『本当の戦争の話をしよう』 ティム・オブライエン著 村上春樹訳
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Twitterで、少し前にこんな投稿があった。そこにこの短編集の表題作となった『本当の戦争の話をしよう』の一部が引用されていた。
本当の戦争の話というのは全然教訓的ではない。それは人間の徳性を良い方向には導かないし、高めもしない。かくあるべしという行動規範を示唆したりもしない。また人がそれまでやってきた行いをやめさせたりするようなこともない。もし教訓的に思える戦争の話があったら、それは信じないほうがいい。もしその話が終わったときに君の気分が高揚していたり、廃物の山の中からちょっとしたまっとうな部品を拾ったような気がしたりしたら、君は昔からあいも変わらず繰り返されているひどい大嘘の犠牲者になっているのである。そこにはまともなものなんてこれっぽっちも存在しないのだ。そこには徳性のかけらもない。だからこそ真実の戦争の話というのは猥雑な言葉や悪意とは切っても切れない関係にあるし、それによってその話が本当がどうかを見わけることができる。(文春文庫『本当の戦争の話をしよう』117p)
私自身にはもちろん戦争経験はないし、親族にもそういう人物はいない。だからいわゆる“戦争の話”というのは、基本的に報道や文学や映像といったマスメディアを通してしか耳にしたことがない。
中学時代に、父親が軍人だったときの経験談を授業中に自慢げに披露する英語教師がいたことは覚えている。正直に告白すれば、彼が具体的に何を語ったかはいっさい記憶にない。ただ間違いないのは、私が彼の話にひとかけらの教訓も感動も見出さなかったことだろう。プロフェッショナルな教師としての評価は別として、教壇でその手の話題がもちだされるたび、授業とは無関係な武勇伝(しかも教師本人のではなくその父親の)が一刻も早く終わらないものかとイライラしてばかりいたことだけは忘れられずにいるからだ。戦争の話が嫌いだったとか、興味がなかったわけではない。歴史の話は授業も含めて小さいうちから大好きだったから。だが戦争という言葉でくくりさえすれば勝手に何らかの大義名分がつくと思っている人間は世間に数限りなくいるけれど、そんなもの単に組織的な大量殺人でしかない。教師の父親は生きて帰って息子に武勇伝が喋れてよかったかもしれないけど、そうはできなかった人だってたくさんいた。死んでしまった人も、命は助かっても一生障害を抱えて暮らさなくてはならなくなった人もいたし、無事に帰れても語る言葉をもたなかった人もいた。家族や財産を失った人も、もっともっとひどい目にあった人だって無数にいる。
そんな巨大な犯罪行為を無視して、教え子に向かって親の戦争体験を自慢する意味がわからなかった。何のためにそんなことをしなくてはならなかったのか、いまもって理解に苦しむ。
いつからどうしてそんな風に感じるようになったのか、きっかけについてはまったく心あたりがない。以前、旧日本陸軍の軍服がとにかく怖い「軍服アレルギー」であることは書いたことがあるけど、これだって理由はわからない。意外に自分のことって自分ではよくわからない。
戦争文学や戦争映画がみんな欺瞞だとまでは思わないけど、たとえば戦争映画にヒーローが出てきたりなんかするともうちょっと無理ですね。観てられないです。
いずれにしても、組織的に戦略的に大量殺人が行われる状況を描いた物語をエンターテインメントとして表現するとき、そこに必要なメッセージは「こんなことは絶対に二度と繰り返されるべきではない」ということだけで、あとはそのメッセージをどんな形で読者・観客に伝えるかということになってしまうのではないかと個人的には思う。
言葉にすれば単純だが、これほど難しいこともないのではないだろうか。いうまでもないが、戦争文学を読み、戦争映画を観る人間の多くはその現実を知らない。経験のない人間が、戦時下の人間の心理状態や環境を、リアルに想像し共感することは容易ではない。だからこそ、とにかく微細な生活描写を無限に蓄積した『この世界の片隅に』があれほど大ヒットしたりするのだろう。日常生活のリアリズムになら、人は簡単に共感することができるから。
そういう意味では、この『本当の戦争の話をしよう』も、じつに微細なディテールの蓄積で「戦争の話」をしている。オブライエンが題材にしたのは広島の田舎の若い主婦の暮らしではなく、ベトナムの前線にいる/いた若者がいったい何を考え、何を感じていたかという純粋な個人感情である。何のためにどんな敵とどう戦う/戦ったといったような戦場の状況を再現することはほとんどなく、ただただ生々しい内面描写だけを淡々と積み重ねていく。
あくまでも内省的に率直な兵士たちの個人感情を読み進めていくと、不思議と、本の中で、蒸し暑いベトナムにいて20歳そこそこの戦友と一緒にどろどろの湿原を行軍しているのが、自分自身のような気分がしてくる。ミネソタ州で徴兵通知をうけとり戦地に行くかどうか苦悩している青年が、戦場でかけがえのない友人を失ったときの感情を誰にも打ち明けられずにひとりであてもないドライブを繰り返すしかない若者が、まるで自分自身のような気分がしてくるのだ。
現実の生活では、揃いの軍服を着てヘルメットをかぶり、リュックと兵器を担いで歩く兵士の姿には匿名性がある。むしろ匿名性は兵士のもっとも重要な能力のひとつでもある。その姿をみる私からは、彼/彼女のパーソナリティはとても遠くにあって、その人は単に軍隊という殺人を職務とする組織の一パーツに見える。名前も性格も出身地も問題ではない。とにかくそれは自分とはまったく別の、「兵士」というカテゴリーの誰かでしかない。
この短編集に登場する兵士たちは、その逆のようにみえる。制服や装備や戦場はずっと遠くの背景で、日々ひたすら己が恐怖と戦うために、ベトコンではなく自身の内面に立ち向かっている年端もいかない若い男の子の傷つきやすい無防備な心が、ページの上の文字の羅列から、読み手の胸の中にするすると忍びこんでくるのだ。
そしてやっぱり、戦争なんて馬鹿げている。こんなことやりたがる人間はどう考えたってアタマがおかしいし、そういう人間のやろうとしていることはどうあっても阻止しなくてはならないという気持ちを強く感じる。
『本当の戦争の話をしよう』には、ちゃんと教訓がある。
戦争の話に教訓なんかもとめるべきじゃない、ということだ。
教訓やら感動を戦争の話にもとめるのは、自分からわざわざ誰かに騙されにいくようなもので、それをいつまでたっても学べない人間は、救いようもなく愚かな生き物なのだろう。
我ながら書いててものすごい面倒臭い話だとは思うし、それが笑えるかどうかは人によるだろうけど、少なくとも、私はとても説得力を感じました。
関連レビュー:
『ジャーヘッド アメリカ海兵隊員の告白』 アンソニー・スオフォード著
『昨日の戦地から 米軍日本語将校が見た終戦直後のアジア』 ドナルド・キーン編
『ボーフォート ─レバノンからの撤退─』
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Twitterで、少し前にこんな投稿があった。そこにこの短編集の表題作となった『本当の戦争の話をしよう』の一部が引用されていた。
本当の戦争の話というのは全然教訓的ではない。それは人間の徳性を良い方向には導かないし、高めもしない。かくあるべしという行動規範を示唆したりもしない。また人がそれまでやってきた行いをやめさせたりするようなこともない。もし教訓的に思える戦争の話があったら、それは信じないほうがいい。もしその話が終わったときに君の気分が高揚していたり、廃物の山の中からちょっとしたまっとうな部品を拾ったような気がしたりしたら、君は昔からあいも変わらず繰り返されているひどい大嘘の犠牲者になっているのである。そこにはまともなものなんてこれっぽっちも存在しないのだ。そこには徳性のかけらもない。だからこそ真実の戦争の話というのは猥雑な言葉や悪意とは切っても切れない関係にあるし、それによってその話が本当がどうかを見わけることができる。(文春文庫『本当の戦争の話をしよう』117p)
私自身にはもちろん戦争経験はないし、親族にもそういう人物はいない。だからいわゆる“戦争の話”というのは、基本的に報道や文学や映像といったマスメディアを通してしか耳にしたことがない。
中学時代に、父親が軍人だったときの経験談を授業中に自慢げに披露する英語教師がいたことは覚えている。正直に告白すれば、彼が具体的に何を語ったかはいっさい記憶にない。ただ間違いないのは、私が彼の話にひとかけらの教訓も感動も見出さなかったことだろう。プロフェッショナルな教師としての評価は別として、教壇でその手の話題がもちだされるたび、授業とは無関係な武勇伝(しかも教師本人のではなくその父親の)が一刻も早く終わらないものかとイライラしてばかりいたことだけは忘れられずにいるからだ。戦争の話が嫌いだったとか、興味がなかったわけではない。歴史の話は授業も含めて小さいうちから大好きだったから。だが戦争という言葉でくくりさえすれば勝手に何らかの大義名分がつくと思っている人間は世間に数限りなくいるけれど、そんなもの単に組織的な大量殺人でしかない。教師の父親は生きて帰って息子に武勇伝が喋れてよかったかもしれないけど、そうはできなかった人だってたくさんいた。死んでしまった人も、命は助かっても一生障害を抱えて暮らさなくてはならなくなった人もいたし、無事に帰れても語る言葉をもたなかった人もいた。家族や財産を失った人も、もっともっとひどい目にあった人だって無数にいる。
そんな巨大な犯罪行為を無視して、教え子に向かって親の戦争体験を自慢する意味がわからなかった。何のためにそんなことをしなくてはならなかったのか、いまもって理解に苦しむ。
いつからどうしてそんな風に感じるようになったのか、きっかけについてはまったく心あたりがない。以前、旧日本陸軍の軍服がとにかく怖い「軍服アレルギー」であることは書いたことがあるけど、これだって理由はわからない。意外に自分のことって自分ではよくわからない。
戦争文学や戦争映画がみんな欺瞞だとまでは思わないけど、たとえば戦争映画にヒーローが出てきたりなんかするともうちょっと無理ですね。観てられないです。
いずれにしても、組織的に戦略的に大量殺人が行われる状況を描いた物語をエンターテインメントとして表現するとき、そこに必要なメッセージは「こんなことは絶対に二度と繰り返されるべきではない」ということだけで、あとはそのメッセージをどんな形で読者・観客に伝えるかということになってしまうのではないかと個人的には思う。
言葉にすれば単純だが、これほど難しいこともないのではないだろうか。いうまでもないが、戦争文学を読み、戦争映画を観る人間の多くはその現実を知らない。経験のない人間が、戦時下の人間の心理状態や環境を、リアルに想像し共感することは容易ではない。だからこそ、とにかく微細な生活描写を無限に蓄積した『この世界の片隅に』があれほど大ヒットしたりするのだろう。日常生活のリアリズムになら、人は簡単に共感することができるから。
そういう意味では、この『本当の戦争の話をしよう』も、じつに微細なディテールの蓄積で「戦争の話」をしている。オブライエンが題材にしたのは広島の田舎の若い主婦の暮らしではなく、ベトナムの前線にいる/いた若者がいったい何を考え、何を感じていたかという純粋な個人感情である。何のためにどんな敵とどう戦う/戦ったといったような戦場の状況を再現することはほとんどなく、ただただ生々しい内面描写だけを淡々と積み重ねていく。
あくまでも内省的に率直な兵士たちの個人感情を読み進めていくと、不思議と、本の中で、蒸し暑いベトナムにいて20歳そこそこの戦友と一緒にどろどろの湿原を行軍しているのが、自分自身のような気分がしてくる。ミネソタ州で徴兵通知をうけとり戦地に行くかどうか苦悩している青年が、戦場でかけがえのない友人を失ったときの感情を誰にも打ち明けられずにひとりであてもないドライブを繰り返すしかない若者が、まるで自分自身のような気分がしてくるのだ。
現実の生活では、揃いの軍服を着てヘルメットをかぶり、リュックと兵器を担いで歩く兵士の姿には匿名性がある。むしろ匿名性は兵士のもっとも重要な能力のひとつでもある。その姿をみる私からは、彼/彼女のパーソナリティはとても遠くにあって、その人は単に軍隊という殺人を職務とする組織の一パーツに見える。名前も性格も出身地も問題ではない。とにかくそれは自分とはまったく別の、「兵士」というカテゴリーの誰かでしかない。
この短編集に登場する兵士たちは、その逆のようにみえる。制服や装備や戦場はずっと遠くの背景で、日々ひたすら己が恐怖と戦うために、ベトコンではなく自身の内面に立ち向かっている年端もいかない若い男の子の傷つきやすい無防備な心が、ページの上の文字の羅列から、読み手の胸の中にするすると忍びこんでくるのだ。
そしてやっぱり、戦争なんて馬鹿げている。こんなことやりたがる人間はどう考えたってアタマがおかしいし、そういう人間のやろうとしていることはどうあっても阻止しなくてはならないという気持ちを強く感じる。
『本当の戦争の話をしよう』には、ちゃんと教訓がある。
戦争の話に教訓なんかもとめるべきじゃない、ということだ。
教訓やら感動を戦争の話にもとめるのは、自分からわざわざ誰かに騙されにいくようなもので、それをいつまでたっても学べない人間は、救いようもなく愚かな生き物なのだろう。
我ながら書いててものすごい面倒臭い話だとは思うし、それが笑えるかどうかは人によるだろうけど、少なくとも、私はとても説得力を感じました。
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