はいほー通信 短歌編

主に「題詠100首」参加を中心に、管理人中村が詠んだ短歌を掲載していきます。

〈現代〉と〈現在〉のあいだ~『サラダ記念日』を基点として (3)

2010年09月21日 19時43分12秒 | インターミッション(論文等)

   (3)『サラダ記念日』の短歌的立ち位置


 次に、文学的な影響面から見た、歌集『サラダ記念日』について考えてみる。

 当時のみならず現在においても、『サラダ記念日』は(良きに付け悪しきに付け)歌壇を変革した張本人として見られている。そのような発言は探せば数限りないが、近いところでは詩人でフランス文学者の松浦寿輝が、岡井隆との対談において、

 〈(中村補注・言文一致、口語体の変化は、)短歌の世界はよく知らないんですけど、俵万智の『サラダ記念日』が元凶ではないのですか。〉(⑮)

と言っている。これが、歌壇あるいは文学界における『サラダ記念日』の一般的認識なのだろう。
 これに対し、岡井隆は違った見方を示している。

 〈女性が自由にうたうというフェミニズム的気分と、口語短歌のその両方が重なり、俵万智が出た。短歌史的にはそうなります。つまり出発点ではなくて、大きな六〇年代からの流れの、片方では短歌の口語化、片方では短歌の女性化と言ってもいいしフェミニズムと言ってもいい、それの集大成のようなかたちで、俵さんが出たのですよ。だから僕は、最初のランナーではなくて最終ランナーだったと思う。〉(⑯)

 第二次大戦後の「フェミニズム的」女流短歌は、中城ふみ子から始まったというのが定説である。
 その後、馬場あき子、尾崎左永子らによってこの動きは確固としたボディを得、さらに河野裕子、栗木京子らに引き継がれる。
 それらの流れは、(紆余曲折を経ながらも)俵万智まで続いている。

 また、短歌の口語化そのものは、短歌革新運動のころから断続的に実験が為されてきたが、現在につながる口語短歌の祖としては、村木道彦、平井弘の二人が挙げられるだろう。
 俵自身も、自著でこの二人を取り上げており、特に村木については

 〈村木道彦の作品に出会ったとき私は、もうすっかり「ハマってしまった」という状態だった。〉(⑰)

とまで語っている。

 それとは別に、俵の歌の技法について、このような考察がある。

 〈引用歌(中村注・省略)の結句七音だけをみてゆくと、(中略)いずれも「二音/五音」の分割による「連体形/体言止め」のかたちになっていることがわかる。これは戦後の前衛短歌が開発した句またがりという技法の口語的なバリエーションなのだが、読者はそんなことは全く知らないまま、読み進むうちに、この安定したリズムを心地よいものとして受け入れるようになるだろう。〉(穂村弘)(⑱)

 〈消費文化の影響や口語文体だけが突出して語られがちであるが、俵万智に流れ込んでいるのは、(中略)戦後短歌、前衛短歌以来の現代短歌の技法なのである。愛唱性はおそらくその技術の裏づけによっているのだろう。〉(小高賢)(⑲)

 穂村や小高の論によれば、俵は前衛短歌が磨いた技法もバックボーンとしていることになる。

 さらに私論を付け加える。
 俵の歌風は、ある種の短歌愛好者にとっては渡りに船の存在だったのではないか。
 アララギ以来の写生、日常詠が生み出した一つの現象として、「日記あるいは備忘録としての短歌」がある。そのような短歌を詠む人たちがよく口にする台詞だが

 〈「(前略)私は、日々のできごとや思いを、そのまま素直に、短歌として書きとめられれば、それで充分なんです」〉(⑳)

 短歌で日常を語りたい。しかし今までの短歌では言葉や語り口が難しすぎてどうもお手本にしにくい。俵の(一見)平明な語り口は、そんな「日記としての短歌」愛好者たちにとって、ある意味待ち望んでいた文体だった。
 それが、この歌集が幅広い世代で支持された理由の一つだろう。
 事実、これ以後、各誌の投稿欄等では、若者だけでなく、むしろ中高年において『サラダ記念日』の影響力が顕著に見られるようになる。

 今まで挙げてきた論をまとめる。

  1.第二次大戦後からの女流歌人の歴史
  2.短歌革新運動以来実験が繰り返されてきた口語短歌
  3.前衛短歌に端を発する様々な技法
 それらの潮流を受け継いだ集大成としての俵万智の歌が
  4.アララギ以来の伝統が変形した「日記短歌」愛好者を大きく刺激した

 それが、短歌的立ち位置から見た『サラダ記念日』ブームの概要だろう。




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