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落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

丘の上の朝鮮人

2017年09月02日 | lecture
何度もここに書いているが、私は在日コリアン3世である。
祖父母は戦前に来日し、両親は戦後に日本で生まれた。いまは鬼籍に入った祖父母はほとんど日本語を話さず、私自身は朝鮮語を解さないため、私たちの間には一般的な親族同士のようなコミュニケーションは成立しなかった。子どもたちが日本社会に馴染むよう、両親は言葉も含めた朝鮮にかかわる情報を、家庭内から(ほぼ)排除して暮らした。なので私は朝鮮語がわからないだけでなく、朝鮮のアイデンティティにつながる何ものも手にしてはいない。朝鮮や在日朝鮮人の歴史につながる出来事についても家族間で話したことはない。

関東大震災で起きた朝鮮人虐殺について初めて知ったのは、小学校か中学の授業だったと思う。といってもそれほど細かく教わった印象はなく、教科書に簡単に掲載されたのをそのままさらっと触れただけだったのではないだろうか。そのとき自分がその出来事に対してどんな感興を覚えたか、まったく記憶していないくらいだから。
この事件を含め、朝鮮や在日コリアンの文化や歴史についての私の知識のほとんどはだから、日本人や在日コリアンが日本語で書いた書物や、日本国内で行われたセミナーなどで得たものである。
外国人の住みにくさや難民申請の厳しさなど、多様性を受け入れようとしない閉鎖性が日本社会にあるのは事実だが、一方で、何代にもわたって外国にルーツを持つ人がこうして暮らし、その経緯や背景について語り継ぎ伝えあおうとする人々も当事者以外にちゃんといる。そのことにはいつも心から感謝しているし、幸運だとも思っている。たとえそうした社会的な寛容さが量的に十分でなくても、決してゼロではないのだから。

今年、墨田区両国の横網町公園で毎年行われる朝鮮人犠牲者追悼式のあと、横浜での関東大震災時の朝鮮人虐殺地のフィールドワークに参加してきた。
直前に小池東京都知事が毎年送っていた追悼文を今年見送ったことが報道された反動か、どちらも参加者は例年の2倍ほどになったという。こうした反動があることを、他の在日コリアンがどうとらえるかはさておき、私個人はとても嬉しかった。歴史的にすでに起きてしまったことをいまからなかったことにはできない。その当たり前の事実をちゃんとうけとめ、まもろうとしてくれる人がこんなにたくさんいるということに、ほんとうにあたたかい気持ちになった。
確かに当時日本人社会が犯した過ちは何年経とうが決して許されるものではない。だがその罪深さを語るとき、同時に、その罪を犯すまいとたたかった人々の存在や、罪を認めて二度と繰り返さない努力をこれまで続けてきた長い時間の積み重ねの意味も、評価してもらいたいとせつに願う。

横浜でのフィールドワークでは、南区の久保山墓地を起点に横浜橋商店街・横浜遊郭跡を経由して中村町を見学したあと、オプショナルツアー的に平楽の丘の上まで歩いた。
横浜は地震と火災の被害が甚大で市内だけで2万3千人以上が亡くなった。と同時に地震直後から流れ出したデマによって朝鮮人虐殺が多発した地域でもある。横浜市役所が震災3年後に発行した横浜市震災誌には「全市近郊隈なく暴状を呈し、暴民による多数の殺害を見、大なる不祥事を惹起するに至った」と書かれている(当日配布資料による)。その発生源と目されているのが、今回訪れた平楽の丘だった。
地震直後に発生した火災から逃れた真金町や中村町近辺の住人は、根岸町との間の高台に避難した。この平楽の丘だけで避難者数は数万人にも上ったという。中村川べりの簡易宿泊所で暮らしていた朝鮮人労働者たちも同じ丘を目指した。
そこで行われた立憲労働党の山口正憲の演説がデマの発端ではないかという説があるが、いずれにせよ2日にはすでに丘の上といわず麓といわず、周辺のいたるところで虐殺が始まった。それを目撃した子どもたちの作文が戦後まで残り、虐殺現場の貴重な証言となっている。未曽有の大火災を経て“復興小学校”として耐震・耐火構造で再建された校舎が、作文を太平洋戦争の空襲からまもってくれたのだ。

300点ほど残ったという作文で顕著なのは、書いている子どもたち本人のほとんどが、虐待され殺される朝鮮人に微塵の共感も示していないという点だそうである。あるいは彼らは、幼いながらに朝鮮人に対する差別意識をすでにもっていたのかもしれない。目と鼻の先に暮らしていながら、同じコミュニティに住む隣人としてみてはいなかったのかもしれない。だが皆無ではなかった。たったひとり、「私はいくら朝鮮人が悪い事をしたというが、なんだかしんじようーと思ってもしんじることはできなかった」と書いた少女がいた。彼女はこの平楽の丘で、必死に命乞いをしながらも自警団に虐待される朝鮮人を目撃していた。
作文を書いたのとはべつの小学生が、震災後51年を経て久保山墓地の中に私費で慰霊碑を建てている。それが関東大震災横死者合葬墓のすぐ隣にひっそりと建つ「殉難朝鮮人慰霊之碑」である。この碑を建てた人は震災当時小学校2年生。久保山の坂の電柱に縛られたまま、血を流して死んでいた朝鮮人を横目に見ながら避難した体験を、彼は半世紀を経て忘れることがなかった。
そして、誰も永久に忘れるべきでないとつよく思ったのではないだろうか。その思いは、いまもこの碑の前に集う市民に受け継がれている。

横浜は貿易港である。当時、長野~八王子~相模原を経て港まで輸出用の生糸を運ぶ“絹の道”があった。この絹の道を伝って、避難者の口伝えにデマは広がり、虐殺も広がっていってしまった。
いま、横浜でこの問題にとりくむ市民にとって、世界への玄関口たる横浜のアイデンティティさえも血で染めたという事実はとても重い意味をもっているのだろう。
その重みを重みとして感じることもとても重要だと思う。だがやはりそれだけでは、目の前にいる少数者を人としてみとめ共感し、いかなるときも偏見だけで判断しない人間性を育てる社会を築いていくのは難しいのではないかと思う。そうした社会を目指すことで初めて、どんな非常時にもヘイトクライムを許さない世界が実現可能となるのではないだろうか。
虐殺の残酷さを伝えることで若い世代に重荷だけを背負わせるのでは差別の歴史を断ちきることができないのなら、やはり、人としてこうありたいという姿、非常時にこそ弱者となる少数者の側にたとうとすることができる心のあたたかさや、まっすぐな気持ちをもっと、だいじに伝えてほしい。
少なくとも私自身は、そうした人たちに触れることができて、とても幸せな心地になれた。この感情を、これからずっと、たいせつに覚えていたいと思うから。

関連レビュー:
『九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響』 加藤直樹著
『朝鮮の歴史と日本』 信太一郎著
『空と風と星の詩人 尹東柱の生涯』


横網町公園内、復興記念館に展示されている震災時の火災で焼け焦げた自転車。

助けられた命

2017年05月05日 | lecture
一橋大学アウティング事件裁判経過の報告と共に考える集い

初めてであった性的少数者は高校の美術教師だった。
進学校の受験とは無関係な選択科目の教師だったせいなのか、彼はたまに出欠を取る以外ほとんど授業に出てこなかった。3年間所属した美術部の顧問だったはずだが部活中にもろくに顔をあわせたことがなく、学校行事にも姿はなかった。高校生活で彼と言葉を交わしたのはせいぜい2〜3度だと思う。進路を美大に決めてからも、担任教諭との面談で相談相手として彼の存在が挙ったことすらなかった。
にも関わらず、私は彼が性的少数者であることをごく常識として知っていた。おそらく学校中の誰もが知っていた。奥手で世事に疎くあだ名が“天然記念物”だった私が知ってたくらいだから、知らない者はいなかったのではないだろうか。
しかしそれはおそらく、彼が自らカミングアウトした状況ではなかったのではないかと思う。美術準備室に日がな一日閉じこもり、授業にも部活にも出ず生徒とも他の教職員とも交流しなかった彼が、誰かの前で公然とそう宣言したなどとは考えにくい。だがそれは単なる噂話でもなかった。詳細は控えるが、動かぬ証拠が生徒たちの間で共有されてしまっていたのだ。
あとになってオープンリーゲイの人々とごく当たり前に交流するようになると(進学先が美術系、就職先がマスコミ系/国際組織となると性的少数者の存在は日常になる)、彼のことをよく思い出すようになった。美術を学んだ先輩としてもっと毅然としていてほしかった。生徒たちとの時間をもっと大事にしてほしかった。どうして彼にはそれができなかったのだろう。生意気盛りの子どもたちにあらぬ噂をおもしろ半分にたてられながら、一日中暗幕をひいた美術準備室で、いったい何を思っていたのだろうかと。

一橋アウティング事件は、一橋大学法科大学院の学生が恋愛感情を告白した同性の同級生によってゲイであることを暴露されて精神的に不安定になり、2015年8月に大学構内で転落死した事件である。
この一橋大学のロースクールは1年目の司法試験合格率が約50%と、東大京大よりも高い日本一の合格率を誇る優秀なロースクールだそうで、亡くなったAくんも入学できたときはとても喜んでいたそうだ。
中学のときから「人の役に立つ仕事に就きたい」という夢をもち、礼儀正しくおとなしく、静かだけれど積極的な子どもだったというAくんだが、ゲイであることを家族には一度も相談したことがなかった。2015年4月に同級生のBくんに告白し、6月にBくんによって同級生たちにそのことをバラされて悩んでいたときも、涙を見せながらも「これだけはいえない」といって話さなかった。
この間、Aくんは大学のハラスメント相談室、ロースクールの教授、保健センターでもことの次第を相談している。そのたびに彼はカミングアウトを余儀なくされた。Bくんの顔を見るだけでなく、Bくんが乗っていた自転車を見かけるだけで気分が悪くなった。
ところが相談された大学側はBくんに事実を問いただしたり、ふたりを引き離したりといった具体的な対策をとらず、やがて模擬裁判という「絶対に休めない」授業中、精神的な逃げ場を失ったAくんは自ら命を絶ってしまった。

その日の午後3時過ぎ、Aくんはロースクールの教室が入っている建物の6階のベランダにつかまってぶらさがっていたという。
力尽きて、または諦めてその手を離すまで、彼は何を思っていたのだろう。
少なくとも彼は、激しい孤独に苛まれていたのではないか。
異性愛者だけを「正常」とする世界で、どこにいけばいいのか、どうすればいいのか、まったくわからなくなってしまっていたのではないだろうか。
その激しい孤独と絶望には、性的指向に関わらず誰しも心当たりがあるだろう。世界中に誰ひとり味方のいない寂しさと心細さを、生涯一度たりとも感じたことがない人間などいないはずだ。

Aくんは死ぬ間際に、クラス全体のLINEに「(B/実名)が弁護士になるような法曹界なら、もう自分の理想はこの世界にない」「いままでよくしてくれてありがとう」などと投稿したが、この投稿を遺族は裁判で初めて知ったという。
それまで、クラスメートの誰も、大学側さえも、遺族に何のコンタクトもしていなかったのだ。唯一、Aくんに貸したスターウォーズのDVDを回収にきた学生がひとりいただけだった。
大学側は遺族への説明に弁護士が同席するときいて一方的に面談をキャンセルし、以後一度も遺族にひとことも何の説明もしていない。
遺族は、愛する我が子がなぜ夢に胸膨らませて入学したロースクールで死ななくてはならなかったのか、ただその事実を知りたいだけである。彼らにはその権利がある。同級生たちと大学側はあくまでそれを黙殺した。蹂躙した。
だから遺族は裁判で明らかにするしかなかったのだ。

アウティングの重大性はおそらく世界中どこでもじゅうぶんに認識が浸透しているとはいえないと思う。残念ながらそれは事実である。私自身どこまで認識しているか自信があるとはいえない。
だがこの事件が起こったのはロースクールだった。大学の言葉を借りるなら「相応の教養と見識があり」「わざわざ人権について教えるべくもない」とする学生が集まり法律のプロを育成する学府が、この人権侵害の現場になったのだ。
では、そもそも大学が学生を「相応の教養と見識があり」「わざわざ人権について教えるべくもない」とする根拠はいったい何なのか。日本の義務教育でまともな性教育が行われなくなって久しい。人権教育など何をかいわんやである。入試で人権や性意識を審査しているとも思えない。現にAくんは生前、同級生が「(同性愛者を)生理的に受けつけない」と発言しているのを耳にしていた。多少なりとも人権意識があるべき人間なら、決して口にしてはいけない言葉である。

発言してしまったものはしかたがない。LINEに投稿してしまったものはしかたがないとしよう。百万歩×∞譲って。人間誰にでも誤りはある。起こってしまった間違いは取り返しがつかない。
だとしても、大学側にも、Bくんにもできることはあった。
なぜならそこはロースクールだったからだ。人権意識があって、性的少数者も含めたマイノリティの権利についての専門知識を備えたスペシャリストがごまんといたのだ。Aくんがどんなに追いつめられていても、彼を助けられるだけのしくみはいくらでもあった。
Aくんを助けることは、絶対に誰にも不可能な「人知を超えた」出来事(大学側の主張)などではなかった。
Aくんの命は救えたのだ。
なのに彼は死んでしまった。
そして事件は隠蔽され、同じ一橋の学生にすら知られることがなかった。
ご遺族が裁判を起すまで。

シンポジウムでは裁判の原告代理人弁護士である南和行氏がファシリテーターとして裁判の経過を報告、今回のシンポジウム開催に尽力した鈴木賢氏(明治大学教授)の基調講演があり、裁判を支援する方々が合間に発言をされ、遺族のインタビュー動画の上映があって、その後に木村草太氏(首都大学東京教授)・原ミナ汰氏(NPO共生ネット代表理事)・横山美栄子氏(広島大学教授)のパネルディスカッションがあり、ぜんぶで3時間という長丁場だったので個々の発言の詳細については割愛するが、なかで非常に印象的だったのは、鈴木教授の講演で紹介された台湾の事例である。
2000年4月、葉永[金志]くんという15歳の男の子が学校のトイレで血を流しているのが見つかり、その後病院で亡くなった。葉くんは口調や挙措動作が女の子っぽいことでいじめをうけていて休み時間にトイレに行けず、いつも授業中に教師の許可を得てトイレに行っていたという。しかし学校は警察の捜査が始まる前に現場の血を洗い流したり、葉くんが病気で亡くなったかのような証言をしたり隠蔽工作を重ね、結果的に校長を含む学校関係者3名が業務上過失致死罪で有罪判決を受けた。葉くんの死から4年後の2004年には性別平等教育法が制定され、現在では性的指向についての教師用指導ガイドや同性愛についての教材、小中学校の教師を対象とした教育セミナーまで整備されているという。葉くんはかえってこないが、彼の犠牲が台湾社会を大きく動かしたのだ。

Aくんの犠牲を無駄にせず、この裁判で社会を変えなければならないと、登壇者は口を揃えていっていた。いま変えなければ、悲劇は繰り返されてしまう。
木村草太教授は「この裁判は判例集に必ず掲載される重大な判例になる。必ず勝たなくてはならない」と強い口調でおっしゃった。これは性的少数者だけの問題じゃない。いじめ(=離脱可能性のない空間(例:模擬裁判の授業)の危険性)の問題でもある。いじめの裁判ならいままでたくさんあった。これまで積み重ねてきた愚を繰返し、人は学ばない生き物だということを証明し続けるのでは何の意味もない。
もし裁判官が一橋大学法科大学院と同じ見識だとすれば一審では負けるかもしれない。でも絶対に控訴します。だからずっと関心を持って、忘れないで支援してほしいと、南さんとパートナーの吉田昌史弁護士は力強く訴えておられた。
都合があえば、裁判の傍聴にも是非行きたいと思います。

大阪でオープンリーゲイの弁護士として活動されている南さんと吉田さんのお話は前から聞いてみたかったし、ツイッターをいつも見ている(TVは観ないので)木村教授の話も聞けて、またパネリストの人選もこれ以上ないくらいばっちりで、非常に質の高い、身の詰まったシンポジウムでした。
定員200名の会場に300人以上来ていて、会場に入れずに廊下で聞いてる人までいました。参加できてほんとによかったです。

一橋大学ロースクールでのアウティング転落事件〜原告代理人弁護士に聞く、問題の全容 | Letibee Life
一橋大アウティング裁判で経過報告…遺族「誰か一人でも寄り添ってくれていたら」

セクシュアリティ、ジェンダー関連のレビュー・記事一覧

扉が開くその日まで

2017年03月19日 | lecture
講演会「小さな命の意味を考える~大川小事故6年間の経緯と考察」



スピーカーは大川小学校で亡くなった故・佐藤みずほさん(当時6年生)の遺族・敏郎さん。
2011年3月19日の、当時勤めていた女川第一中学校の卒業式の記念写真を見せてくださる。
予定では12日だった卒業式が延期になって、19日。卒業式といっても教師も生徒たちも着の身着のまま、それでもカメラに向かって笑っている。
前日の18日は大川小学校の卒業式が予定されていた。敏郎先生の次女・みずほさんはピアノが得意で、卒業式でも伴奏を担当することになっていて、自宅でもよく練習していたという。
その18日に、みずほさんの遺体を火葬した。

敏郎先生は中学教師だった。
女川第一中学は高台に建っていたが全校生徒を連れて避難し、一人も犠牲者を出していない。
あの日は勤務先にいて自宅には戻れず、必死に訪ねてきた家族と再会してみずほさんの訃報を耳にしたのは13日のことだったという。聞いてもなんのことだか理解できず、アタマが真っ白になったという。
以後は学校と教育委員会の説明会、検証委員会と、遺族の中心となって行政とのやり取りに奔走してこられた。「子どもがいれば、学校行事やら部活の大会なんかにいくでしょ。そんな感覚です」と笑っておっしゃった。

あの未曾有の大災害で、学校管理下で子どもが犠牲になったのは大川小学校ただ一校である。
だからそれを「仕方がなかった」でかたづけるべきではないと敏郎先生はいう。
大川小学校は海から3.8キロ内陸の北上川沿い。川下の長面地区には10万本の松原が広がっていた。津波でなぎ倒された大木は残らず引き抜かれて北上川を逆流、川幅500メートルの新北上大橋にひっかかって巨大なダムになった。そこにぶつかった津波は高さ10メートルの黒い水の壁になり、堤防を潰して釜谷の町を小学校ごと飲みこんだ。
10メートルの津波に巻き込まれて逃げられる人間なんかいない。その光景を目にして、先生たちは何を思ったか。亡くなった先生たちも子どもたちをまもりたかったはず。無念だったはず。その無念を、無駄にしたくないという。
なぜか津波が来る方向に避難した先生と子どもたちがすり抜けたという、校庭のフェンスのたった70センチの隙間。74人の子どもたちと10人の先生が生きてここを通ったときのことを、考えるのだという。

親なら誰しも「学校では先生のいうことをよく聞くんだよ」と子どもにいうだろう。ごく一般的に。
大川小の子どもたちは先生のいうことを聞いていて命を落とした。教師でもある敏郎先生は「先生のいうことをきかなければ助かったのに」という言葉がとてもつらかったという。
学校は子どもの命を預かる場所なのに、学校なら安心だと誰もが思う場所なのに、大川小は最悪のその瞬間、機能しなかった。そこに「学校が陥りがちな過ち」が存在するはずである。それを明確にしない限り、いつかどこかで同じ悲劇は起こってしまうだろう。それを食い止めなければ、亡くなった先生や子どもの犠牲は決してむくわれない。
敏郎先生によれば、大川小学校はあまりにも平和過ぎたのかもしれない。田舎の小さな綺麗な学校。行事の保護者の参加率は100%、地域の誰もが愛した小学校だった。その平和が学校経営の甘さになり、落とし穴になったのかもしれない。防災マニュアルは子どもの命を救うためではなく、書いて戸棚に置いておくため、教育委員会に提出するためだけのものだった。書いた教諭自身の証言がそれを物語っている。
そもそも人の想定には限界がある。犠牲が出るような災害はいつも想定外だから、想定外のときにこそ学校経営の軸の強さが問われてしまう。

事後の学校側や教育委員会の対応については、敏郎先生は努めて感情を排して語ってくださった。
ご自身も教師で教委の方々のことはよくご存知なのだろう、スクリーンに説明会時の画像を写しては「この人いい人なんですよ、いい先生なんです、でも」といちいち注釈を挟んでくださったが、遺族にきちんと向きあおうとせず、嘘や捏造や隠蔽を繰り返し、子どもの命をまんなかに置いて話しあいたいと自ら歩み寄ろうとする遺族すら平気で裏切られた無念さは、どうしてもにじんで聞こえてしまった。
続く検証委員会では、遺族が必死に集めて提供した情報は委員に伝わらず、聞き取りとは名ばかりの誘導的なパフォーマンスに終始し、遺族に批判された委員は体調不良で欠席ばかり、最後には半数程度しか参加していなかったという。結果的に出された「提言」は大川小学校とはまったく無関係で、遺族も誰も望まないものだった。子どもの命の話にならない“検証”とは、いったい何のための検証なのか。

最後に敏郎先生は、どこにでも、あのときの“大川小学校の校庭”は存在するとおっしゃった。
おそらくそれは、ご自身の経験からの発言なのだと思う。
他の学校では、逃げよう、いやここにいようという議論があって、喧嘩してでも子どもを連れて逃げて、難を逃れている。
その議論が、喧嘩が、大川小学校ではできなかった。
それを責めたり裁いたりするのではなく、「なぜ」と問い続けるべきだという。
かくしたり誤摩化したりするのは、意味がない。
それでは、亡くなった子どもたちや先生方の犠牲は、なんのための犠牲だったのか。

終盤に2年生の担任教諭の遺族・佐々木奏太くん(宮城教育大学2年)もお話された。
同じ教諭遺族からの批判もうけながら児童遺族と交流し、語り部の活動も始められている。その勇気が、痛々しかったです。

以下質疑応答ダイジェスト。

Q.生存者の“A教諭”は?
A.彼は決して不幸になってはいけない。不幸にしてはいけない人。
海辺の学校を赴任してきて、自然科学が得意な、子どもに人気の先生だが、いまも休職中で誰もあえない。敏郎先生はアプローチしたこともあり、教諭自身も会いたがっていたということだが、会えなかった。
ところが裁判で学校側が敗訴すると「証言してもらわなくては」という発言が教委から聞かれた。A教諭は“道具”じゃないのに(激怒)。

Q.学校のそばの“しいたけ山”に立派な「立入禁止」看板があるが?
A.私有地なのに、石巻市が所有者に無断で建てた。
所有者はひとつ下の後輩(被災していまは別の場所にお住まい)。

Q.敏郎先生は記者会見に出るにあたって職場周辺に“根まわし”をされ「存分にやってこい」といわれたというが、女川教委とは何が違う?
A.初め遺族の間でも「敏郎さんは先生だから」と前に出さないように忖度してくれていたが、2012年6月にそれまで隠されていた資料の存在が明らかになり「まんなかに座ってやってよ」という声が高まった。前日まで悩んで、教委や部活関係やPTAなど20軒ほどに電話して事情を説明したところ、全員口を揃えて「気にするな」といってくれた。
それで会見場にいったら、目の前に座っているのは自宅に取材に来て母親のつくった食事を食べていた記者ばかりだった。だから血の通った会見ができたと思う。
根本的には教委はどこも同じ。立場が違うだけ。

Q.佐々木奏太くんへの質問。教員になろうとする意志の障害はあるか。
A.宮教大は教委との結びつきが強く、大学内でも大川小の件はタブーになっている。教員は断念し、他の道に進むつもりでいる。
奏太くんの活動をうけて大学の姿勢にも変化が見られるという。

Q.遺族は54家族だが提訴にふみきったのは19家族、その差は。
A.教委の説明や検証委員会に疲れ、心折れてしまった遺族もいるなかで、19家族は多いと思う。それでもさまざまな葛藤があって、提訴は時効の1日前だった。原告家族には「金目当て」と陰口をいわれるなどの差別もある。ちなみに敏郎先生は原告団には加わっていないが、原告団家族や弁護士との交流はある。

大川小を何度か訪問し、資料も読んでいたけどそれでも盛りだくさんの講演だった。
個人的に感じてきた疑惑が、ご遺族の言葉を聞いてやはり思い違いではなかったという感覚を得ることもできた。
これはやはり災害というより事故だし、事故であるなら原因があるはずで、それはつきとめて明らかにされなくてはならないものだと思う。
次は現地で始まった語り部の活動に参加してみたいです。

関連記事:
『あのとき、大川小学校で何が起きたのか』 池上正樹/加藤順子著
『石巻市立大川小学校「事故検証委員会」を検証する』 池上正樹/加藤順子著

佐藤敏郎さん~命は小さく、そしてもろいもの。大切なのは、そう認めたうえで、前を見て進んでいくこと

大川小学校津波訴訟
大川小学校を襲った津波の悲劇・石巻
大川小学校の悲劇 検証・大川小学校事故報告 検証はまだ終わっていない 東日本大震災4年

復興支援レポート



沖縄の人が話さないこと

2017年03月05日 | lecture
公開講座「東京で考える沖縄・辺野古」 第5回 なぜレイプが繰り返されるのか?

諸事情あって少し前から沖縄の基地問題に関わる機会があり、現地も訪問しているのだが。
実際に行ってみていろいろと感じることがあり、もっと知見を深めたいという意識もあってこんな本も読んでみたりしてます。

タイトルはショッキングだけど、内容は普通に社会学の調査報告。
スピーカーの小野沢あかね氏は沖縄・旧コザ市でAサインバーと呼ばれた米兵相手の性風俗店に従事した人々に聞き取りをするフィールドワークをされていて、まあ結果ざっくりいえば、沖縄の米軍関係者による性暴力の背景にこうした官製性産業の存在があることは否定できないということらしい。はっきり名言はしませんけど。たぶん。

性暴力事件といえば、社会的にはどうしても加害者と被害者の個人的な問題にされやすいが、こと基地の周囲に関していえばそうではない(構造的暴力)。
そもそも軍隊が制度化された暴力装置であるからこそ、世界中どこでも軍隊のいるところ必ず性産業があり性搾取がうまれ、性暴力が発生する(関連記事)。なぜなら軍隊では「人を殺せる人間」を養成する。そこでは「暴力をふるうことができる人物」が理想である。しかも軍隊は地域社会とは結びつきがない。よしんば組織にはあっても、そこに属する兵士には任期があり、必然的に時期がくればよそへ移っていく。かつまた彼らには圧倒的経済力があり、性産業に従事する女性たちとの関係性は決して対等ではない。

コザ市で性産業が盛んになったのは、朝鮮戦争が始まって沖縄に基地建設ブームが起こったあとである。
地元住民を銃剣で脅迫し暴力で強制的に排除したうえで設置された基地の周囲に、米兵相手の歓楽街がつくられた。初めそこで働いていたのは困窮した戦争未亡人や戦災孤児、奄美諸島や本部・東村出身者が多かったという。本来は農業地帯だったこの地域の主幹産業はこうして性産業にとって替わられ、男性は基地雇用、女性は性産業か美容院・レストラン・ホテル・衣料品製造販売など米兵や彼らを相手に働く女性が主な顧客となる業種に就く比率が高くなった。地域経済そのものが基地に依存する構造に変わったわけである。
先述の通り、圧倒的経済力をもつ米兵を相手に商売するAサインバーは米軍の認可がなければ営業できない。そしてそのAサインバーの女性と客を顧客とする業種が地域経済の大半を占める。そこに均衡などありえない。そして権力がある側の存在意義の中心は暴力である。さてどうなるか。

一方で米軍統治時代の沖縄のローカル紙の紙面には、ほぼ毎月、米兵の沖縄女性への性暴力事件が掲載されていた。もともと性暴力事件は親告罪であり、暗数(実数と当局の把握している件数の差)が大きい。だから紙面に載るのは氷山の一角だとしても毎月って凄い数です。去年うるま市で起きた米軍属の強姦殺人事件の被告は「日本では報道力が弱いから逮捕は怖くなかった」と供述したというが、被害が露見することがないならなにをやってもよろしいという感覚に陥る人間がいてもおかしくない環境が、営々と醸成され続けているということもできるわけです。極端にいえば。

印象的だったのは、小野沢氏がインタビューした当事者(元ホステス・女給)が、一様にこうした性暴力や過酷な人身売買の実情については明言しなかったといった点。
毎月新聞沙汰になっていた強姦や殺人事件に彼女たちが一貫していっさい関わりがなかった、何の感興も抱いたことがないというのはおそらく真実ではない。またより厳しい条件で働いていたという地元住民相手の性風俗店の女性たちに対しても、何かしら思うところはあったはずである。
個人的には、そこに世間一般の大好きな“自己責任論”の無責任な罪深さを強く感じる。いまも頻発している米兵の性暴力の被害者の多くが、その事実を告発しないのと同じ原理だ。暴力に正当性なんかあるわけがないのに、100%加害者の責任であるはずなのに、なぜか世論は「そんな場所にいた被害者がいけない」「そんな人間に近づいた被害者が悪い」「どうせ殺されるようなことをしでかしたんだろう」といいたがる。事実がどうかなんて関係ない。とにかく加害者の責任や環境要因よりもまずいの一番に、取り返しのつかない傷を負った被害者やその遺族を貶めようとする、それがたとえ同業の人々であったとしても、被害者はただ運が悪かった・何か間違いを犯した、自分とは別な種類の人々=他人事としてかたづけようとする。
圧倒的な共感の欠如。

専門的で聞いてて若干しんどい部分もあったにせよ、沖縄にいって感じたことの裏付けにもなり、さらにもっとこの問題について知りたくなりました。
資料あたってもうちょっと勉強したいと思います。


関連レビュー:
『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』 矢部宏治著
『怒り』
『ハブと拳骨』
『ひめゆり』
『セックス・トラフィック』
『ハーフ・ザ・スカイ 彼女たちが世界の希望に変わるまで』 ニコラス・D・クリストフ/シェリル・ウーダン著

不謹慎で不愉快で変態な部位について

2016年10月01日 | lecture
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トークイベント「ろくでなし子@AMNESTY~表現の自由と人権をろくでなし子裁判から考える」に行ってきた。

まあ正直な話、例の逮捕劇があるまで彼女のことはとくに好きでもなんでもなく、たいして興味もなかったんだけどね。
でも実際、世の中の大半の人がそうではないですか?いかがですか。
たまたま私自身とちょうど同世代でもあるわけだけど、そもそも私個人が好きなアートはどっちかというとインスタレーションが多くて(ジェームズ・タレルとか名和晃平とかサスキア・オルドウォーバースとかそのへん)、単純に好みじゃない。だからといって嫌いでもない。彼女のように性器をモチーフに、それをとりまく社会環境をカリカチュアライズした作品を発表する作家は昔からいくらでもいた(たとえばこちら←一応閲覧注意)。日本ではあまり馴染みはないかもしれないけど、だいたい現代アートなんて既存の概念に対抗してなんぼなんだから、文化も宗教も無関係に万国共通で誰もが服の下に隠すことに決められている身体の部位なんて、まさにうってつけのテーマだ。
なのでエロティックアートとして週刊誌に載ったりして話題になり始めたときも、とりたてて注意を向けてはなかったです。ああそんな人がいるんだな、というくらいにしか思わなかった。

とはいえ彼女がわいせつ物頒布罪で逮捕・起訴されたときは心の底からほんとうに驚いたし、いまだにいったいあれは何の冗談だったんだろうと疑問に思う。罪というからには短期的にせよ長期的にせよ/あるいは直接・間接的に被害を被った人がいてしかるべきではないかと思うのだが、彼女が頒布したのは己の性器であって、彼女自身が自分の体を使った芸術で自分の表現したいことを世に投げかけているのであり、不当に誰かの心や身体や財産を傷つけたり貶めたりしているわけではない。そりゃ気に入らなくて不愉快な人もどこかにいるだろうけど、そういう人は見なけりゃいいだけのことである。アートなんだから。

だが逮捕・起訴されたことで確実に彼女のアートの社会的意義は国境を超えて飛躍的に拡大した。そこには、表現の自由というだけにとどまらない、女性の人権や代用監獄という恥ずかしい司法制度、差別問題や性教育問題など、現代日本が抱えた奇妙奇天烈な人権問題が、よくまとめられたカタログでもあるかのようにきっちりと詰まっている。日本でふつうにくらしていて人権問題なんて現実にぴんとこない、なんて人も少なくないと思うけど、彼女の問題だけでももうさらっと一通り把握してしまえる。逆に、女性器というごくプライベートな身体の一部を表に出すだけで、そこに連なる問題がふだんいかに隠され、存在を無視されているかということの証左にもなってしまうということもいえる。
それこそ芸術の芸術たる最大の存在意義ではないか。

それにしても、どう考えてもろくでなし子さんの作品そのものは単純な身体の一部であってそれ以上でも以下でもない。それをとりあげてやれ「わいせつ」だの「不謹慎」だの「不快」だの「変態」だの騒ぐ人がいるのはまだいいとして、それを国民の税金をつかって捜査・逮捕・起訴しておおまじめに有罪・無罪を延々議論するバカバカしさのいったいどこに、なんの意味があるのか、なぜ誰もこの茶番そのものの空虚さを糾弾しないのかが不思議でしょうがない。
コント番組でやるのはいい。けどリアルに警察と検察と裁判所がしごとしてる。おかしいでしょ。

ろくでなし子さんの語り口調はあくまで明るく楽天的で、会場大爆笑の連続で非常に楽しかったです。世間的には「人権」なんて話題としてなんだか難しそう、ややこしそう、堅苦しいなんてイメージもありそうだけど、彼女の話にはそういうネガティブな面がいっさいない。私の身体を使って私の表現したいことをしているだけ、たったそれだけ。ブレがない。ある意味では強かなのかもしれないけど、とはいえただただ無駄にポジティブなだけでもなくひとりよがりでもない。表現の自由や差別に対する意見にはとても共感したし、作品の見た目に対してご本人はいたって真面目で真摯な人なんではないかなという印象を受けました。
マンガ、ぜひ今度読んでみたいと思います。

しかし今回のイベントは豪華だったよ。だってファシリテーターが事務局長でインタビュアーが副理事、質疑応答には前事務局長もはいってくるって、ちょっとなかなかないですよ(あったらごめん)。
開催直前に中止するしないといった炎上騒ぎもあったけど、それもあって却ってよかったと個人的には思いました。苦情に対応したり大変な思いをされた職員やボランティアの皆さんはお気の毒だし心から同情するけど、このことを通して、世界に冠たるアムネスティにたったこれだけのことで嫌がらせをする人々が少なからずいることや、彼らが嫌がらせだけしておいて現場に来て直接抗議なんかしやしないただの卑怯者だという事実も明らかになった。
アムネスティにだって間違いはあるけど、間違ったことや批判をきちんと認めて受けいれて、潔く謝罪することができるってことも世の中に知ってもらうことができた。そんなのなかなかできないと思うよ。私だってうまくできないもん。
何はともあれ、ほんとにいいトークイベントでした。実は体調が微妙に良くなくて、予約したはいいけど行くかどうか迷ってたんだけど、結局行ってよかった。いっぱい笑って、勇気もらって、元気でました。私もまた明日から頑張ろうと、素直に思えました。

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ろくでなし子裁判 iRONNA連載