礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

春日政治博士の「かながきのすすめ」(付・頭痛薬「ピカドン」)

2012-09-25 05:53:48 | 日記

◎春日政治博士の「かながきのすすめ」

 春日政治〈カスガ・マサジ〉博士の『国語叢考』という本については、今月九日のコラムで取り上げたが、今日は同書中の一篇「手だて と 目あて」を紹介してみたい。全体でも四ページほどの短い文章だが、紹介するのはその後半の二ページ分である(二三〇~二三一ページ)。

 これも江戸じだいの心学者柴田鳩翁〈キュウオウ〉という人の話をあつめた鳩翁に次の話がある。
 むかし京郡に今大路なにがしといふ名高い医者があつた。ある時くらま口といふところの人がくわくらん(漢字で霍乱と書き、急性の陽カタル)の薬をつくつて売りひろめるため、看板をこの今大路先生におねがひして書いてもらつた。先生はその看板にかなで「はくらんのくすり」と書かれた。そこで頼んだ人が「先生これはくわくらんの薬ではござりませんか。なぜはくらんと書かれましたか。」ととがめると、先生笑つて「くらま口はざいしよから京への出入口で、ゆききの人はみな百姓や木こりばかりだから、「くわくらん」と書いてはわからない。ざいしよ言葉で「はくらん」と書いてこそ通用はする。たとへまことであらうと、わからなくてば役に立たない。「はくらん」と書いても、薬さへ売れて、それがよくきいたらよいではないか。」とおつしやつた。
 今大路先生のこの言葉は、さすが名高い医者といふだけあつて、まことにおもしろい。なるほど看板は手だてであつて、薬を売るのが目あてである。多くの人はこの手だてと目あつてとをまちがへてゐる。そのてんから文といふものは、だれにも通用する言葉をなるべくたやすい文字で書くべきことは論のないはずである。
 子どもは小学校へ出ないうちに、かな文字五十くらゐはたやすく覚えて、かなだけの文字ならば、読みもし、もしそれが話言葉であり、発音どほりの書き方であるならば、読んで意味をとり、書いて自分の考へをあらはすことのよほど自由なのは、我々が実際見てゐることである。自分はかかる子どもを見るたびに、つくづく思ふ、この上何をくるしんで、かなづかひなどを教へようか、さらに漢字などを教へようか、さらにさらに文語などを教えへこまうかと。この上かなづかひを教へるといふことは、自然をしひて不自然にすることではなからうか、正しいものを無理やりに乱すことではなからうか、手がるなものを好んでめんだう〔面倒〕にすることではないだらうかとさへ思ふ。自分はたつとい〔尊い〕子どもたちの頭を手だて(目あてのない)のためにくるしめることをむしろむごたらし思ふものである。
 くりかへしていふが、文は手だてである。目あてではない。手だてである以上、一ばん書きやすく、一ばん讃みやすく、したがつて一ばん習ひやすく、一ばん手びろく通用しやすいものでなくてはならない。かう考へてくると、つまり文の言葉は話言葉、文字は、音をしめす文字、しかもそれを発音どほりに書かなくてはならない。(大正十一年十二月、かながきのすすめ)

 この文章を読むかぎり、春日政治博士は、かながき論、漢字廃止論の立場に立っていたと思われる。この文章のタイトルが「手だて と 目あて」と、わかち書きされているのは、かながき論の立場から、あえてそうしているのであろう。
 末尾に出典として示されている「かながきのすすめ」というのは、中村春二〈ハルジ〉編の『かながきのすすめ』(成蹊学園出版部、一九二二)のことと思われるが、未確認。
 それにしても、この文章は非常にわかりやすく、読みやすい。この時代、こうした平易な表現によって、「かながきのすすめ」が説かれていたことを、私たちは、もう少し注目してもよいのではないだろうか。

今日の名言 2012・9・25

◎ピカドンで頭痛忘れて玉の汗

 1949年1月13日の愛媛新聞に載った「あとむ製薬」(広島市十日市町)の新聞広告。「ピカドンで・・・」は、同広告に採用された川柳(佳作二位)。「ピガドン」は、同社が発売していた健腕頭痛薬の商品名である(「健腕」は腕っぷしが強いの意)。占領下の情報統制で、報道機関は原爆の怖さを伝えず、むしろ原子力を賛美する報道が増えていたという。本日の東京新聞「特集」より。

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明治大正における警察犬導入の失敗と日本人の「犬」観

2012-09-24 05:02:51 | 日記

◎明治大正における警察犬導入の失敗と日本人の「犬」観

 江口治『探偵学体系』の七六一ページには、「過去に於ける我が国の警察犬の訓練は失敗の歴史でありました」とある。明治の末年以降、警視庁がコリー、エアデールテリア、ブラッドハウンド、ウルフドッグなどの犬種を使って訓練をおこなっていたが、大成の見込みがなく、一九一九年(大正八)に廃止されたという。同書の著者・江口治(警視庁前警視)は、この廃止時代に、警察犬関係の責任者であった。
 この『探偵学体系』という本は、一九二九年(昭和四)に刊行されているが、この時点でも、警察犬制度は復活していなかった。このことは、江口が、「再び創設せられねばならぬ」と力説していることでわかる。
 さて、同書で興味深いのは、過去に警察犬の導入が失敗した背景について、一種の文化論的な考察をおこなっていることである。この種の議論は、まずほかでは見かけないと思うので、以下に引用してみたい(七六一~七六三ページ)。

 日本人が動物を可愛がらぬ国民であると云ふ評判は、遺憾乍ら〈ナガラ〉慥かな〈タシカナ〉事実であります。併し多くの人は夫れ〈ソレ〉が何んで遺憾であるか、人間の間にすら必ずしも相愛の実〈ジツ〉が挙らないのに、何の遑〈イトマ〉が有つて犬などを問題にするかと云ふ様な意見を持つた人は可なり多い様であります、物を云ひ得ぬ可憐〈カレン〉の動物を、斯〈カク〉の如く冷遇する吾人〔わたしたち〕の習性は何処〈ドコ〉から来たのでありませう。或る人は日本人は遊牧生活をした歴史を持たぬ故に、動物に対する情味を解せないのであらうと云ふ説明をしました。成る程草地〈ステップ〉が乏しい為昔から牧蓄も余り盛んであるとは云へず、又太古に於て遊牧の経験も持たぬとすれば、先づ民族としては大体に於て動物とは縁の薄い方で有ると云へませう。そう云へば動物に不親切な我国の中でも、現に牧畜の盛んな地方では、多少一般畜類に対する態度が違ふ様にも思はれます。兎に角〈トニカク〉吾人の祖先は魚類や植物を主要食物として来た為、畜類と兄弟分に成つて暮す必要が無く自然吾人の血の内には、動物に対する深い愛着性を貯へて居ないと見る外は有りますまい。
 我国に於ける警察犬の不成績は、前に述べました様に創始方法の不適当で有つた事も一つの原因でありますが、もつと重大で根本的である問題は、人間と動物の親しみの薄い事であります。先年北清事変〔義和団事件〕の時、外人が日本の騎兵は馬によく似た猛獣に騎つて〈ノッテ〉居ると許したと云ふ事ですが、之が吾人の対動物態度の全体を顕はして〈アラワシテ〉居るのでは有りますまいか。小児は路上に繋いだ牛や馬に礫〈ツブテ〉を投げつけ、棒切れで打つのを遊戯の一つと心得て居り、犬などは小児の唯一の虐待の対象になつて居ます。そして彼等は夫れが牛であり馬であり犬である事実の為に、虐待せらるべき理由が充分に在る様に考へて居ます。そして左様な〈サヨウナ〉小児の育つたのが吾人なのであります。犬を虐待して置いて犬から公安を守つて貰はふ、警察の仕事の一部を手伝つて貰はうと云ふのは、考へて見れば随分虫の宜い〈ヨイ〉事であります。
 物を言はない動物にも仲々微妙な感情の動きがあります。吾人の大部分は夫れに対して何の同情も理解も持ちません。故に犬に取つては人間はまあ大体「タイラント」〔暴君〕の群であると云つて宜しい〈ヨロシイ〉のであります。そして畜犬と云ふのは、貰つて来たか或は台所へ度々訪問して来るので、犬公方様〈イヌクボウサマ〉流の不合理な愛憐〈アイレン〉を起し、届けて税金〔蓄犬税〕を払つて遣る〈ヤル〉と云ふ様な人が大多数であります。ですから畜犬でも少しも躾〈シツケ〉の無いものが大多数であります、こんな有様故〈アリサマユエ〉雑種は出来次第で、犬は大抵〈タイテイ〉は貰ひ食ひで路上に其の日を募す、家畜でも無ければ夫れかと云つて野獣でもない一種の浮浪動物であります。其の点から見ますと犬の大多数は実体的には野犬と畜犬の区別が無く、只税金の払ひ手の有るのが畜犬と云ふ丈け〈ダケ〉でありますから、仕舞〈シマイ〉には畜主自からの消極的態度が、犬を警察へ引き渡さねばならぬ様な猛獣に仕上げて仕舞ふのであります。過去に於て恐らくは犬種の改良一つすら遣つた事のない国で、外国の犬を傭つて来て探偵をさせると言つたら、日本の犬は吹き出さずに居られないでありませう。
 狂犬以外の犬が何故に人間に咬み付くか、犬に咬み付かれる為其の人間が犬に何をしたか、又他の人間が常にどう云ふ仕向け〔あつかい〕をしたか、そんな事は一切問題にならす、犬は犬で有るが故にどんな目に遭はしても好いと考へる国、夫れを飼つて遣りさへすれば、主人の無躾〈ムシツケ〉の為どんな悪犬に成つても、自分の無慈悲からで有ると思うはぬ国民、其んな国に渡つて来た外国犬が、無埋解な之等の人々の為猛烈に退化し、今日の様な地犬〈ジイヌ〉の出来たのも偶然ではありません。斯かる〈カカル〉状況では仲々優良な犬が出来る筈は有りますまい。故に警察犬を飼養するにはせめて警察界丈けでも、今少し犬に理解を持つ必要が有りませう。

 この『探偵学体系』という本は、警察の捜査技術についての解説書であるが、「犬」をめぐるこの日本人論、日本文化論は、そういったこの本の制約を打ち破っており、傾聴に値すると考える。
 なお、私は、昭和三〇年代に東京の郡部で少年時代を送ったが、その当時の「犬」が置かれていた環境は、江口が描写していたものと大差なかった。つながれている犬というものはほとんどなく、またどの犬もよく人(特に子ども)を噛んでいたことを思い出す。

今日の名言 2012・9・24

◎日本の騎兵は馬によく似た猛獣に騎つて居る

 義和団事件(1900)の際、外国人が日本の騎兵を評した言葉。江口治『探偵学体系』(松華堂書店、1929)の762ページにある。上記コラム参照。義和団事件というのは、義和団・清朝軍と日本を含む列強八か国との間の戦争。映画『北京の55日』(1963)は、この事件を題材にしたもの。

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柳田國男の句「山寺や葱と南瓜の十日間」をめぐる菅野守氏の新説

2012-09-23 07:28:55 | 日記

◎柳田國男の句「山寺や葱と南瓜の十日間」をめぐる菅野守氏の新説

 神奈川県立津久井高校の菅野守先生の論考「資料室の『お宝』2-鈴木重光新聞スクラップ『大正七年』版」は、相模原市津久井郷土資料室のホームページにある。そこに、「山寺や葱と南瓜の十日間」という句についての新説が提示されていることについては、昨日紹介した通りである。
 菅野先生の新説はきわめて独創的なものだが、それについては最後に紹介することとし、まず、菅野論考が引用している重要な資料数点を紹介しておきたい。
 菅野先生によれば、相模原市津久井郷土資料室には「鈴木スクラップ」と呼ばれるスクラップ帳があるという。これは、内郷村出身の郷土史家で、『相州内郷村話』(郷土研究社、一九二四)の編者として知られる鈴木重光が作ったスクラップ帳で、正式には、「新聞切り抜き帖 大正7年版」という名前のものらしい。そこには当然、内郷村村落調査関係の新聞記事が貼り込まれているわけだが、中でも注目されるのは、東京日日新聞一九一八年(大正七)八月二七日の「余録」欄に載ったという次の記事である。

 ▲柳田書記官長□〔一字不明〕始め十人許り〈バカリ〉の学者連が此程〈コノホド〉神奈川県の片田舎に農村研究に出掛けた一行或〈アル〉養蚕村に落付くと寺に本拠を構へて村の田吾作連〈タゴサクレン〉を相手に研究に執りかかると時恰も〈トキアタカモ〉米騒動が起つて村の米が段々心細くなり▲中には『都の学者先生も有難いが十人もの人に十日間も居喰ひ〈イグイ〉されては今に村の者が干乾〈ヒボシ〉になる』と心配した老人もあつたと

 田吾作という言葉は、近年あまり聞かなくなった言葉だが、農民に対する蔑称である。田吾作連の連は、連中〈レンジュウ〉の意味である。この田吾作連という言い方も酷いが、都の学者先生が十日間滞在したので、村が干乾しになる(食べ物がなくなる)という言い方も、村を馬鹿にしている。
 この記事には、村民も激怒したものと思われるが、それ以上に激怒したのが柳田國男だったらしい。
 東京日日新聞は、柳田の抗議を受け(菅野論考による)、八月二九日の「余録」に六行の謝罪文を掲載したという。この謝罪文は、鈴木スクラップにあるというが、菅野論考は、そのままの形では引用をおこなっていない。
 この「筆禍事件」と関連する資料がある。これも、菅野論考に引用されている資料だが重引させていただく。すなわち、『柳田国男と民俗の旅』の著者である松本三喜夫氏が、一九八九年一一月に、正覚寺住職の山田亮因師(当時八〇歳)に対してインタビューをおこなった際のやりとりである。

松本 柳田の俳句「山寺や葱と南瓜の十日間」が、何か新聞記者に洩れ、村の人に大目玉を食ったとか聞いているんですが。
山田 それはよく知らないがね。こころあるというか、この土地に育った成人の人たちからみれば、あんまり稗飯〈ヒエメシ〉はうまくないし、宣伝するほどじゃあないしということかも。新聞は、私の母のいうことには、当時の『日々新聞』か、『貿易新聞』だか、何か今でいえば天声人語のああいうところに出たらしいね。『東京日々』に、『神奈川新聞』なら当然神奈川のことだから出ても差し支えないが、それはあんまり葱とか南瓜とかで十日間過ごしたというんじゃ、この村では稗でも食べているらしいとみられては、何で〈ナンデ〉。

 松本三喜夫氏は、九月五日の東京朝日新聞に載った柳田國男の発言(麩と南瓜の十日間)を問題にしようとしているのに対し、山田師のいう「私の母」の話は、明らかに八月二七日の東京日日新聞に載った「余録」の記事(村の者が干乾になる)のことである。これでは話が噛み合うはずがない。
 それにしても不思議なのは、八月二七日の東京日日新聞の「余録」に抗議したとされる柳田國男が、なぜ、九月五日の東京朝日新聞では、「麩と南瓜の十日間」というような不用意な発言をしたのかということである(おそらくこれまで、こういった形での問題提起は、なされてこなかったのではないだろうか)。
 ここでまた、菅野論考から資料を重引させていただく。山田亮因の「あれも先生、これも先生」という文章の一部である(長谷川一郎先生記念祭実行委員会編『石老の礎』一九六五、所載)。

 私の寺へ、こうした偉い人が泊まることは、私の母などはあまり気が進まなかったそうだが、長谷川〔一郎〕先生のいうのに「なアに、東京でショッチュウうまいものを食べている人達だ。飯と汁と漬物だけで、あとは向うで、どんなうまいものでも用意して来るから・・・。」というような簡単なことで、寺に泊ることを承知したのだという。(中略)文字通りの「飯と汁と漬物」の十日間だとあって、寺を引揚げ後の新聞に発表された、柳田国男先生の記事に「山寺や葱とかぼちゃの十日間」の句が載っていた。いつもこれで大笑いの長谷川先生であった。

 菅野守先生の注によれば、この文章を発表した当時、山田師は五六歳、内郷村調査当時は九歳で、尋常小学校三年生だったという。
 この山田師の証言は重要である。長谷川一郎(内郷小学校校長)は、新聞に載った柳田の発言(麩と南瓜の十日間)を読んで、「大笑い」したというのである。
 調査団の受け入れにあたって中心となった長谷川校長は、なぜ柳田の発言に怒らなかったのか。なぜ、当惑しなかったのか。なぜ「大笑い」する余裕があったのか。
 いろいろ考えた末、次のように考えるほかないという結論に達した。
 柳田國男は、長谷川に村落調査を申し入れた際、「寝具食料の如きも、中々御地にてととのはぬものは全部持参差支へなきに付」、「小生始め何れも如何なる不自由にも耐へ得る筈」という言質を与えていた(このことについては、以前紹介した)。当然、長谷川はこれを関係者に伝えていたはずであるし、そのことを聞いていた一般村民も少なくなかったであろう。受け入れ側としては、「飯と汁と漬物だけ」で十分という認識であり、そのことに対しては、調査団からの苦情は受けないという了解ができていたと思われる。もちろん、柳田ら調査団の面々も、食事のことで苦情を申し入れるわけにはいかなかった。多分、調査団の面々は、稗飯が出されたとしても文句は言えなかったはずである。一方、長谷川校長はじめ村の関係者は、紳士連中がいつ音を上げるか、楽しみに見守るといったところだったのではないだろうか。
 柳田らは、それでも十日間はなんとか我慢した。しかし、帰京後、ついに本音が出た。それが、「麩と南瓜の十日間」である。だからこそ、長谷川校長は、これを読んで「大笑い」したのである。やはり無理をしていたのかと。ただし、「村の衆」すべてが、「麩と南瓜の十日間」の記事を、そのように受けとめたかどうかは不明である。
 いずれにせよ、この柳田の発言は、受け入れにあたった村の関係者にとっては、素直な「敗北宣言」に聞こえたはずである。ということになると、正覚寺の「山寺や葱と南瓜の十日間」の句碑は、村の関係者の「勝利宣言」ということになる。この句碑は、正覚寺住職を初めとする村の関係者が、みずからの意思で建てたものであろう(ただし、村人の総意を代表しているとまでは言えないように思う)。
 さて、菅野守先生の新説は、「山寺や葱と南瓜の十日間」という句自体が、柳田國男の句ではなく、「内郷村民」が柳田に仮託して作った句というものである。以下は、その結論部分である。

 注目すべきは、東京朝日新聞の「麩と南瓜の十日間」と正覚寺前住職山田「あれも先生」の「いつもこれで大笑いの長谷川先生であった」である。「麩」を「葱」に変え、「山寺や」を追加すれば、「五七五」の俳句が完成する。筆者の大胆な「憶測」によれば、発句したのは「長谷川先生(長谷川一郎)」あるいはその近辺だろう。「楽と苦の 長の旅路や喜寿の春」とは、前掲、長谷川「内郷村共同調査の思い出」掲載の「発句」である。筆者の「憶測」が正しければ、正覚寺「柳田句碑」は、郷土会と白茅会による「日本初の」村落調査という、津久井地方の一大イヴェントが生み出した民俗的記念碑といえよう。発句は、「貴族院書記官長にして学者」柳田のものではなく、「内郷村民」の発句としたい。正覚寺の「俳句寺」としてのレーゾンデートルはそこにあると考える。その証拠に「俳句寺」正覚寺に「奉納された句碑は二百六基を数える」(前掲、前川〔清治〕『津久井〔歴史ウォーク〕』)という。「柳田」発句から実に壮大な「俳諧」を形成していることになる。以上の「憶測」に関する識者のご意見、情報をお待ちする次第である。

 十分ありうることだと思う。地元の研究者でなくては、考えつかない大胆にして説得力のある新説である。
 今日のコラムに記した礫川説は、菅野論考に引用されていた資料を読み、菅野先生の新説の刺激を受けて思いついたものである。ただし、「勝利宣言」云々の解釈は、礫川が勝手に付け加えた臆説である。

今日の名言 2012・9・23

◎むらがりていよいよ寂しひがんばな

 日野草城の俳句。本日の東京新聞「筆洗」より。東京新聞の「筆洗」は、毎日新聞の「余録」や朝日新聞の「天声人語」に相当するコラムである。

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柳田國男、新聞記事の件で「村人に叱られる」

2012-09-22 05:28:13 | 日記

◎柳田國男、新聞記事の件で「村人に叱られる」

 昨日のコラムの最後に、「『村の衆』としては、招いたわけでもない調査団の中心人物から、村の食生活がひどいかのように言いふらされたわけであり、怒り心頭に達したのではないだろうか」と書いた。そう書いてからしばらくして、この部分については、訂正する必要があるかもしれないと感じたので、今日は、そのことについて書く。
 たしかに、村の衆の中には、「村の食生活がひどいかのように言いふらされた」ことを怒る者もいただろう。しかし、その当時、農民がつましい食生活を送っていたことは周知のことであり、それ自体は恥ではなかったのではないかと思い直した。むしろ、朝夕、白米のご飯を炊き、旬の野菜を提供している善意を踏みにじられたことに対して、村の衆は怒ったのではないか。
 参考までに、『相模湖史 民俗編』(相模原市、二〇〇七)が、調査団の生活について記している部分を引用する。なお、毎度引用しているこの本は、内郷村村落調査についての記述が充実している。編集にあたったのは、すでに述べたように、民俗学者の倉石忠彦氏および小川直之氏である。

 正覚寺での生活は、寝具の片付け、部屋掃除、茶器の上げ下げ、戸締まりまで、すべて自分たちで行い、柳田は「自宅でかくまで働いたら細君定めし満足だろう」などといって笑われることもあった。食事の内容は、初めは麩とカボチャだけだったが、各自が持参したものを出し合ったり、またわざわざ手打ソバを打ってくれたり、アユの塩焼き、小麦の饅頭を用意してくれるなど、当地ならではのご馳走も出たと記されている。

 この記述は、小田内通敏の「内郷村踏査記」に基くものとあるが、原文は未確認。「内郷村踏査記」は、『都会及農村』第四巻第一一号(一九一八年同年一一月)に掲載された内郷村村落調査関係の文章のひとつである(以前にも引用した)。
 こうした記述を見ると、村の衆は、都会の紳士たちを気遣い、それなりのホスピタリティを示していることがわかる。おそらく柳田には、そうした善意が通じなかったのであろう。いや、多少は通じていたのかもしれないが、新聞記者を前にすると、そうした善意を忘れ、つい話をおもしろくしてしまったといったあたりか。
『定本柳田國男集』別巻第五(筑摩書房、一九七一)の「年譜」(鎌田久子執筆)の「大正七年」の項には、「八月十五日~二十五日、神奈川県津久井郡内郷村の調査をする。食事は『麩と南瓜の一週間〔ママ〕』と新聞記事になり、村人に叱られる」とある。同年譜では、この村落調査に関する記述は、わずかこれだけである。柳田の生涯において、かなり大きな出来事であったはずのこの村落調査についての年譜のコメントが、「村人に叱られる」だけというのも妙なものである。ということは恐らく、「村人に叱られ」た一件が、柳田にとって、かなり印象的な記憶になっていた事実を反映しているのであろう。
 それにしても、柳田は、どういう形で「村人に叱られ」たのだろうか。あるいは、柳田が、村人に叱られたことに関する文章や資料が、どこかに残っているのだろうか。
 と、ここまで書いたところで、インターネット上に、興味深い記事を見つけた。この記事は、神奈川県立津久井高校の菅野守先生が書かれたもので、柳田國男の作とされる「山寺や葱と南瓜の十日間」は、実は、柳田の作ではなかったという画期的にして魅力的な新説が説かれている。
 ということで、次回はその新説のご紹介。そのあとは、すこし他に話題を振り、もう一度、内郷村の話に戻る予定です。

今日の名言 2012・9・22

◎愚者は自分の経験に学び、賢者は歴史に学ぶ

 ドイツ帝国の初代宰相ビスマルクが、「こんな趣旨の警句」を残しているという。本日の日本経済新聞「真相深層」欄より(秋田浩之編集委員執筆)。同欄の本日のテーマは「危機対応、歴代政権に学ぶ」である。

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山寺や葱と南瓜の十日間(柳田國男の俳句)

2012-09-21 04:55:07 | 日記

◎山寺や葱と南瓜の十日間(柳田國男の俳句)

 柳田國男が、この内郷村調査を終えての帰路に詠んだ句として、「山寺や葱と南瓜の十日間」というものが知られている。宿舎となった正覚寺には、今日、その句碑があるという(『相模湖史 民俗編』による)。
 柳田にとって、調査中の食事は、かなり印象に残ったもようである。というのは、朝日新聞の記者に対しても、村での食事のことを語っているからである。一九一八年(大正七)九月五日の東京朝日新聞記事を引用してみよう。この記事は、『相模湖史 民俗編』(相模原市、二〇〇七)の四三二ページに影印で紹介されている。記事の見出しは、「麩と南瓜の十日間」である。

 ●麩と南瓜の十日間
 =内郷村へ研究に行つた
郷土会の御連中帰京す=
▽村の衆を驚かせながら
▽出来上つた立派な地図
 相模川の上流に当る神奈川県津久井郡内郷村に学者達が大勢行く事になつたといふ噂はかなり村の衆を驚かせた、それは新渡戸博士等の郷土会が此の
▲夏期休暇を 利用して総ゆる〈アラユル〉方面から村の研究をする為の先づ此の内郷村を選んだ事であつた、学者達の一行は三宅驥一、草野俊一博士、柳田〔國男〕貴族院書記官長、中桐〔確太郎〕早大教授、石黒〔忠篤〕、小平〔権一〕両商農務事務次官、正木〔助次郎〕東京府立三中教諭、田村〔鎮〕陸軍技師等〈ラ〉各方面の専門家であつて夫々〈ソレゾレ〉得意の研究準備を整へて村に行つたのは去る八月十五日であつた『何様
▲初めての事 だから村ではお奉行様御巡視と云つた調子に我々の出張を印象したらしかつた』と是は柳田氏のお話である、処が実際村に着いて正覚寺の本堂に陣を構へた此の一行は毎日朝は露を踏んで夕は星を戴く迄村の小道や小川や林を尋ねて全で〈マルデ〉お宝でも探す様に石塊〈イシコロ〉一つも見落すまいと云ふ熱心さに村の衆は再度吃驚〈キッキョウ〉の声を放つたらしい、『此の様に愉快に隔て〈ヘダテ〉の無い
▲学生時代の 様な旅行をしたのは十何年振り〈ブリ〉だつたでせう……随分遠慮の無い激論も戦はせるし喜劇もあつたのですよ』柳田氏は愉快な笑顔に崩れて『最初食べた物は皆お向ふにまかせ切りにしたのですね処が恰度〈チョウド〉南瓜〈カボチャ〉の好い時季なのです最初の晩飯に出たのが麩〈フ〉に南瓜のお汁です何しろお腹〈ナカ〉が好く空いてゐるから美味しい〈オイシイ〉のです、処が其翌朝〈ヨクチョウ〉もやつぱり麩と南瓜又其晩も麩と南瓜そして其翌朝も麩と南瓜それから
▲何でも豆腐 と南瓜になりましたがね――それやお腹が空いてるからおいしいにはおいしいんです――何しろ東京ではかなり紳士生活の連中ばかりですから好い修養になつたでせうよ』此処〈ココ〉迄話を持つて来た柳田さんはホツとした様な顔をする『夫〈ソレ〉から議論もよく起つたが或る時は村を貫いてる川は自然の流れであつて其岸に村が出来たといふ説と村に
▲便利の為め 水を其処〈ソコ〉に引いたのだといふ説が出て大いに論じたが果し〈ハテシ〉が無いので翌日皆で其川に行つて見る、又論じるといふ調子で未だに釈然とせぬのもある、然し十日間で立派な村の地図も出来たから紙価でも安くなつたら印刷にして村へ土産〈ミヤゲ〉に贈らうといふ話も出てゐる』と

 おそらく柳田は、新聞記者を喜ばせるために、あえて話をおもしろくしたのだろうが、それにしてもこれは、配慮に欠けた発言だった。特に、「好い修養になつた」という言い方がきつい。「村の衆」としては、招いたわけでもない調査団の中心人物から、村の食生活が、いかにも貧しいように言いふらされたわけであり、怒り心頭に達したのではないだろうか。【この話、さらに続く】

今日の名言 2012・9・21

◎ハルノユキヒトゴトナラズキエニケリ

 作家・久米正雄が詠んだ俳句。親しかった随筆家・高田保〈タカダ・タモツ〉の死を知った久米が、弔電として送ったものという。発信人名は「クメマサヲ」。その久米も病床にあり、高田の死は「ヒトゴト」ではなかった。昨20日の東京新聞夕刊「続・百年の手紙」(梯久美子執筆)より。高田保の死は、1952年2月20日、久米は、その10日後の3月1日に亡くなった。久米正雄の忌日を三汀忌という。久米はその若き日、斬新な句風の俳人として知られていた。三汀は久米の俳号。

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