「私性」とは、大げさでなく短歌の根本に関わるほどの概念なんだけど、その割には(少なくとも近年は)あまり話題になってない気がする。特に若い歌人たちの間では。やっぱり「古くさい」っていうイメージがあるんだろうか。
「なんだかよく分からん」っていうこともあるかもしれない。そんな声もいくつか、インターネットなどで見た。
実際、この言葉を「これこれこうです」とすらすら説明するのは、とんでもなく難しい。いや、昭和前期くらいまでならばむしろ当然の概念として一言のもとに説明できたのだろう。でも、前衛短歌の時代にいわゆる「私性論争」というのが起きたそうで、そのおかげ(ばかりでもないんだろうが)でやたらにいろんな見方や考え方が飛び出した。さらにニューウェーブやら何やらが拍車をかけ、もはや収集がつかなくなっているらしい。
例えば、『岩波現代短歌辞典』では穂村弘が2ページを使って「私性」について説明しているが、何回読んでも解るようでどうも腑に落ちない。文章の達人・穂村さんにしてこれなのだから、他は推して知るべしである。
最近のもので比較的分かりやすいかな、と思ったのは角川『短歌』の共同企画「前衛短歌とは何だったのか」の22年5・6・7月号の一連。しかしこれも、「私性」についてのアウトラインや各個の考えは分かるが、「だから結局どうなの?」というキモが見えてこない。
こんなもやもやを以前も味わったことがあるな、と思ったら「文語・口語」について調べた時がそうだった。
これも、昔は一言で説明できるほど自明の単語だったのが、近代・現代・現在と進むにつれ見方が多様化し、非常にめんどくさいことになってしまった。論議する時にもまず「文語・口語とは何か」という規定をしてからでないと話が全然かみ合わなくなってしまう、というのも「私性」と同じだ。その違和感と来たら、某所で豊満な「あけみさん」を指名したらすごくスレンダーな「アケミさん」が出てきたような……いやまあ、それはともかく。
一つには、「短歌とは一人称の文学である」という、あの有名なテーゼも影響している気がする。
いつ頃からこの定義が出てきたのかは知らないが、少なくとも始めは「である」という言い切りじゃなくて「に向いている」というソフトな考えだったんじゃないだろうか。
それがいつの間にか「である」になり、「ねばならない」になり、それにつれて視野も狭まって、それから外れそうなものはすべて「短歌ではない」になってしまった。
そしてこの流れはそっくり、「狭義の私性」にも当てはまるんじゃないか。
(ここで言う「狭義の私性」とは、「歌イコール詠み人本人」という、最も素朴で歴史のある「私性」観だ。)
「一人称の文学」「狭義の私性」。どちらも、先達の歌人が長い時をかけて練り上げ、考え抜き、実体験から拾い上げて抽出した概念なんだろう。
そして、くどいようだけれど僕自身はそれを否定しない。全然否定しない。その考え方から多くのすばらしい短歌が生まれ、多くの優れた論が出た。それはかけがえのない財産だし、現在でも通用する立派な概念だと思う。
ただ問題は、それらの概念があまりにも力を持ちすぎ、ある時点でひとつの「教義」にまで祭り上げられてしまったことだったんじゃないか。
いったん「教義」となった概念は、硬化し、視野狭窄を起こし、そこから外れるものを無条件で排除するようになる。周りに押しつけるようになる。「こんなにもすばらしい教えに従わないものは、ここにいる資格はない」と。
「教義」は単純であるほどいい。と言うより、いったん「教義」になると複雑な思想を含んだものも平べったく単純化して受け取られるようになる。
この場合で言えば、「自分のことを」「事実のままに」歌にする、という「教義」。
決して間違ってはいないのだが、その後ろにある膨大な理念を読み取るには簡潔すぎる。そしてだいたいにおいて、万人が理解し納得できる論というのは、どこか落とし穴がある。
かくして、「日記文学」と揶揄される状況が始まる。それに抵抗する歌人は「邪道」とさげすまれる。非常におおざっぱではあるが。それが近代から続いた(ひょっとしたら現在まで続いている)状況のひとつなんじゃないだろうか。
その考えに根拠があるのならいい。自分で絞り出したものならもちろん最高。そうでなくとも、先達の多くの文献を読み、これこれこういう理由でこうならなければならないのだ、と説得されるのなら、従うかどうかはともかく喜んで理解するだろう。
でも、そんな説明も無しに「こういうものなのだ」「こう決まっているのだ」といきなり言われて従う人間がどれくらいいるだろう(いや、けっこう多くいるのかもしれないなあ、とは考えたくないが)。
人のことばかりを言っているわけにもいかない。逆のことを考えてみようか。
「私性なんて古くさい」「一人称なんて誰が決めたんだ」「テキストだけを見て善し悪しを決めればいいんだ」こういった考え方を、僕は「教義」化していないだろうか。
上に並べた考え方は、前衛短歌の時代、遡ればモダニズムやそれ以前から提示されていたものだ。その後、ニューウェーブ等での歌人たちの屈力もあり、かなり浸透したものになってきた。
けれど、さっきの話の流れを思い起こしてほしい。ある考えが浸透するということは、その考えが「教義化」する危険性も孕んでいるのだ。その考えがどこから来たのか、本当に自分の体内から絞り出したものなのか、納得して使っているものなのか。
もしも安易に「そういうものなんだ」「それが正しいんだ」と、思っているだけだとしたら……
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