goo blog サービス終了のお知らせ 

落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

空虚さという幻想

2009年09月27日 | movie
『空気人形』

ある日突然動き出したラブドールのノゾミ(ペ・ドゥナ)。
主(板尾創路)の留守に家を抜け出して街をさまよううち、レンタルビデオ店に迷い込んだノゾミは店員の純一(ARATA)に恋をしてしまう。店でアルバイトを始め、純一と親しくなるにつれ、「心」を持った人形として成長していく彼女だが・・・。

ラブドールと人間の恋といえば去年日本で公開された『ラースと、その彼女』がありますがー。
あれはファンタジーではないんだよね。ただ、「人間の世の中がこうだったらいいな」的な夢を描いているとゆー意味ではやはり広義のファンタジーに入ると思う。
同じモチーフでもこの映画は真逆。ファンタジーという話法を用いて、「人間の世の中って実はこんなじゃない?」的な現実を描いている。どっちがコワいかっつったらやっぱこっちの方がコワい。

ノゾミは確かにラブドール=「性欲処理の代用品」という役割を持って生まれて来たオモチャだが、ノゾミに限らず、この世の中に存在する全てのものには“役割”がある。そして大抵は替えがきく。言葉の上では「かけがえのない命」なんて綺麗ごとをいったところで、現実にはそこまで重要な存在はそうはいない。そしてそれを知っているからこそ、誰もが自分の存在意義を知りたがり、その反面で宿命的な孤独を確認したがるのだろう。
ノゾミは自分を「空っぽ」だというが、人間はおそらく、ラブドールに限らず、愛する対象すべてに「空虚さ」を求めているのではないかとも思う。なぜなら、この映画の登場人物たちと同じように、人間が生きている限り、自分の中の埋めがたい空虚さからは逃げられないからだ。相手の空虚さを知ると人は安心する。その空虚さに自分をはめこむこともできるし、相手を自分にはめこませることもできる。空虚さを受け入れ共有できる相手に、人は「愛」を感じるのかもしれない。
ノゾミは「空っぽ」だから人に愛される。愛されるためだけに存在している。それは逆に言えば、無限の愛の可能性に満ちているともいえる。
でも愛だけでは人は生きていけない。心を持った人形・ノゾミもまた、愛だけでは永遠を手に入れることはできないのだ。

ペ・ドゥナがとにかくものすごく愛らしくて、それなのにやたらめったら脱いでるシーンが多くて(なにしろダッチワイフ役ですから)ビビリ。メイド服とか似合い過ぎですから。
ARATAはなんか最近やたら出てますよね?なにゆえ?わたくしこの方どの作品観てもARATAにしか見えないっちゅーのはどーなん??ありなん??と深く疑問に思っておるワケですが。
余貴美子やら星野真里やら富司純子がトンデモメイクで出て来てビックリしたー。誰だかわかんなかったよ。一瞬。
李屏賓(リー・ピンビン)の撮影、種田陽平の美術は期待通り。さすがでございます。
この映画、よくできてるかどーかはさておき、完成度はまあまあだと思います。いろいろと考えさせられる物語ではある。個人的にあのエンディングはぶっちゃけ蛇足だとも思うけどね。べつにそこまで描かんでもよかったんぢゃ?って気もします。
ただ、「愛」と「命」の意味については、確かにそうとう重く感じるところのある映画にはなっている。たぶん、観る人によって全然違うように観えるんじゃないかな?

ところで劇中、「『ノゾミ』って昔の彼女の名前でしょ」とゆー台詞にビビったのは板尾だけではあーりません。
ぐりも一瞬ビクッとした。大昔、「ノゾミ」って子とつきあってたから(爆)。男だけど。女の子みたいな名前を嫌がってたから、ふだんは苗字で読んでたけどね。
何年かぶりに思い出したよ。そーいえば、ノゾミくん、元気かなー?って。