(続き)
話は少しずれるが、ちょうど今『短歌と日本人 Ⅶ~短歌の想像力と象徴性』(岡井隆編 岩波書店)を読んでいて、その中の座談会で、永田和宏が発言している。
岡井 (中略)短歌というのは基本的には文語定型だと思いますか?
永田 まさにそれ以外のものではあり得ないと思います。
岡井 いま、口語短歌的なもの、あるいは口語と文語の混合体が非常に盛んですね。
永田 いまの口語短歌が成熟する頃には、それは文語になっているんだと思うんです。なぜいまの口語短歌は軽くて物足りないかというと、口語で定型におさめるほどには助詞、助動詞が成熟していないという気がします。
(中略)
みんな口語的なものをどんどん入れようとしていくんだけれども、それが快く感じる頃にはある種の文語的な感じられ方をして、うまくおさまっている。そういうものだと思います。
それはちょっとないんじゃないの、と僕なんかは思う。
もちろん、前後の文脈をすっ飛ばして気になる部分だけをあげつらってどうこう言うのが、卑怯だということは承知している。
この座談会は1998年に行われたものだから、10年以上たった現在とは事情が違う、ということも分っている。
それでも、そりゃないよ、とどうしても思ってしまう。
口語を使っていかにして短歌を作るか。
四苦八苦してそれを行い続け、ようやく短歌に馴染んだ口語表現を作り上げたと思ったら、「それはもう文語なんだよ」と言われてしまうと、どうしても恨み言のひとつも言いたくなる。
永田氏は、僕の大好きな尊敬する歌人であるから、なおさらそう思うのかもしれないが。
まあ、これは余談。
斉藤氏は、『短歌時評』の終わりで
「口語で歌を詠むべきである、べきであるのに口語に限界を感じ、深いところの必要から文語を選びとる歌人がおのずから生まれて、はじめて口語化の流れが止まる」
と述べている。
100%、同意見である。
同意見ではあるが、それでも思う。
「口語に限界を感じ」ながらも、口語にこだわり続ける歌人たちも、またそう簡単にはいなくならないのだろうな、と。
(お終い)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます