もうすぐ北京五輪、楽しみは何と言ってもオリンピックの華マラソンだ。
-男子編-
ローマ大会(1960)で世界中に衝撃が走った。無名のアベベ・ビキラ(エチオピア)が優勝したのだが、何と裸足で走ったのだ。
東京大会(1964)ではアベベ・ビキラが当時不可能だろうと言われていたマラソン二連覇をいとも簡単にやってのけた。超人とも鉄人とも言われた。風貌や言動はヨガの哲人に見えた。
この大会で日本陸上界は28年ぶりにメダルを獲得している。国立競技場に帰ってきた時は二位だったが、ヒートリー(イギリス)に抜かれ銅メダルに終わった円谷幸吉である。
円谷には思い入れが深かった。なぜなら出身が自分の母親と同じ町だったのと、メキシコ大会でも期待されたのだがケガに悩み「もう走れません」と自殺をしたからだ(享年27歳)。ちなみにゴジラの生みの親円谷英二監督の出身も同じ町である。
メキシコシティー大会(1968)では東京八位の君原健二が親友だった円谷の分までと奮起して銀メダルに輝く。メキシコシティーは高地にあり酸素が薄くマラソンは過酷であった。
余談だが小出義雄は当時高地対策でかりだされ自ら走り実験台になっている。この事がヒントとなり高地トレーニングを開始して有森裕子や高橋尚子を育てている。
この大会アベベは三連覇を狙いスタートしたが途中棄権している。その代わり同じエチオピアのマモ・ウォルデが優勝し、エチオピアの三連覇は達成された。
ミュンヘン大会(1972)ではフランク・ショーター(アメリカ)が独走で優勝。ショーターは翌年の毎日マラソンで突然観客の持つ小旗をつかみ道路から消えた、クソをしてまた戻りそのまま優勝してしまった。「野グソのショーター」と呼んだ。
この大会メキシコ覇者マモ・ウォルデは40歳にもかかわらず銅メダル、メキシコ二位だった君原健二は五位となり東京八位と合わせて三大会連続の入賞を果たす。日本の鉄人は君原である。
モントリオール大会(1976)ではその常勝フランク・ショーターをおさえて優勝したのが無名のワンデマール・チェルピンスキー(東ドイツ)。
ワンデマール・チェルピンスキーは続くモスクワ大会(1980)でも優勝しアベベについでマラソン二連覇の偉業を達成する。もっとも瀬古利彦が出ていたら間違いなく優勝していただろう。
瀬古利彦はロサンゼルス大会(1984)で優勝をめざす。瀬古の金メダルをおさめようとビデオデッキまで買った。34km地点で瀬古が遅れていくのを呆然と見ていた。「悪夢だ」ひとりつぶやいていた。
優勝したのは出場最年長37歳のカルロス・ロペス(ポルトガル)。以外にもこれがポルトガル初の金メダル。宗茂が四位と健闘。
ソウル大会(1988)では瀬古利彦も出場したが期待は中山竹通に移っていた。しかしメダルに一歩届かず四位。勝ったのは粘りに粘ったジェリンド・ボルディン(イタリア)。
バルセロナ大会(1992)では黄永祚(韓国)と森下広一が息づまるデットヒートを展開。おしくも森下はモンジュイックの丘で振り切られ銀メダル。
中山竹通は二大会連続の四位。途中給水ポイントで靴が脱げた谷口浩美は八位。
アトランタ大会(1996)から日本男子マラソンは大躍進する女子と反比例して低迷期に入る。円谷から森下まで世界に通用する選手が続いたがこの大会から途切れる。
優勝はヨシア・チュグワネ(南アフリカ)、イ・ボンジュ(韓国)が二位。三位に日本の企業で力をつけたエリック・ワイナイナ(ケニヤ)が入る。日本の中で敵を育ててどうすんだよ。
シドニー大会(2000)ではアフリカ勢がメダルを独占した。17km付近で転倒したもののゲザヘンゲ・アベラがメキシコ大会のマモ以来三人目のエチオピア優勝者となる。エリック・ワイナイナが前回銅から銀に順位を上げた。三位はトラ(エチオピア)。
日本勢はアトランタ、シドニーと最低の成績が続き記述するのをひかえる。
前回のアテネ大会(2004)ではデリマ(ブラジル)が独走していたが35kmコースに乱入した男に妨害され三位に後退。40kmでバルティニ(イタリア)がデリマを抜き去りそのまま優勝。二位はケフレジキ(アメリカ)。
日本勢は油谷繁が五位、諏訪利成が六位に入りマラソン王国復活にひとすじの光が見えた。
さて北京大会(2008)には佐藤敦之、尾方剛、大﨑悟史が挑む。ぜひともメダル獲得をめざしてがんばってほしい。そして近い将来世界に通用する選手の出現を願う。
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