goo blog サービス終了のお知らせ 

落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

救いはどこに?

2016年01月23日 | lecture
もう一週間前だけど、アムネスティ・インターナショナルのボランティアチーム主催の講演会「子どもの貧困~日本とアメリカでの現状~」に行ってきた。
スピーカーはふたりいたけど、アメリカの方の発表は純粋に教育制度の概要と統計だけでとくに個人的に参考にはならなかったので(時間が充分じゃなかったのかも)、とりあえず国内の発表だけメモります。

スピーカーはNPOさいたまユースサポートネット代表の青砥恭氏。現役の高校教師ということです。

教育制度
いまの日本の教育制度は戦後の教育制度改革からスタートした。当初は現実を学ぼうというゆとりのある制度だったが、高度経済成長に伴って競争社会が加速するにつれ、国の役に立つ人材を量産するシステムに変わっていった。競争社会の中で当然生まれるのが貧困問題だが、日本の教育制度には貧困層に対応する制度が存在していない。
現在ヨーロッパで問題になっている100万人の難民のように、そもそもは国がすべての公衆の利益に奉仕するシステムを構築するべきなのに、その保護を受けない人がいて、国はますますその分断を拡大している。それは明らかに間違っている。

子どもの貧困=若年層の貧困
北欧では70〜80%とされる20代の投票率は日本では4人にひとり。誰ひとり自分のための政治が行われてるなんて思ってない。
たとえば国は貧困問題のための基金を設立したが、現実問題としてほとんど基金(寄付)が集まっていない。企業もどこも寄付しようとしていない。日本社会全体が貧困層に対して冷たい。貧困層=少数派だと勝手に思いこんでいる。
しかし現在は3人の労働人口がひとりの高齢者を支えているが、これが2060年には1:1になるほど少子高齢化が進んでるんだから、50〜60年先のことを見越した改善が必要なはずである。
若者の自殺率は1990年にはOECD加盟国中最下位だったのに、現在は最上位にまで上がった。

若者の不安定化
現在、不登校の子どもは小中学校で12万人いる。他の要因も含む長期欠席児童や、不登校の子どもを学校に戻すための適応指導教室に通う子などを含めると、ふつうに通学できない子は20万人程度とみられる。子どもの数は減るのにこの子たちが減らないの原因のひとつは、貧困層の拡大である。
卒業して進学しても中退してしまう、進路未定のまま卒業になってしまう、きちんとした収入のある安定した仕事もない。若者の半数は初めから半数が“不安定化”してしまう。
そもそもいまの職業安定法は学校制度に依拠している。以前は学校を出さえすれば仕事があったのに、いまの若者の半数は非正規雇用(47.3%)。将来が想定できない現状が彼らからモチベーションを奪っている。

教育費
日本の教育費は高すぎる。大学に進学すれば100万円の初年度納付金が必要になる。多くの大学生が奨学金の貸与を受け、700〜1000万円の借金を背負って社会に出ていくことになる。現在の自己破産年間7万件のうち1万件は奨学金滞納が原因だそうだ。
たとえば青砥さんは埼玉の高校生の父親の職業を学校の偏差値ランキング別に統計を取ったが、これが見事に経済状態=成績ランクになっていた。つまり成績ランクの高い学校の子の親は会社員や公務員など安定した職業に就いているケースが多数派になり、低い学校ではそれが逆転、驚くなかれ「父親の仕事がわからない」と回答した子がめだつようになっている。わからない、というのは何度も職業を変えているか、自宅に居着かないかといった問題があることが推察できる。この統計はそのまま東大入学者の背景にも結びついていて、現在の入学者の60〜70%は東京か神奈川の中高一貫校(=教育費が高額で親の安定した収入が必須)出身者が占めている。

解決策
子どもの貧困=親の貧困問題だが、学校にはその問題にとりくむだけのスキルもフローもない。国は現在1000人(!!)のスクールカウンセラーを1万人に増やす計画だが、それには時間がかかる。小中学校は全国に3万校だから、1万人でも足りない。
青砥さんの団体で毎週土曜日に開いている“たまり場”には毎回50〜60人の子が通っていて、大学生や中高年のボランティアが子どもに勉強を教えている。全国に広がりつつある子ども食堂のように、地域が運営する子どもの居場所が解決につながる糸口になるかもしれない。

感想としては。
以前ボランティアでもっともっと苛酷な事例に接していたので(家出して強制売春の被害に遭っている10代・売春して子どもを育てているシングルマザー・経済的に困窮して我が子の児童ポルノを売らされる女性etc.)、なんかもひとつぬるく感じてしまったのはきっとワタシ個人のせいですかね。けど質疑応答もイマイチ盛り上がらず、なんとなく消化不良な講演会でした。
しかしこういう話を聞くにつけ、子どもは国の資源なのに、ヨーロッパでできている教育費無料制度がなんで日本でできないのかがムチャクチャ謎。だいたい小中学校が授業料無料とはいえ、やれ学校行事だの部活だの給食だのなんだので結局お金はかかる。そんなん全部タダでよろしいやないですか。そのためにみんな税金払ってんのちゃうの?ワケのわからんODAやら軍拡のためとちゃいまっせ。ほんまに。

どこにいくの?

2016年01月09日 | lecture
沿岸環境関連学会連絡協議会第31回「海岸環境の保全・再生と防災・減災」というシンポジウムに行ってきた。
といってもなんのこっちゃわからんという方もおられると思いますが、要するに東日本大震災で被災した東北沿岸部でびしばしとつくられつつある防潮堤はいったいどーなんだという問題を、法律・津波工学・土木工学・海洋環境学・都市環境学・水産資源・造園学・教育・まちづくり・民俗学・生態系など多分野のスピーカーがそれぞれの立場から発言・討議する会で、驚くなかれ今回が初回だそうである。5年めで初回てどーなんだ。

それはまあさておき。
実はずっと防潮堤の問題はものすごく気になっていた。
去年の年末も宮城県気仙沼市を訪問したが、訪問するごとに防潮堤建設はずいずいと進んでいる。もちろん嵩上げや高台移転事業も進んでるし、災害公営住宅もどんどんできあがっていっている。既に引越しを済まされた方もいらっしゃるし、街の風景も5年前に比べればそりゃビックリするくらい変化している。5年も経つんだから当たり前っちゃ当たり前だ。その一方で、津波で倒壊したまま・半壊したまま手つかずになっている場所もまだまだある。


たとえばここは気仙沼市から仙台行きの高速バスのバス停で私もよく利用している場所だが、完全に破壊された屋内にも泥まみれの什器類が山積みで放置され、5年前からぱったりと時が止まったかのような情景が残されている。画像はGoogleマップのストリートビューから拝借したが、去年末に行ったときもそっくりこのままだった。場所は津波の報道で何度もメディアに露出した河北新報の元気仙沼支局のすぐ目の前だから、街中も街中、震災前でいえば気仙沼市街のど真ん中である。

こんな風に復興事業から置き去りになっている場所もごまんとある一方でなんだかやけに順調に進んでいる防潮堤。これまでも長い長い間、日本各地で港湾施設の保全管理すら満足に行われず、被災後は地震と津波と地盤沈下で破壊されてしまった漁港の補修さえままならないのに、こればっかり着々と捗るのはなぜなのか。釈然としないものを感じるのは私だけではないはずである。
しかも住民の合意形成のプロセスはどこからどうみても不透明、何度も現地に足を運び地域の方ともいくらかは親しくさせていただいている人間にとってそこは口に出してものを訊くのも憚られる、あたかもタブーでもあるかのような、「防潮堤」という事業のまわりにまるで見えないバリアでもあるような感じがして、どうしても「ねえ、防潮堤どうなってるの?」「みんなどう思ってるの?」なんて口が裂けてもまあ訊けない。
困ったな、でも知りたいなと思い続けてた人間にとって、今日ほど有益な機会はなかったです。行ってよかったです。ホントに。行く前はあまりにも専門的過ぎてついてけなかったらどうしようとか思ってたけど、杞憂でした。確かに土木工学とかはむちゃくちゃマニアックだから、聞いてても理解できてるかどうか自信なかったけど、1日通して聞いてみて、この問題の全体像の一端のようなものはうっすら見えたような気分にはなれた。

とりあえずレジュメのタイトルとスピーカーはこんな感じ。

○ 海岸をめぐる法制度と環境管理:井上智夫(国土交通省水管理・国土保全局海岸室室長)
○ 津波の科学と防災・減災の考え:今村文彦(東北大学・災害科学国際研究所)
○ 防護施設の粘り強さとその効果:有川太郎(中央大学理工学部)
○ 土木学会防災アセスメント小委員会による検討報告:岡安章夫(東京海洋大学・海洋環境学部門)
○ 海岸防潮堤のあり方:横山勝英(首都大学東京・都市環境学部)
○ 水産生物を育む沿岸環境の修復と整備の取り組み:桑原久実(国立研究開発法人 水産総合研究センター本部研究開発コーディネーター)
○ 海岸植生から見た復興・復旧事業 砂浜海岸と海浜植物:松島肇(北海道大学大学院農学研究員)
○ 沿岸地域における持続可能な社会形成のための教育(ESD)と意思決定:阿部正人(一般社団法人 環境復興機構特任研究員)
○ 「里海」地域づくりからの視点:田中丈裕(NPO里海づくり研究会議)
○ 「水の女」について 海岸の行動主義と磯場センチメントの欠如:千葉一(東北学院大学民俗学)
○ 生態系を利用した防災・減災(EcoーDRR)における潮流:古田尚也(IUCN日本リエゾンオフィスコーディネーター・大正大学地域香草研究所)

これだけの人間が朝は9時半から夕方5時半まで駆け足でずーっと喋るんだから、細かい内容については省きます。
ただこのプログラムがよくできていて、どっちかといえば前半が行政やらゼネコン系専門家からの防潮堤事業の“ご説明”で、中盤が今回の被災地とそれ以外の地域からの現場報告、後半が防潮堤計画に疑問をもっていて実際に被災地を含め地域でも活動しているサイドからの意見、という構成になっていた。わかりやすいです。

ざっくりいえば政府やらゼネコンは「防潮堤ありき」でしかモノを考えていない。確かに避難路も大事です、でも防潮堤も絶対必要なんです、どっちかだけじゃダメなんですという。だからそのためにこれこれのシミュレーションをして、こんな感じでうまいこといってます、そりゃ今回の震災で壊れた防潮堤もありました、その教訓を生かしてこんな対策をすれば大丈夫ですと。
だが来場者からは「建設中の防潮堤の杭が支持基盤に届いてるか行政に確認したらチェックする予定もない、完成してからやるかもと回答された」なんて証言が出てきたりする。リスクとコストを足して高さをシミュレーションしてるというけど、高台移転や少子高齢化による人口減少によってリスクは変化してしまうし、そのシミュレーションに加算されるべき防潮堤建設によるデメリットは複雑過ぎて評価が難しいなどという。

この地域の基幹産業はいうまでもなく水産業である。それなのに防潮堤ができたあとの環境負荷や沿岸生活への悪影響を誰もシミュレーションしてないなんてはずがない。都合が悪いから黙っているのだ。防潮堤も含めた人工構造物の耐用年数はせいぜい50〜70年、次に津波がきたときにはもう役に立たなくなっている可能性すらあるのに、本来あるべき自然の海を失ったうえに、この建設にかかる莫大なコストと維持費を負担するのは国民と被災した方々とその子や孫など未来の世代である。
これで何をどう納得せよというのだろうか。無責任にもほどがある。

この点で対照的なのが気仙沼市唐桑町の大沢地区と舞根地区。大沢は初めから議論すらせずに防潮堤をつくったので工事はもう終わっている(去年夏の画像)。ここは住民の大半が高台移転することに決まっていて、またその多くが定置網漁業関連の漁業者(=地域全体でいっしょに働いている)であることがこの結果と関わっているのではないかと思う。
それに対して舞根はまったく逆で、最初から防潮堤の計画がなかった。海を見下ろす場所に高さ40mの高台を造成してほぼ全員が転居。なのでこないだ見に行ったら家はほとんどできあがって引越しも始まっていた(去年秋の画像)。浸水でできた湿地は干潟として残すという。ここは2012年に国連のフォレストヒーローズにも選ばれたNPO森は海の恋人の畠山重篤さんが住んでいる地域である。
すぐ目と鼻の先に近接した地域でも、価値観が違えば選択はここまで違ってしまう。

同じ気仙沼市の小泉地区で防潮堤計画を見直そうと活動されている地元の小学校の先生からは、東北の田舎での「合意形成」がいかに難しいかという話があったが、これこそ今回最も確認したかった話でもあった。
行政と地域住民とでは「言語」が違うからそもそもコミュニケーションに無理がある。合意形成といってももともとの地域の人間関係から議論にはなりにくいし、議論の場に出てくるのは“家長”ばっかりだから、これからを担う若者や女性の意見は決して反映されない。そんな場で未来志向の話なんかできるわけがない。狭い入江に分断された三陸ではそれぞれの浜の独立性が尊重されるため、隣近所の地区との干渉を避けがちになり情報共有もない。そもそも話しあうだけのスキルも環境もないのに結論を急かされる。
もうこの話に防潮堤問題の根源が集約されてます。建てる方は合意形成を水戸黄門の印籠か錦の御旗ででもあるかのようにふりかざすけど、フタを開けてみればそんな合意に中身なんかなかったってことです。どこの地域でもみんな必死に葛藤してるんだろうと思う。けど個人的には、こんなの中身のある合意だとはちょっといえないと思う。

この画像がその象徴のようなものだ。

気仙沼市の沖ノ田川というところの新しい護岸だそうである。リンクのGoogleマップをご確認いただければわかるように、ここはのどかな田園風景が広がる綺麗な田舎のごくささやかな小川である。震災のときはこの小川を津波が遡上して周辺も被害をうけた。だからこうなったというのだが、いったい誰がこんな風景を何のために求めるのか。この画像を紹介した横山先生も「なんでこうなっちゃったんだろう」と苦笑しておられたが、ここにかかったコストと今後の維持管理と、二度と取り戻せない風景を思えば笑い事ではない。

しかし気仙沼の大谷海岸のように地域の人々の努力で事業が見直しに至った地域もあるし、いまからでも決して遅くはないということもできなくはない(苦)。
聞いていて影響力のある専門家の方々の動向の鈍さが気になってしょうがなかったけど、コストも環境負荷も低い生態系を基盤としたグリーンインフラストラクチャーは世界的な潮流でもあるのだし、もっともっとたくさんの人が関心をもってはたらきかけに関わってくれたらなと思う。
次回もあるそうなので。

沿岸環境関連学会連絡協議会
防潮堤.net

お父さんはそのとき28歳でした

2015年12月20日 | lecture
南京大虐殺78カ年 2015年東京証言集会

もうだいぶ時間が経ってしまったけど、備忘録として。
このノーモア南京という市民グループは1997年、南京事件から60年をきっかけに、毎年南京から幸存者(南京事件の生存者のこと)を招待して証言集会や講演会を続けてきたという。
しかしあれからもう78年、南京大虐殺紀念館に登録されている証言者も高齢化し、90代に手が届こうという彼らの渡航リスクを勘案し、今年が最後の証言集会になるというのでいってみた。

今回の証言者は陳徳寿さん。当時6歳だった。
事件当時は祖父母と両親、叔母と従弟妹、全部で8人で暮していた。父は服飾関係の仕事をしていて、母は妊娠中だった。
12月23日の朝、南京市内で日本軍が放火を始め、父は近隣住民といっしょにと消火活動に行ったきり帰って来なかった。近所の人の話では、日本軍につかまって連れて行かれたという。
8~9時ごろに日本兵が家にきて、祖父母はタバコやお茶菓子などで接待したが、彼らは娘を出せと要求した。その場にいた叔母は2歳の娘と4歳の息子を両腕に抱えて抵抗したが、もみあいになり、結局殺されてしまった。日本兵は彼女を6回も突き刺して帰って行った。血を流して倒れた彼女が「水を飲みたい」といい、祖母がくんできたが、もう意識はなかったという。26歳だった。
家にお金がなくて埋葬できず、遺骸は家の前に戸板に乗せて置かれていた。

そのとき母が妹を出産した。日本兵が毎日来て、ふとんをめくって母を見ていたという。
事件から6日め、家に食べるものが何もなくなってしまった。そこへ日本軍の将校がやってきたので、祖父がこれだけの事情を訴えたところ、食糧や棺桶を都合してくれた。
やがて母方の伯父が迎えにきて、安全区に避難させてくれた。その日は大雪で、避難する道々、路上の死体に何度もつまづいたのを覚えている。安全区には40数日いて、家に帰った。

父といっしょに日本軍につれていかれた近所の人が戻ってきて、最期の様子を聞かせてくれた。
消火活動中に日本軍に徴用されそうになったとき、父は「うちには年寄りや子どもがいる。まして身重の妻まで置いてはいけない」と抵抗したら、こめかみや首を突き刺されて殺されてしまったという。当時28歳だった。
その近所の人の証言で、数十日後に遺体を探し出して埋葬することができた。

家の大黒柱であった父がいなくなり、母が家計を支えるために乳母や物乞いまでしたが、妹と祖母が相次いで流行病にかかり、医者に診せるお金もなく死んでしまった。埋葬代を工面するため、母は他所へ嫁いでいった。
そして家には祖父と子ども3人が残った。70歳を過ぎた祖父ひとりで子どもを養えないので、従弟は孤児院へ、従妹は養女に預けられたが、その後ふたたび生きて会うことはできなかった。ふたりとも病気で亡くなったという。

1945年になって奉公にでて働くようになったが、そのころ他家にいった母の再婚相手が日本軍との戦闘のときの怪我がもとで亡くなり、母には生後8ヶ月の子どもが残された。祖父は自ら養老院にうつり、家には誰もいなくなった。
1949年、母と再びいっしょに暮らせるようになった。

いま、家族はまた8人になった。
結婚して、娘がいて、娘婿がいて、息子がいて、嫁がいて、孫もいる。みんな健康で幸せだ。

平和な時代に何かいいたいことは?と問われて、陳さんはこういった。
昔の悲惨な出来事を決して忘れてはいけない。
長崎の原爆死没者追悼平和祈念館にいって、日本人も戦争の被害者だということを知った。
平和と友好が大切、団結しましょう、という話は簡単だけど、努力しなくてはいけない。
戦争は絶対ダメです。
戦争は、命も生活も人生もメチャクチャにしてしまう。戦争は絶対ダメです。

事件当時まだ小さかったということもあり、証言そのものは短かったけど、実際に目撃し体験した記憶というものはとても鮮明で、聞いていて視覚的に感じることの多い話だった。血を流して倒れていた若い叔母、雪の路上に折り重なる犠牲者の遺体。
南京事件であれ原爆であれホロコーストであれ、戦時中の出来事はすでに歴史の中の出来事と化し、体験しなかった人の記憶の中では起きたその時の1点でしか捉えられない。しかし事件の当事者、とくに被害にあって生き残った人々の人生はそこからもずっと続いていく。
陳さんが8人の家族を失ったのは一瞬の出来事ではなかった。ひとり、またひとりと、引き裂かれるように奪われ、またやむを得ず別れ、二度と会うことも叶わなくなった。そして貧しさがやってきた。時間をかけてじわじわと、南京事件は幼い陳さんの家庭を破壊していった。その苦痛を、いま想像することはとても難しい。

それでも陳さんは事件後78年を生き抜いて新しい家族を築き、遠路日本に来て「日本人だって被害者だ」といった。
戦争はダメだと強く繰り返す陳さんの声にこめられた何ともいえない感情は、少なくとも私にとって、忘れ難いものだった。


関連記事:
『南京の真実』 ジョン・ラーベ著
『南京事件の日々―ミニー・ヴォートリンの日記』 ミニー・ヴォートリン著
『ザ・レイプ・オブ・南京―第二次世界大戦の忘れられたホロコースト』 アイリス・チャン著
『「ザ・レイプ・オブ・南京」を読む』 巫召鴻著
『ラーベの日記』
『Nanking』
『アイリス・チャン』
『南京・引き裂かれた記憶』
『チルドレン・オブ・ホァンシー 遥かなる希望の道』
『南京!南京!』

友が蜜なら全部なめるな(シリアのことわざ)

2015年04月27日 | lecture
シリアを知ろう

ややこしく理解しにくいシリア問題。
シリア人ジャーナリストがスピーカーだというセミナーに行ってきた。定員オーバーで机なしだったためノートがうまく取れず、ちょっと時間もたってしまってるので記憶もあやふやですが、とてもおもしろかったのでシェアします。たぶんとんでもない間違いだらけだと思うけど。

まずこの画像をご覧あれ。
左上から時計回りにご存知ウサマ・ビン・ラディン、パレスチナ解放人民戦線設立者のジョージ・ハバシュ、イスラエル人政治家のアズミー・ビシャーラ、フセイン政権時のイラク副大統領ターリク・ミハイル・アズィーズ、シリア・バース党設立者のミシェル・アフラク、そして息子の方のジョージ・ブッシュですが、さて、この中で信仰が違う人をひとりだけ挙げるとしたら誰でしょう。

この質問は、スピーカーのナジーブ・エルカシュさんが話しはじめに参加者に訊いた質問である(違うかもしれないけどだいたいあってると思う)。
「ブッシュだと思う人は?」と訊かれて大半の参加者が挙手したが、実際はビン・ラディン以外の5人全員がクリスチャン。
日本のメディアではやたらにISのテロ行為ばっかり報道されるけど、シリア国内で殺される人の95.4%はアサド政権軍の犠牲者。2.7%がIS。この歴然とした落差。当り前である。ISは爆撃機もミサイルも持ってない。
無意味な固定概念ほど怖いものはない。固定概念は人為的につくられるものだけど、それを補強するのは無知と、自ら知ろうとせずにタダでバラまかれている情報を無批判に鵜呑みにすること、つまり思考停止である。
ヨーロッパと中央アジアとアフリカに接する場所に位置し、古代からあらゆる文明の交差点でもあったシリア。ナジーブさんは古代ローマ時代に公衆浴場文化を生んだカラカラやフィリッポス・アラボスもシリア人だったこと、アルファベットの生みの親はシリアだったこと、ガラスやパテオやダマスクローズやハムスターも実はシリア発など、シリアは豊かな文化に溢れた国だとも語ってました。やはりスピーカーのジャーナリスト・石合力氏は、文化的で料理がおいしくて女性が綺麗だから「中東の京都」と呼んでいるそうである。
それからシリアはもともと移民も文化で、紛争前から2000万人が国外に住んでたそうです。コスメで有名なオバジさんやポーラ・アブドゥル、ポール・アンカもシリア人。その一方で砂漠と地中海とユーフラテス川流域のみっつの地域に分かれ、それぞれまったく違った風土をもっている。世俗的な地中海沿岸に比較してユーフラテス川流域は農業と石油という大きな産業がありながらとても貧しい。国が何の開発もしてこなかったからである。なぜか。国が腐敗しているからである。

そのシリアだが、1970年のクーデターで今のアサド大統領の父ハーフィズが首相となって以来、親子二代にわたって40年以上も独裁状態が続いている。
政府は腐敗し、自由はなく、イスラエルに奪われたゴラン高原も戻らないなかで起きたのが5年前の「アラブの春」だった。シリアでは2011年に反体制派と政権の本格的な衝突が始まり、これまでに女性や子どもを含む20万人以上の市民が犠牲になり、900万人が難民となっている。シリア全体の人口が2200万人だから、半分近くが家を追われた計算になる。
宗教対立のように思われがちなこの内戦だが、地中海カルチャーの影響もあり、もともと紛争前にはさほど宗教色のめだたない国だったという。確かにイスラム教の国ではあるが、アルコール類を口にするのも大して難しくはなかったし、外国人ジャーナリストとシリア人の間で宗教問題が話題になることもあまりなかったらしい。
しかし、いまやあまりの危険度の高さに、多くの大使館や国際機関がシリアを捨てて国外に避難していった。だが首都ダマスカスにもまだふつうの市民が暮らしている。水や電気も通っている。暮らせてしまっているということもできるのかもしれない。

なぜシリアがここまでアンタッチャブルになってしまったのか。
それはシリアで起こっている争いと、この国を取りまく状況の複雑さにあるという。シリア政権は反体制派とISと戦っていて、「軍はISから市民を守っている」とプロパガンダしているそうだ。かつシリアはイスラエルの侵略を受けておりかねてから二国間は対立状態にあるため、アメリカ政府の直接的な支援を受けにくい立場にある。テロ撲滅を標榜するアメリカとしても、シリア政権がISと戦っていることが政権軍の傍若無人を黙認するいい口実になるらしい。
そんななかでも反体制派にもいくつものグループがあり、武力闘争に反対する穏健派がシリア政権にとってもっとも危険な存在である。現にこの活動家であるアブドラ・アジズ・アラハイエ(うまく聞き取れなかったから違うかも)は逮捕されて刑務所に収監され、以来3年間行方不明のままである。
腐敗してても紛争が起こる前の方が安定してたんだから、状況を混乱させてる反体制派が悪いなんて簡単にいう人もいるみたいだけど、物事そこまで単純じゃない。何がいけないかって人権を無視して国民を殺しまくってる政府が悪いに決まってる。安倍首相がシリア周辺の難民対策を支援すると発言して、国内メディアはISに拘束された日本人を危険にさらしたと批判したけど、現に900万人の難民の命も日々危険にさらされてる。いい方は決して良くなかったし結果的に湯川さんと後藤さんの命は奪われてしまった。ただ支援を必要としているそれだけの人たちのことも知ってほしいとナジーブさんはいっていた。
 
シリア人が直面する現状は過酷だが、シリア人にはユーモアという文化もある。
スピーカーのナジーブさんはずうっとワケのわからないオヤジギャグばっかり連発してたし、シリアのメディアにはブラックな風刺漫画が満ちあふれている。
会場で見せてもらったイラストはどれも秀逸なものばかりで、それゆえに、世界中から無視され続けているシリア人のせつなさが胸に迫った。なにがしんどいって無視されるのがいちばんしんどいもんね。
それにしても900万人。行くあてもない、将来の保障もない、衣食住において人として満足な生活が安定して送れない人が900万人。
国民の半分をそんな目にあわせておいて、政権はいったい何がやりたいんだろうね。わからん。
とりあえずもうちょっと勉強しなきゃだな。

元シリア代表のサッカー選手が反体制派の兵士になって登場するとか。
寄付だけじゃなくグッズもゲットできるしくみになっている。Facebookアカウント

おこられニッポン

2014年10月24日 | lecture
院内集会:なぜ日本の刑事司法は国際社会から孤立しているのか ~ 取調べの可視化から代用監獄まで ~に行って来た。
このイシューの院内集会に出るのは2年ぶり(前回のレポート)。ずいぶんご無沙汰してしまった。

今回のスピーカーは3人。
ひとりめが海渡雄一弁護士で、このかたは日弁連のジュネーブ代表、国連の自由権規約委員会の審査に毎回参加されておられる。今日は今年7月の審査の報告。
ふたりめが一橋大学教授の葛野尋之先生。学術的な観点から、日本の刑事司法がどれほど国際社会から乖離していて、具体的に何を改革すべきなのかをお話してくださった。
三人めはイギリスの弁護士ベン・ローズ氏。イギリスでいかにして取調べの可視化が実用化され、現在どう運用されているかをお話してくださった。
濃ゆい。出たことある方はもちろんご存知だと思うけど、院内集会は議員の昼休みを利用して行われるものが多いので、時間は昼休みの1時間半だけというケースがほとんどである。それでこの内容。みっしりです。よって今日のレポートは長いです。これでも超はしょりましたが(全体の半分くらいしか書いてない)。

まずスピーカーが話す前に、日本の刑事司法の改革がいまどの段階にあるかを司会のアムネスティの川上さんが簡単に説明。
今年9月に法制審議会が改正要綱をまとめて法務大臣に提出した。これが来年度に国会で審議に入る見通しだが、改正範囲がごく限定的で、国際社会が求める改革にはなりそうにない。本来必要とされる改革のためには、国民的な議論がさらに必要ということである。

海渡弁護士の報告。
最初に静岡朝日放送がジュネーブの審査を取材した短い映像が紹介される。委員の厳しい追及に対して、日本側はもろに官僚的な答弁(無意味に答えるだけ答えて相手がそれをどう評価しようがガン無視)ばかりしていて、やりとりがチョー不毛なヘーコーセンに終始しているのが一瞬にしてみてとれる。危機的に恥ずかしい。あと「代用監獄」がそのまま英語で「Daiyou-Kangoku」になってたのがさらに恥ずかしい。議長は日本は「国際社会に抵抗している」「代用監獄は自白を求めて維持されているのではないのか」とかなり強い口調で非難していた。
今年3月に袴田巌さんが釈放されたのを受けて海渡さんたちはジュネーブで袴田さんのドキュメンタリー映画の上映会をしたり、委員にフライヤーを配ったりしたそうだが、もともと袴田さんの事件は世界に大きく報道されたこともあり、3人の委員がこの件に言及。袴田事件は代用監獄や死刑制度、死刑確定者の処遇など、日本の刑事司法の遅れを如実に明確化させた事件でもあったわけで、二度とこんな人権侵害を犯さないためにも取り上げられてしかるべき案件だったらしい。
各国の委員は、30年も同じ問題が提起されているのになぜ日本は変わらないのか、日本の死刑確定者は長期にわたって独房に拘禁され、死刑執行も数時間前にしか告知されないという処遇は非人道的であるなどと指摘。裁判員制度では全員一致でなくても死刑判決が出せてしまうから死刑判決が出るなら必ず高裁で審査し直す制度をつくるべきだし、拷問や不当な取調べは審査されるべきだし、弁護人は取調べに立ち会えるようにするべきだし、取調べの方法や時間の厳格な制限も必要。いまは取調べ全体の3%しか録画されていない。全部例外なく録画されなくては意味がない。
あと今回の委員会で出された4つの勧告「代用監獄の廃止」「死刑制度」「慰安婦」「技能実習生制度」に対し、日本政府は1年以内に委員会に回答しなければならない。この回答義務についてはぐりの知る限り報道ではあんまし触れられてなかった気がするけどどーでしょー。
もし委員会が納得できるような回答が出せなかったらどーなるんでしょーねー。国連は繰返し何度も勧告してるのに日本政府はのらくらのらくら改革を先延ばしにしてばっかり。しかし委員会のあのサムい映像はみんな観た方がいいよマジで。真剣に恥ずかしいからさあ。

次。葛野先生。
代用監獄のどこが法的に間違ってるのか。日本の警察では裁判所の許可が出たら最長23日間被疑者を警察内の留置場に拘束することができるが、これは国連の自由権規約委員会の規約9条3項「刑事上の罪に問われて逮捕されまたは抑留された者は、裁判官または司法権を行使することが法律によって認められている他の官憲の面前に速やかに連れて行かれるものとし」「裁判官の面前引致の目的は、被疑者の拘禁を司法的コントロール下に移すこと」「時間制限は48時間以内を原則とすべき」に反している。欧米各国は逮捕後48時間以内に起訴ってことになってますから(24時間程度の延長はアリ)、日本の23日ってのがいかに異常な長さかっつーことですな。
袴田事件においては嘘の自白を強要する取調べや証拠の捏造などあってはならない捜査が明らかになっている。これがもし国際法では保障される証拠開示がなされていれば起こるはずがなかった。
また郵便不正事件で被疑者となった村木厚子さんは著書で日本の取調べを、密室でプロボクサーと素人が戦う試合に喩えている。せめてセコンドとレフェリーは必要。現在行われている取調べの可視化はわずか3%、その必要性を判定するのは捜査側で基準も曖昧で例外的。弁護人の立ち会いはもとより、証拠開示の拡大も必要である。
今回法制審が出した要綱には、弁護人の立ち会いや取調べの時間・方法の規制、代用監獄の廃止などは盛りこまれてないらしい。国連の勧告ガチ無視でんがな・・・。

最後。ローズ弁護士。
刑事裁判とは事実を再構築するもので、公正な裁判には警察は証拠をすべて開示すべきであり、正確な取調べが行われなくてはならない。証拠は正確に収集・保管されるべきであり、正確な記録が必要である。これは刑事司法が適切に運用され、市民に信頼されるために必要なことである。
イギリスでは60年前に内務省から提案され国会で取調べの可視化が協議されたことがあるが、実際に制度が始まるのに40年かかった。録画されていなかった時代には被疑者の自白の真偽を審査するのに非常に長い時間がかかっていた。
きっかけとなったのは1972年のコンフェイさんの事件。燃えている家の中で午前一時にコンフェイさんが亡くなっているのが発見された。3人の若い青年が逮捕され自白、裁判で彼らは自白の強要があったと証言したが有罪判決が言い渡された。イギリスでは殺人は終身刑。だが後に3人のアリバイを証明する新証拠が見つかり、再審が行われ彼らは釈放された。
これを機に市民社会では取調べの可視化が議論され始めたが、当初警察では反対意見が多かった。手間や時間やコストがかかること、録画が捜査の障害になることが理由とされた(このへんはどこも同じですな)。
1980年に王立委員会が警察に録画を始めるよう求め、制度化が進んだ。84年には取調べの可視化が法制化され、92年にはイギリス全土で録音録画が義務化された。現在では軽微な犯罪・物理的に録音録画が不可能な場合・被疑者が同意しないという例外を除いて、すべての取調べが録音録画されている。ローズ弁護士も同僚の弁護士も、被疑者が録音録画に同意しなかったケースは一度も経験がないそうだ。
取調べを録音録画する制度がイギリスで浸透した理由は、明らかに正確で時間の短縮になること。被疑者が英語を話せない場合でも、通訳の正確さもチェックできる。警察や弁護士のトレーニングにもいい。
1999年には被疑者だけでなく証人の取調べも録音録画されるようになった。この証言は裁判でも再生され、証人は出廷せずに証言することができる。いまでは警察車輛だけでなく、武装警官自身にも録画装置が設置されている。警察官は日常的にカメラ付きのベストを着てパトロールをしている。これは警察署の外での警察官の態度に対する苦情があったからで、実際に設置が始まって苦情は改善されたそうだ。
最後に、刑事司法の維持に透明性は必要不可欠であり、そこではすべてが適切に行われ、正確に記録されるべきであり、そのうえで可視化はすべての面で大きな進歩ではある。プライバシーの面は考慮されるべきだが、20年前には抵抗があったこの制度が現在は警察にも検察にも裁判所にも支持されていて、イギリスでは疑いなく重要なものになっているとのことでした。
ちなみに事前に司会の川上さんが「可視化のポジティブな面を喋ってくれ」とリクしたところ、「それしかないから」といわれたとゆーことです。

質疑応答。
Q.日本では逮捕前の任意の事情聴取で供述をとってしまうことがあるが、イギリスではそういうことはあるのか?
A.警察車輛の中でも供述は録音録画するが、原則留置所以外での取調べは禁止。取調べ前に自白してたら裁判で大問題になる。すべての法執行官が録音録画することを求められている。

Q.日本で可視化を始めたら黙秘権が行使されるのでは?イギリスではどうか?
A.イギリスでも、録音録画することで被疑者が話しにくくなるのではという議論があったかもしれない。だが実際には取調べが始まれば被疑者は録音録画されていることは忘れてしまう。自由に出入りできない状況では、被疑者は黙秘するか話すかに集中するので、録音録画されていることは重要でなくなるのでは。弁護士が立ち会うことで、ちゃんと話すように促すこともできる。

あと、イギリスでは逮捕されて収容されるまで正確な記録がされ、身体の自由を奪われている人をきちんと扱うことが制度化されてるという話もありました。
最後に袴田巌さんとお姉さんの秀子さんがいらっしゃって、軽く挨拶を述べられた。
袴田さんはお話はできるがふつうに理解できるような言葉を発することが難しく、報道などで拘禁反応の後遺症については知っていても、そういう袴田さんを目の当たりにして改めて、冤罪で死刑判決を受け48年もの間拘束されるという人権侵害の重さと生々しさを肌で感じた。

それにしてもジュネーブの審議の詳細を聞くにつけ、日本の人権問題が遅れているというより国際社会からどれだけ孤立しているかということに、薄ら寒くなるような恐ろしさを感じる。日本で起こっている人権侵害の現実よりも、その現実をよしとしてしまっている政府や国民感情が恐ろしい。
絶対そんなんアカンと思うんやけど。

第6回日本定時報告に関する総括所見 日本語訳(自由権規約委員会第111会期 OHCHR)

関連記事:
「海外の捜査官に聞く~取調べの可視化の意義~」院内集会
『美談の男  冤罪 袴田事件を裁いた元主任裁判官・熊本典道の秘密』 尾形誠規著
『冤罪 ある日、私は犯人にされた』 菅家利和著
『それでもボクはやってない―日本の刑事裁判、まだまだ疑問あり!』 周防正行著
『お父さんはやってない』 矢田部孝司+あつ子著
『冤罪弁護士』 今村核著
『僕はやってない!―仙台筋弛緩剤点滴混入事件守大助勾留日記』 守大助/阿部泰雄著
『東電OL殺人事件』 佐野眞一著
『アラバマ物語』 ハーパー・リー著
『小説帝銀事件』 松本清張著
『死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う。』 森達也著
『福田君を殺して何になる 光市母子殺害事件の陥穽』 増田美智子著
『なぜ僕は「悪魔」と呼ばれた少年を助けようとしたのか』 今枝仁著
『LOOK』
『日本の黒い夏 冤罪』
『それでもボクはやってない』
『休暇』


議員会館の食堂にはアルコールもある。こんなとこで飲むってどんな人だろうー。