京男雑記帳

洛中で生まれ育った京男が地元視点で見た日常風景や話を雑記的に掲載

東福寺五社成就宮「魔王石」

2010年06月05日 05時35分56秒 | 社寺

↑東福寺三門

三門の側にひっそりと五社大明神というのがある。
お寺に鳥居とか神社というのは不思議でしょ。





この五社大明神は、東福寺の鎮守社として石清水八幡(いわしみずはちまん)、賀茂、稲荷、春日、日吉の五社を祀るので五社明神社という。
もとは法性寺(925年摂政であった藤原忠平の創建の総社)であって、摂政忠道在世頃はその祭礼を総社祭と称し、祇園会に匹敵するほどの賑やかさであった。
総社祭は東福寺の鎮守社になってからも引き続き行われ、寛元元年(1243)8月22日には九条道家をはじめ右大臣実家が参列したという。
今は毎年11月の第二日曜日にお火焚祭が催され、家内安全、無病息災、商売繁盛、学業上達の祈願を行っている。
と説明されています。





明神(みょうじん)とは、日本の神道の神の称号の一つ。
吉田神道で神号として用いられる。豊臣秀吉の「豊国大明神」が有名。
「明神」とは、神は仮の姿ではなく明らかな姿をもって現れているという意味。
それに対し、仏教系の山王一実神道で神号として用いられる権現(ごんげん)は、「神が権(かり)に現れる」、また「仏が権(かり)に神の姿で現れる」という意味である。徳川家康の「東照大権現」が有名である。





要するに明神や権現、天神とかは、元権力者を神様とダブらせて祀っている状態なんだろうか。
いまの権力者は少なくとも神や仏にはなれないかも。


↑十三重石塔(重要文化財)当寺創立祈願の為建立。

魔王石が傍にあるこの塔は、かっては「比良山明神塔」と呼ばれていた。
魔王石と、この塔は一組の様な物である。
東福寺を建立しようとした九条道家が、病にかかった折に、藤原の先祖と名乗る比良の魔王が家来の女房に降りてきて、道家に祟っている怨霊の素姓、その鎮魂の方法を魔王に教えられ病が治ったそうです。



魔王というても西洋のサタンという存在ではない。
古来日本の場合は、人間を導く善とか、誘惑し堕落させる悪とか分けないのです。
仏教的にいうたら「縁」に触れるとエネルギーは、「悪」でも「善」にでもなる。だからエネルギーに「善」「悪」はない。
人間というものはそういう存在。
本来は、善悪などないのです。
わかりにくいかな・・・
包丁は、料理に使えば美味しい料理を作れる「善」。
人を刺せば「悪」となります。包丁そのものには善悪はない。
そんなものじゃないやろか。


↑魔王石

Twitter→@kyo_otoko
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4 コメント

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おはようございます (路渡カッパ)
2010-06-05 11:21:50
善悪に対する考え方は、多くの宗教でもつきつめれば同じような認識に達するのに
宗教の対立や抗争は絶えませんね。
指導者の質?教えより権力の方に走るのかな・・・
>路渡カッパさん、こんにちは (京男)
2010-06-05 12:40:20
たぶん、なにか超自然的、超越的な存在を信じるということでは、同じなんだとおもいます。ただ、人間の悲しさで最後は金か権力の世界になる。宗教というのはそういう性格をもっていますね。信仰はいいけど宗教はもう必要ない時代になってきているかもしれませんね。
こんにちは (すー)
2010-06-05 15:00:43
訪問が遅くなりました。
前々から不思議に思っていました。
>すーさん、こんにちは (京男)
2010-06-05 16:22:28
大きなお寺や神社には不思議な社とかがありますよね。
調べるとドンドン面白くなります。

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