山種美術館で開催されていた”川合玉堂展/日本のふるさと・日本のこころ”展はこの日曜日で終了してしまったが、遅まきながら、記事を書き始めている。生誕140年記念ということで、15歳の頃から晩年の作まで、前後期合わせて88点展示という回顧展で、見ごたえがあった。
まず、少年時代。15歳の写生帖などがいくつもみられる。栴檀は双葉より芳しのたとえ通り、みごとな筆使いに、観客はみな、ほーと驚きの声を上げる。そして、22歳頃から57歳位までの青壮年期までの作品が、第一章研鑽の時代で括られる。この間、25歳のとき橋本雅邦に従い日本美術院に参加、その後、美術院の要職を経て、東美校の教授になったのが42歳。各種展覧会の審査員を務め、フランスやドイツから勲章授与されるなど、順調な社会生活を送ってきた。その頃の作品をいくつか。
15歳の写生図
鵜飼(1895、明26)第4回内国勧業博覧会に出展。賞をもらう。このとき出展されていた橋本雅邦の作品に深い感銘を受け、翌年、入門する。鵜飼をテーマにした絵は、その後、たくさん描いている。
小松内府図(1899)玉堂としては珍しい歴史画。父、清盛を諫めにきた烏帽子の重盛と鎧の弟宗盛の緊迫した対面。
紅白梅 光琳の紅梅図を意識しているのがわかる。琳派風の絵が他にもある。
そして、60歳位を過ぎてから、第二章 玉堂とめぐる日本の原風景に。これぞ、玉堂という作品ばかりどれも味があるが、自選でいくつか。ここの図録は、重たいものが嫌いなぼく向きにできているので、即購入(笑)。写真は図録から。
山雨一過 玉堂は点景人物を効果的に配することが上手だったそうだ。たしかに。
湖畔墓雪 広重の風景画みたいに。
遠雷麦秋 雷雨の到来を予感させる、天に動きのある風景。
雨後山月 墨絵のような。月がぽっかり。
早乙女 山種の玉堂といえばこの絵。 戦時中、疎開先の青梅で描いたとのこと。戦後もここに住んだ。玉堂美術館はまだ行っていない。折りをみて、訪ねてみよう。
そして、第三章 玉堂のまなざしへと。
動物へのまなざしを最後に。
ほっとするような絵ばかりで、のんびり過ごしてきた。
まず、少年時代。15歳の写生帖などがいくつもみられる。栴檀は双葉より芳しのたとえ通り、みごとな筆使いに、観客はみな、ほーと驚きの声を上げる。そして、22歳頃から57歳位までの青壮年期までの作品が、第一章研鑽の時代で括られる。この間、25歳のとき橋本雅邦に従い日本美術院に参加、その後、美術院の要職を経て、東美校の教授になったのが42歳。各種展覧会の審査員を務め、フランスやドイツから勲章授与されるなど、順調な社会生活を送ってきた。その頃の作品をいくつか。
15歳の写生図
鵜飼(1895、明26)第4回内国勧業博覧会に出展。賞をもらう。このとき出展されていた橋本雅邦の作品に深い感銘を受け、翌年、入門する。鵜飼をテーマにした絵は、その後、たくさん描いている。
小松内府図(1899)玉堂としては珍しい歴史画。父、清盛を諫めにきた烏帽子の重盛と鎧の弟宗盛の緊迫した対面。
紅白梅 光琳の紅梅図を意識しているのがわかる。琳派風の絵が他にもある。
そして、60歳位を過ぎてから、第二章 玉堂とめぐる日本の原風景に。これぞ、玉堂という作品ばかりどれも味があるが、自選でいくつか。ここの図録は、重たいものが嫌いなぼく向きにできているので、即購入(笑)。写真は図録から。
山雨一過 玉堂は点景人物を効果的に配することが上手だったそうだ。たしかに。
湖畔墓雪 広重の風景画みたいに。
遠雷麦秋 雷雨の到来を予感させる、天に動きのある風景。
雨後山月 墨絵のような。月がぽっかり。
早乙女 山種の玉堂といえばこの絵。 戦時中、疎開先の青梅で描いたとのこと。戦後もここに住んだ。玉堂美術館はまだ行っていない。折りをみて、訪ねてみよう。
そして、第三章 玉堂のまなざしへと。
動物へのまなざしを最後に。
ほっとするような絵ばかりで、のんびり過ごしてきた。