(承前)
一応、僕の鑑賞についての手順を書いてみる。
まず『題詠100首blog』のそれぞれのお題投稿欄を開き、並んでいる歌をスクロールしながら読んでいく。
途中で「おっ」と思った歌を、ワープロにコピー&ペーストする。
最後まで読み終わったら、ワープロにペーストされた歌を改めて読み込む。
感想を書き、ちょっとした意見も付け加える。
1日寝かせた後(クールオフ効果)、何回か読み直してから自分のブログに掲載する。
最後に、作者に対して歌を紹介させていただいた旨を知らせる。
つまり、「眺め」「選び」「取り上げ」「コメントをつけ」「意見し」「載せて」「知らせる」のだ。
偉そうでしょう?
要するに(あくまで僕の場合、ということですが)〈鑑賞〉と銘打ってはいるけれど、これは紛れもなく〈批評〉なのだ。
それも、根拠のない下手な印象批評。
こういった〈批評〉は、いくら誠実に、注意深く行ったとしても、偉そうな気配をぬぐうことはできない。
つまり、筆力や人間性うんぬんだけではなく、僕が行っているのは、本質的に偉そうな行為なのだ。
(この項つづく)
一応、僕の鑑賞についての手順を書いてみる。
まず『題詠100首blog』のそれぞれのお題投稿欄を開き、並んでいる歌をスクロールしながら読んでいく。
途中で「おっ」と思った歌を、ワープロにコピー&ペーストする。
最後まで読み終わったら、ワープロにペーストされた歌を改めて読み込む。
感想を書き、ちょっとした意見も付け加える。
1日寝かせた後(クールオフ効果)、何回か読み直してから自分のブログに掲載する。
最後に、作者に対して歌を紹介させていただいた旨を知らせる。
つまり、「眺め」「選び」「取り上げ」「コメントをつけ」「意見し」「載せて」「知らせる」のだ。
偉そうでしょう?
要するに(あくまで僕の場合、ということですが)〈鑑賞〉と銘打ってはいるけれど、これは紛れもなく〈批評〉なのだ。
それも、根拠のない下手な印象批評。
こういった〈批評〉は、いくら誠実に、注意深く行ったとしても、偉そうな気配をぬぐうことはできない。
つまり、筆力や人間性うんぬんだけではなく、僕が行っているのは、本質的に偉そうな行為なのだ。
(この項つづく)