麻生の下草」など口ずさみて、わが方へ行くに、格子の上りたれば、簾のそばをいささかあけて見るに、起きていぬらむ人もをかし。露をあはれを思ふにや。しばし見たれば、枕がみの方に、朴に紫の紙はりたる扇ひろげながらあり。みちのくに紙の畳紙のほそやかなるが、花くれなゐにすこしにほひうつりたるも、几帳のもとに散りぼひたり。
◆◆女の寝ているそばの方に、髪がうねうねと重なって、ゆったりとしているその様子から髪の長さが自然想像されるのだが、そこへまたどこからやって来た男なのだろうか、夜明けのひどく霧が立ち込めている折から、二藍の指貫、色があるかないかの丁字染の狩衣を着て、白い生絹の単衣の、それは下の紅色が単衣に透いて通すのであろう、つやつやしているのが、霧でひどく湿っているのを、脱いだような形に垂らして、寝乱れた鬢が少しぶくぶくになっているので、烏帽子がむりに頭に押し入れられているといった格好も、しまりがなく見える。朝顔の露が落ちてしまわないうちに、女のもとへ後朝の文を書こうと思って、たいした道のりも行かないうちに、「麻生(おふ)の下草」などと口ずさんで、わが家へ帰る時に、女の局の格子が上がっているので、御簾の端をちょっとあけて中をのぞくと、起きてすでい女のもとから帰り去っていると思われる男のことも、この男には察せられておもしろい。帰り去った男も朝露をしみじみと感深く思うのだろうか。こののぞき見の男はしばらく女を見ていると、女の枕もとの方に、朴の木の骨に紫の紙を貼ってある夏扇が広げたままで置いてある。みちのくに紙の懐紙の細くたたんであるもので、花くれないの色に少し艶が失せているのも、几帳のそばに散らばっている。◆◆


■「麻生の下草」(をふのしたくさ)=「桜麻の麻生の下草露しあらば明かして(女の許に泊まって)ゆかむ親は知るとも」古今集
■にほひ=色艶の美しさをいう。



枕草子を読んできて(55)その4、その5

2018年05月01日 | 枕草子を読んできて
四二  小白川といふ所は   (55)その4  2018.5.1

 中納言「さて呼び返されつるさきには、いかが言ひつる。これやなほしたる事」と問ひたまへば、「久しく立ちて侍りつれど、ともかくも侍りざりつれば、『さはまゐりなむ』とて帰りはべるを、呼びて」など申す。「たれが車ならむ。見知りたりや」などのたまふほどに、講師のぼりぬれば、みなゐしづまり、そなたをのみ見るほどに、この車はかい消つやうに失せぬ。下簾など、ただ今日はじめたりと見えて、濃き単襲に、二藍の織物、蘇芳の薄物のうは着などにて、しりに、摺りたる裳、やがてひろげながらうちかけなどしたるは、何人ならむ。何かは。人のかたほならむことよりは、げにと聞こえて、なかなかいとよしとぞおぼゆる。
◆◆中納言は、「それで、呼び返された前には、何と言ったのか。これは言い直した返事か」とお問いになると、「長い間立っていましたけれど、どうという返事もございませんでしたので、『それでは、このまま帰参してしまいましょう』といって帰りますのを、呼んで」などと申し上げる。「誰の車だろう。見て知っているか」などとおっしゃるうちに、講師が講座にあがってしまったので、みな座って静かになり、講師の方ばかり見ているうちに、この女車はかき消すように見えなくなってしまった。車は下簾などは、ただ今日使いはじめたばかりと見えて、濃い紅の単襲に、二藍の織物、蘇芳色の薄物の表着(うわぎ)などの服装で、車の後ろに、模様を摺り出してある裳を、そのまま広げながら、打掛などしてあるのは、いったい何者なのだろうか。あの返事もどうして。人がなまじ不完全な返事をしようよりは、なるほどもっともだと聞こえて、かえってとてもよいと感じられる。◆◆


■下簾(したすだれ)=車の前後にある簾の内側に掛ける長い布。余りの部分を簾の外に出して垂らしておく。
■濃き単襲)(こきひとえがさね)=濃い紅の単えかさね。



四二  小白川といふ所は   (55)その5  2018.5.1

 朝座の講師清範、高座の上も光満ちたる心地して、いみじくぞあるや。暑さのわびしさに、しさすまじき事の、今日過ぐすまじきをうちのきて、ただすこし聞きて帰りなむとしつるを、しきなみにつどひたる車の奥になりたれば、出づべき方もなし。朝の講果てなば、いかで出でなむとて、前なる車どもに消息すれば、近く立たむがうれしさに、「はや」と引き出であけて出だすを見たまひて、いとかしがましきまでひとごといひに老上達部さへ笑ひにくむ、聞きも入れでいらへもせで、せばかり出づれば、権中納言、「やや、まかりゐぬるもよし」とて、うち笑ひたまへるぞめでたき。それも耳にもとまらず、暑きにまどひ出でて、人して「五千の中には入らせたまはぬやうもあらじ」と聞こえかけて帰り出でにき。
◆◆

■朝座(あさざ)=法華八講は朝夕二座おこなう。
■清範(せいはん)=法相宗の僧。文殊の化身といわれた当時の説経の名人。
■しきなみに=頻並(しきなみ)。あとからあとから立て続けに。
■まかりぬるもよし~=『法華経』方便品「是ノ如キ増上慢ノ人退クモ亦佳し」によって戯れたもの。釈迦が法を説こうとしたとき、五千人の増上慢(悟りを得たと思って高ぶっている人)が座を立って退いた。釈迦はこれを制止せずに上のように言ったという。
■五千の中に~=中納言に対するしっぺ返し。同じ故事によって、「釈迦をきどるあなたこそ五千の増上慢の一人でしょう」と言ったもの。




 そのはじめより、やがて果つる日まで立てる車のありけるが、人寄り来とも見えず、すべてただあさましう絵などのやうにて過ごしければ、ありがたくめでたく心にくく、いかなる人ならむ、いかで知らむ、と問ひたづねけるを聞きたまひて、藤大納言「何かめでたからむ。いとにくし。ゆゆしき者にこそあンなれ」とのたまひけるこそをかしけれ。
 さてその二十日あまり、中納言の法師になりたまひにしこそあはれなりしか。桜などの散りぬるも、なほ世の常なりや。「老いを待つ間の」とだに言ふべくもあらぬ御ありさまにぞ。
◆◆その八講のはじめから、そのまま終わる日まで毎日立っている車があったのが、そこから人が寄って来るとも見えず、総じてまったくあきれるばかりに絵かなにかのようでじっと動かずに過ごしたので、珍しく、すばらしく、奥ゆかしくて、いったいどんな人なのだろう、どうかして知りたいものだ、と人に聞いて探したことをお聞きになって、藤大納言が「何ですばらしいことがあろう。ひどく感じが悪い。なんとなく不気味な者だろうよ」とおっしゃったのこそおもしろい。
 さてそうしてその月の二十日すぎに、中納言が法師におなりになってしまったのこそ、しみじみと心に染みて覚えたことであった。桜などが散ってしまうのも、それにくらべれば、やはり世の常のことであるよ。「老いを待つ間の」とさえ言えないようなはかない中納言の御盛りのご様子であったことだ。◆◆

■中納言の法師に=寛和二年(986)六月二十四日、前日の花山天皇の落飾退位を追って義懐(よしちか)は出家した。


枕草子を読んできて(55)その3

2018年04月27日 | 枕草子を読んできて
四二  小白川といふ所は   (55)その3 2018.4.27

 後に来たる車の、ひまもなかりければ、池に引き寄せて立てたるを、見たまひて、実方の君に、「人の消息びびしく言ひつべからむ者一人」と召せば、いかなるにからむ、選りてゐておはしたるに、「いかが言ひやるべき」と、近くゐたまへるばかり言ひ合はせて、やりたまはむ事は聞こえず。いみじく用意して、車のもとに歩み寄るを、かつは笑ひたまふ。しりの方に寄りて言ふめり。久しく立てれば、「歌などよむにやあらむ。兵衛佐、返し思ひまうけよ」など、笑ひて、いつしか返事聞かむと、大人、上達部まで、みなそなたざまに見やりたまへり。げに顕証の人は見るも、をかしうありしを。
◆◆あとから来ている女車で、そこには入り込ませる隙間がなかったので、池に近く引き寄せて立ててあるのを、中納言が御覧になって、実方の君に、「人の口上を立派に伝えられそうな者を一人呼べ」とお召しになると、どういう人であろうか、実方の君が選んで連れていらっしゃったところ、「どう言い送ったらよいだろうか」と、中納言の近くにいらっしゃる方々だけがご相談になって、しかし、その内容はこちらには聞こえない。たいへん気を使って、使いの者が女車の方に歩みゆくのを、うまくいくか、それともとお笑いになる。使いは車の後ろの方に寄って口上を言うようである。しばらくの間使いが立っているので、「あちらでは、歌など詠むのだろうか。兵衛の佐よ、返しの歌を今から考えておけ」などと、笑って、早く返事を聞きたいものだと、年のいった人、上達部までが、皆そちらの方へ目にやっていらっしゃる。まったく、車に乗らずにそのまま見ている人々は、おもしろいことであったよ。◆◆



 返事聞きたるにや、すこし歩み来るほどに、扇をさし出でて呼び返せば、歌などの文字を言ひあやまちてばかりこそ呼び返さめ、久しかりつるほどに、あるべきことかは、なほすべきにもあらじものをとぞおぼえたる。近くまゐりつくも心もとなく、「いかにいかに」と、たれも問ひたまへど、ふとも言はず。権中納言見たまへば、そこに寄りてけしきばめ申す。三位中将「とく言へ。あまり有心過ぎて、しそこなふな」とのたまふに、「これもただ同じ事になむ侍る」と言ふは聞こゆ。藤大納言は、人よりもけにさしのぞきて、「いかが言ひつる」となたまふめれば、三位中将「いとなほき木をなむ押し折りたンめる」と聞こえたまふに、うち笑ひたまへば、みな何となくさとうち笑ふ声聞こえやすらむ。
◆◆返事を聞いたのであろうか、使いが少し歩いてこちらに来た時に、女車から扇を差し出して呼び返すので、歌などの言葉を言い間違えた時ぐらいにこそ呼び返しもしようが、それも待たせて長い時間かかった場合、そんなことはあってはならないことだと私はおもった。使いが近くにきて参上するのも待ち遠しく、「どうだ、どうだ」と、誰も誰もお聞きになるけれども、急にも答えない。権中納言が使いを見ていらっしゃるので、使いはそこに寄って態度を気取らせてもうしあげる。三位の中将(道隆)が、「早く言え。あまり風情を見せすぎて、返事をやりそこなうな」とおっしゃると、「申し上げることも(実は返事はもらえなかったのだから)返事をやりそこなったと同じ事でございます」と言うのは聞こえる。藤大納言は、人よりもとりわけて覗き込んで、「どう言ったのか」とおっしゃる様子なので、三位の中将が、「至極まっすぐな木を無理に押し折っているようなものです(強いて興を求めて、求めそこない、興ざめすることにたとえたものか)」と申し上げなさると、藤大納言はお笑いになるので、みな何となくざわざわと笑う、その声は女車の人に聞こえていることだろうか。◆◆


枕草子を読んできて (55)その2

2018年04月24日 | 枕草子を読んできて
四二  小白川といふ所は   (55)その2  2018.4.24

 すこし日たけるほどに、三位中将とは関白殿をぞ聞こえし、からの薄物の二藍の直衣、同じ指貫、濃き蘇芳の御袴に、はえたる白き単衣のいと鮮やかなるを着たまひて、歩み入りたまへる、さばかりかろび涼しげなる中に、暑かはしげなるべけれど、いみじうめでたしとぞ見えたまふ。細塗骨など、骨はかはれど、ただ赤き紙を、同じなみにうち使ひ持ちたまへるは、なでしこのいみじう咲きたるにぞ、いとよう似たる。
◆◆少し日が高くなっているころに、三位の中将とは今の関白殿を当時そう申しあげたのだが、その三位の中将が、唐綾の薄物の二藍色の直衣、同じ色の指貫、濃い蘇芳色の御下袴を召して、映えている白絹の単衣のとても鮮やかなのをお召しになって、こちらに歩いて入っていらっしゃるのは、あれほど軽快で涼しそうな装いの一座の方々の中で、暑苦しそうな感じがするはずなのに、とてもすばらしいとお見えになる。細塗骨(ほそぬりぼね)など、扇の骨は、他の人のとは違うけれど、ひたすら赤い地紙の扇を、人と同じように使ってお持ちになっていらっしゃるのは、なでしこが見事に咲いているのに、たいへんよく似ている。◆◆


■三位中将=関白道隆。中宮定子の父。当時従三位右中将で34歳。関白就任は正暦4年(993)4月。この段はそれ以降の執筆。


 まだ講師ものぼらぬほどに、懸盤どもして、何にかあらむ、物まゐるべし、義懐の中納言の御ありさまの常よりもまさりて清げにおはするさまぞ限りなき。上達部の御名などは書くべきにもあらぬを、たれなりけむと、すこしほど経れば、なるによりなむ。色合ひはなばなと、いみじくにほひあざやかなるに、いづれともなきなかの帷子を、これはまことにすべてただ直衣一つを着たるにて、常に車の方を見おこせつつ、物など言ひおこせたまふ。をかしと見ぬ人はなかりけむを。
◆◆まだ講師も講座にのぼらないうちに、懸盤(かけばん)をいくつか出しで、何であろうか、きっと物を召しあがるのであろう、義懐(よしちか)の中納言のご様子の、いつもよりもまさって、見る目にも美しく清らかでいらっしゃるご様子はこの上もない。高貴な上達部のお名前を書き記するべきでもないのだけれど、いったいだれっだのかしらと、少し時間が経つと、なるので、記しておく。誰もが色合いが華やかで、たいへん色艶うつくしく、鮮やかなので、どれがどうと優劣がつけがたいその中での帷子を、この方は、ほんとうにただ直衣ひとつを着ているといった様子であって、絶えず女車の方に視線を送り、使いをやってはそちらに言っておよこしになる。そのご様子をおもしろいと見ない人はいなかったであろうよ。◆◆


■懸盤(かけばん)=四脚の台の上に、折敷を載せかけるようにした膳。
■義懐(よしちか)=伊尹五男。当時権中納言。30歳。妹懐子は花山帝母。花山帝のもとで権勢があったが、帝の退位出家によって出家。この小白河の八講の五、六日後のことだった。

枕草子を読んできて (54)(55)その1

2018年04月21日 | 枕草子を読んできて
四一  菩提といふ寺に  (54) 2018.4.21

 菩提といふ寺に、結縁講ずるが聞きに詣でたるに、人のもとより、「とく帰りたまへ。いとさうざうし」と言ひたれば、蓮の花びらに、
 もとめてもかかる蓮の露おきて憂き世にまたは帰るものかは
と書きてやりつ。まことに、いとたふとくあはれなれば、やがてとまりぬべくぞおぼゆる。つねたうが家の人のもどかしさも忘るべし。
◆◆菩提という寺で、結縁講(けちえんこう)をする日に、聴聞に参詣したところが、人の所から、「早くお帰りください。とてもさびしくて」と言ってきたので、蓮(はちす、散華か)の花びらに
(歌)自分から求め望んでも掛かって濡れたい、こうした蓮の露のような尊い講会をさし置いて、どうしてつらい世の中に再び帰るはずがありましょうか
と書いて送った。本当にたいへん尊くしみじみと心打たれたので、そのままお寺に留まってしまいたく感じられる。あのつねとうの家の人のじれったさも忘れるに違いない。◆◆


■菩提という寺=東山の阿弥陀峰あたりにある寺か
■さうざうし=「佐久佐久し」の音便が「さうざうし」で、一人で座っていて心が楽しまない、相手がなく、なすこともなく心が満たされないの意。
■つねたうが家=不審。

                                       

四二  小白川といふ所は   (55)その1  2018.4.21

 小白川といふ所は、小一条の大将殿の御家。それにて上達部、結縁の八講したまふに、いみじくめでたき事にて、世ノ中の人のあつまり行きて聞く。
「おそからむ車は、寄るべきやうもなし」と言へば、露とともにいそぎ起きて、げにぞひまなかりける。轅の上に、またさし重ねて、三つばかりまではすこし物も聞こえねうべし。六月十余日にて、暑き事世に知らぬほどなり。池の蓮を見やるのみぞ、すこし涼しき心地する。
◆◆ 

■■小白川=小白河殿のこと。白河付近であろうが所在は確かではない。
■■小一条の大将殿=小一条左大臣師尹(もろただ)の二男藤原済時(なりとき)。この時46歳



左右のおとどたちをおきたてまつりては、おはせぬ上達部なし。二藍の直衣、指貫、あさぎの帷子をぞ透かしたまへる。すこし大人びたまへるは、青鈍の指貫、白き帷子も、涼しげなり。安親の宰相なども、わかやぎだちて、すべてたふとき事の限りにもあらず、をかしき物見なり。廂の御簾高くまき上げて、長押の上に上達部奥に向かひて、ながながとゐたまへり。そのしもには殿上人、若き君達、狩装束、直衣などもいとをかしくて、ゐも定まらず、ここかしこに立ちさまよひ遊びたるも、いとをかし。実方の兵衛佐、ながあきらの侍従など、家の子にて、いますこし出で入りたり。まだ童なる君達など、いとをかしうておはす。
◆◆左大臣、右大臣をお除きもうしあげては、おいでにならない上達部はいない。上達部がたは、二藍の直衣、指貫といった姿で、薄青色の帷子を透かしていらっしゃる。少し年齢の上の方は、青鈍の指貫に白い帷子といった姿も涼しげである。安親の宰相なども、若々しくふるまって、八講といってもすべてが尊いことだけでもなく、なかなか快い感じの物見である。廂の間の御簾を高く上げて、下長押の上に、上達部が奥に向かってながながと並んで座っていらっしゃる。その下座には、殿上人、若い君達が狩衣、直衣などを風情ある様子に着て、落ち着いて座っても居ず、あちらこちらに歩き回って遊んでいるのも、たいへんおもしろい。実方の兵衛佐、ながあきらの侍従などは、小一条の一門の方なので、いちだんと忙しく出たり入ったりしている。まだ元服前の君達なども、とても可愛らしい様子でそこにいらっしゃる。◆◆

■■左右のおとど=左大臣源雅信、右大臣藤原兼家
■■安親(やすちか)=藤原安親。ただし参議になったのは、この時から一年半後で官位は合わない。
当時65歳。
■■実方の兵衛佐(さねかたのひょうえのすけ)=左大臣師尹の孫。叔父済時(なりとき)の養子となる。当時は左近少将で官位は合わない。


枕草子を読んできて(53)その2

2018年04月14日 | 枕草子を読んできて
四〇  蔵人おりたる人、昔は  (53)その2  2018.4.14

 さはあらで、講師ゐてしばしあるほどに、さきすこしあはしおはする車とどめておるる人、蝉の羽よりもかげろなる直衣、指貫、生絹の単衣など着たるも、狩衣姿にても、さやうにては若くほそやかなる三四人ばかり、侍の者、また、さばかりして入れば、もとゐたりつる人も、すこしうち身じろぎくつろぎて、高座のもと近き柱のもとなどにすゑたれば、さすがに数珠押しもみ、きうに伏し拝みて聞きゐたるを、講師もはえばえしく思ふなるべし、いかで語り伝ふばかりと説き出でたり。
◆◆そんな蔵人の五位のような者ではなくて、講師が座ってしばらくいるうちに、控えめに前駆を追わせる声を申し訳ばかりにかけさせる牛車をとめておりて来る人々、それは蝉の羽よりも軽そうな直衣や、指貫、生絹(すずし)の単衣などを着ている人も、狩衣姿である人も、そんなふうで若くほっそりしている三、四人くらい、それにお供の者がまたそのくらいの人数で入って来るので、もともと座っていた人も、少し体を動かして、席にゆとりを作って、高座のそば近くの柱のもとなどに座らせると、ついでにちょっと立ち寄ったとはいえ、数珠を押しもみ、あわただしく伏し拝んで説経を聞いて拝んでいるのを、講師もきっと面目あることのように思うのだろう、どうかして世間に後々までにも語りつたえられるほどに、と一心に説きだしている。◆◆


 聴聞すると立ちさわぎ額づくほどにもなく、よきほどにて立ち出づとて、車どもの方見おこせて、われどちうち言ふも、何事ならむとおぼゆ。見知りたる人をばをかしと思ひ、見知らぬはたれたらむ、それにや、かれにやなど、目をつけて思ひやらるるこそ、をかしけれ。「説教し、八講しけり」など、人の言ひ伝ふるに、「その人はありつや」「いかがは」など、定まりて言はれたる、あまりなり。などかは、むげにさしのぞかではあらむ。あやしき女だにいみじく聞くめるものをば。されど、この草子など出で来はじめつ方は、かちありきする人はなかりき。たまさかには、壺装束などばかりして、なまめき化粧してこそありしか、それも物詣でをぞせし。説経などは、ことにおほくも聞かざりき。このごろ、その書き出でたる人の、命長くて見ましかば、いかばかりそしり誹謗せまし。
◆◆ところが、それらの貴公子たちは、説経を聴聞するとて忙しく行動して礼拝するのに似合わず、良いかげんのところで立ち出でて行くというときに、女車の方に視線を流して、自分たち同士で話をしているのも、一体何を話しているのだろうかと思われる。こちらで見知っている人の場合はおもしろいと思うし、見知らない人の場合は、だれだろう、あの人かしらこの人かしらなどと、推量をめぐらすようになるのこそ、おもしろい。「だらだれが説教し、八講をした」などと、人が伝えるときに、「だれそれはいたか」「どうしていない筈があろうか」などと、決まって言われてる人は、それは、あまり度がすぎている。どうして、説経の場所に全く顔を出さないでいようか。顔を出すのは結構なことだ。いやしい
女でさえ大層熱心に聞くようであるものを。だけれど、この草子ができ始めた頃は、(女は車で出かけて)徒歩で歩く人はいなかった。たまには壺装束などくらいをして、優雅にお化粧をしていたものだが、それにしてもそれは物詣をしたのだ。説経などは、ことに大勢出かけるようにも聞かなかった。この時点で、草子の中で私が書き記してある昔の人が、長生きをして、今の有様を仮に見たとしたら、どれほどか悪口を言い、非難することであろうのに。◆◆


■壺装束(つぼさうぞく)=身分のある女性の徒歩の外出姿。後ろの垂髪を袿(うちぎ)の中に入れ、袿を腰で紐で結び、両褄を折り前に挟み、市女笠をかぶる。