『スリー・ビルボード』
アメリカ、ミズーリ州の田舎町。娘アンジェラ(キャスリン・ニュートン)を強姦殺人で亡くしたミルドレッド(フランシス・マクドーマンド)は、7ヶ月間手がかりもなく膠着状態が続く捜査に業を煮やし、事件現場の野立て看板に「レイプされて死亡(Raped while dying)」「犯人逮捕はまだ?(Still no arrests?)」「なぜ?ウィロビー署長(How come, Chief Willoughby?)」という真っ赤な広告を掲示。
人々の非難は警察にではなく、町の敬意を集める署長(ウディ・ハレルソン)を名指しで攻撃した被害者遺族であるミルドレッドに向けられるのだが、一市民から喧嘩を売られたウィロビー本人はガンで余命いくばくもない身だった。
各映画賞で高く評価されアカデミー賞でも最有力候補とされる注目のサスペンスドラマ。
わずかな住人か迷子しか通らない辺鄙な場所に建てられ、30年以上も広告が出されていなかった看板が巻き起こす、怒りと混乱の物語。
ミルドレッドは他でもない捜査責任者の名前をはっきりと広告に書いたが、物語が進むにつれ、彼女の怒り(徹頭徹尾ひたすら怒っている)の矛先が警察だけではないことがわかってくる。
犯人への怒りは当然のことながら、無惨に殺された娘のことを忘れようとしている周囲の人たちや、それぞれの悲嘆があまりに大きすぎて互いを支えきれずバラバラになっていく家族関係への怒り、親として子どもをまもってやれなかった自分への怒り、子どもが生きているうちに愛され敬われる親、自分でもこうありたいと思える親になりきれなかった怒り。彼女が怒れば怒るほど、母親としての亡き娘への愛情の熱さが感じられる。愛していればこそ、無限の怒りに彼女は自ら存分に身を任せることができる。
天晴れなのは、主人公が己が怒りから決して目を背けようとせず、正々堂々と社会に向けて「私は怒っているのだ」と主張しまくるやけくそ根性である。ふつうの人間は現実にはここまで精一杯怒れない。ふだんかなり短気なわたしでさえ、彼女を羨ましく感じる。
ましてアンジェラはレイプされて殺された。彼女の遺体は焼かれていた。おそらく体に火がつけられたとき、彼女はまだ生きていたのではないかと思われるシーンが一瞬ある。その事実を突きつけられた親の地獄を思えば、ミルドレッドには好きなだけ怒る権利があると思わざるを得ない。
しかし彼女の怒りの泉はどんなに怒っても決して涸れることがない。なぜなら、彼女が失ったのはほかでもない、わが子だからだ。
子どもを失った親は、その事実から生涯逃げることができない。その怒りと苦しみと悲しみは、親が親であることをやめない限りどこまでもついてくる。
私自身には、子どもをもった経験はない。だがその傷の深さについてなら、ほんの少し心あたりがある。
だから、映画を見ている間中、心あたりの人々の顔を思い、彼/彼女たちの胸の内を思い、息苦しさを感じていた。
生きてさえいれば、こんなこともしてあげられた、あんなこともしてあげたかった、どんなにぶつかっても失敗してもいつか何もかもが報われて「そんなこともあったね」なんて笑いあえる日がくると思ってたのに、親として達成したかったことは無限にあるのに、まだ続くはずだった長い道のりを突然断ちきられたあとの、なんの手触りもない暗闇。
非常に重い話なのだが、シナリオがとにかくものすごくよくできていて、やっぱり映画はシナリオだよと再認識させられる。
つねにどっちに転がるかわからないストーリー展開もさることながら、きつい南部訛りで下品なFワードとブラックジョークだらけのスパイシーなセリフ遣いが実に笑える。頻繁に言及される同性愛者やアフリカ系アメリカ人への差別への皮肉がとくに機知に富んでいて(「同性愛者が殺されるのはワイオミング」なんてセリフは明確にマシュー・シェパード事件のことを指しているものと思われる)、制作者側の差別や体制への厳しい批判がうまく表現されていて、観ていて非常に心地よかったです。
物語のテンポにも緩急・バランスにもいっさい無駄がない。はっきりいってミルドレッドを含め登場人物全員の行動は途中からかなり非リアリスティックになっていくので、トーンとしては西部劇に近いような一種のファンタジーでもあるのだが、その段階に至るまでの仕込みパートの描写に説得力がありすぎて、うっかり「そんなこともあるのでは」という気分になってしまうのだ。観終わってしまえば、ちゃんとそんなはずはないと冷静になれるんだけど。
とりあえず物語としてお芝居としてこれだけの完成度のある作品は滅多にないんではないでしょうか。個人的にはこの物語を舞台で観てみたい気もしました。
アメリカ、ミズーリ州の田舎町。娘アンジェラ(キャスリン・ニュートン)を強姦殺人で亡くしたミルドレッド(フランシス・マクドーマンド)は、7ヶ月間手がかりもなく膠着状態が続く捜査に業を煮やし、事件現場の野立て看板に「レイプされて死亡(Raped while dying)」「犯人逮捕はまだ?(Still no arrests?)」「なぜ?ウィロビー署長(How come, Chief Willoughby?)」という真っ赤な広告を掲示。
人々の非難は警察にではなく、町の敬意を集める署長(ウディ・ハレルソン)を名指しで攻撃した被害者遺族であるミルドレッドに向けられるのだが、一市民から喧嘩を売られたウィロビー本人はガンで余命いくばくもない身だった。
各映画賞で高く評価されアカデミー賞でも最有力候補とされる注目のサスペンスドラマ。
わずかな住人か迷子しか通らない辺鄙な場所に建てられ、30年以上も広告が出されていなかった看板が巻き起こす、怒りと混乱の物語。
ミルドレッドは他でもない捜査責任者の名前をはっきりと広告に書いたが、物語が進むにつれ、彼女の怒り(徹頭徹尾ひたすら怒っている)の矛先が警察だけではないことがわかってくる。
犯人への怒りは当然のことながら、無惨に殺された娘のことを忘れようとしている周囲の人たちや、それぞれの悲嘆があまりに大きすぎて互いを支えきれずバラバラになっていく家族関係への怒り、親として子どもをまもってやれなかった自分への怒り、子どもが生きているうちに愛され敬われる親、自分でもこうありたいと思える親になりきれなかった怒り。彼女が怒れば怒るほど、母親としての亡き娘への愛情の熱さが感じられる。愛していればこそ、無限の怒りに彼女は自ら存分に身を任せることができる。
天晴れなのは、主人公が己が怒りから決して目を背けようとせず、正々堂々と社会に向けて「私は怒っているのだ」と主張しまくるやけくそ根性である。ふつうの人間は現実にはここまで精一杯怒れない。ふだんかなり短気なわたしでさえ、彼女を羨ましく感じる。
ましてアンジェラはレイプされて殺された。彼女の遺体は焼かれていた。おそらく体に火がつけられたとき、彼女はまだ生きていたのではないかと思われるシーンが一瞬ある。その事実を突きつけられた親の地獄を思えば、ミルドレッドには好きなだけ怒る権利があると思わざるを得ない。
しかし彼女の怒りの泉はどんなに怒っても決して涸れることがない。なぜなら、彼女が失ったのはほかでもない、わが子だからだ。
子どもを失った親は、その事実から生涯逃げることができない。その怒りと苦しみと悲しみは、親が親であることをやめない限りどこまでもついてくる。
私自身には、子どもをもった経験はない。だがその傷の深さについてなら、ほんの少し心あたりがある。
だから、映画を見ている間中、心あたりの人々の顔を思い、彼/彼女たちの胸の内を思い、息苦しさを感じていた。
生きてさえいれば、こんなこともしてあげられた、あんなこともしてあげたかった、どんなにぶつかっても失敗してもいつか何もかもが報われて「そんなこともあったね」なんて笑いあえる日がくると思ってたのに、親として達成したかったことは無限にあるのに、まだ続くはずだった長い道のりを突然断ちきられたあとの、なんの手触りもない暗闇。
非常に重い話なのだが、シナリオがとにかくものすごくよくできていて、やっぱり映画はシナリオだよと再認識させられる。
つねにどっちに転がるかわからないストーリー展開もさることながら、きつい南部訛りで下品なFワードとブラックジョークだらけのスパイシーなセリフ遣いが実に笑える。頻繁に言及される同性愛者やアフリカ系アメリカ人への差別への皮肉がとくに機知に富んでいて(「同性愛者が殺されるのはワイオミング」なんてセリフは明確にマシュー・シェパード事件のことを指しているものと思われる)、制作者側の差別や体制への厳しい批判がうまく表現されていて、観ていて非常に心地よかったです。
物語のテンポにも緩急・バランスにもいっさい無駄がない。はっきりいってミルドレッドを含め登場人物全員の行動は途中からかなり非リアリスティックになっていくので、トーンとしては西部劇に近いような一種のファンタジーでもあるのだが、その段階に至るまでの仕込みパートの描写に説得力がありすぎて、うっかり「そんなこともあるのでは」という気分になってしまうのだ。観終わってしまえば、ちゃんとそんなはずはないと冷静になれるんだけど。
とりあえず物語としてお芝居としてこれだけの完成度のある作品は滅多にないんではないでしょうか。個人的にはこの物語を舞台で観てみたい気もしました。