礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

柳田國男、新聞記事の件で「村人に叱られる」

2012-09-22 05:28:13 | 日記

◎柳田國男、新聞記事の件で「村人に叱られる」

 昨日のコラムの最後に、「『村の衆』としては、招いたわけでもない調査団の中心人物から、村の食生活がひどいかのように言いふらされたわけであり、怒り心頭に達したのではないだろうか」と書いた。そう書いてからしばらくして、この部分については、訂正する必要があるかもしれないと感じたので、今日は、そのことについて書く。
 たしかに、村の衆の中には、「村の食生活がひどいかのように言いふらされた」ことを怒る者もいただろう。しかし、その当時、農民がつましい食生活を送っていたことは周知のことであり、それ自体は恥ではなかったのではないかと思い直した。むしろ、朝夕、白米のご飯を炊き、旬の野菜を提供している善意を踏みにじられたことに対して、村の衆は怒ったのではないか。
 参考までに、『相模湖史 民俗編』(相模原市、二〇〇七)が、調査団の生活について記している部分を引用する。なお、毎度引用しているこの本は、内郷村村落調査についての記述が充実している。編集にあたったのは、すでに述べたように、民俗学者の倉石忠彦氏および小川直之氏である。

 正覚寺での生活は、寝具の片付け、部屋掃除、茶器の上げ下げ、戸締まりまで、すべて自分たちで行い、柳田は「自宅でかくまで働いたら細君定めし満足だろう」などといって笑われることもあった。食事の内容は、初めは麩とカボチャだけだったが、各自が持参したものを出し合ったり、またわざわざ手打ソバを打ってくれたり、アユの塩焼き、小麦の饅頭を用意してくれるなど、当地ならではのご馳走も出たと記されている。

 この記述は、小田内通敏の「内郷村踏査記」に基くものとあるが、原文は未確認。「内郷村踏査記」は、『都会及農村』第四巻第一一号(一九一八年同年一一月)に掲載された内郷村村落調査関係の文章のひとつである(以前にも引用した)。
 こうした記述を見ると、村の衆は、都会の紳士たちを気遣い、それなりのホスピタリティを示していることがわかる。おそらく柳田には、そうした善意が通じなかったのであろう。いや、多少は通じていたのかもしれないが、新聞記者を前にすると、そうした善意を忘れ、つい話をおもしろくしてしまったといったあたりか。
『定本柳田國男集』別巻第五(筑摩書房、一九七一)の「年譜」(鎌田久子執筆)の「大正七年」の項には、「八月十五日~二十五日、神奈川県津久井郡内郷村の調査をする。食事は『麩と南瓜の一週間〔ママ〕』と新聞記事になり、村人に叱られる」とある。同年譜では、この村落調査に関する記述は、わずかこれだけである。柳田の生涯において、かなり大きな出来事であったはずのこの村落調査についての年譜のコメントが、「村人に叱られる」だけというのも妙なものである。ということは恐らく、「村人に叱られ」た一件が、柳田にとって、かなり印象的な記憶になっていた事実を反映しているのであろう。
 それにしても、柳田は、どういう形で「村人に叱られ」たのだろうか。あるいは、柳田が、村人に叱られたことに関する文章や資料が、どこかに残っているのだろうか。
 と、ここまで書いたところで、インターネット上に、興味深い記事を見つけた。この記事は、神奈川県立津久井高校の菅野守先生が書かれたもので、柳田國男の作とされる「山寺や葱と南瓜の十日間」は、実は、柳田の作ではなかったという画期的にして魅力的な新説が説かれている。
 ということで、次回はその新説のご紹介。そのあとは、すこし他に話題を振り、もう一度、内郷村の話に戻る予定です。

今日の名言 2012・9・22

◎愚者は自分の経験に学び、賢者は歴史に学ぶ

 ドイツ帝国の初代宰相ビスマルクが、「こんな趣旨の警句」を残しているという。本日の日本経済新聞「真相深層」欄より(秋田浩之編集委員執筆)。同欄の本日のテーマは「危機対応、歴代政権に学ぶ」である。

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