礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

古畑種基と血液型の遺伝法則

2012-06-01 05:44:25 | 日記
◎古畑種基と血液型の遺伝法則
 
 古畑種基という人物については、数日前のコラムで触れたが、もう少し、この人物について述べてみよう。
 三省堂の『大辞林』は、古畑種基について、次のように述べる。

―ふるはた-たねもと【古畑種基】(一八九一‐一九七五) 法医学者・血清学者。三重県生まれ。東大教授・警察庁科学警察研究所所長などを歴任。帝銀事件・下山事件など第二次大戦後の難事件の鑑定にかかわる。―

 簡潔にしてニュートラルな紹介であるが、これだけではもちろん、この人物の実像は捉えられない。
 古畑の著書『血液型の話』に詳しい紹介があるが、ABO式血液型の遺伝法則をめぐる論争に結着をつけたのは、古畑種基らの日本人医学者であった。一九二五年、日本学術協会の第一回総会で、古畑種基・市田賢吉・岸孝義の三人は、連名でひとつの新説を唱えた。結果的には、この新説が世界から認められ、今日、高校「生物」などの教科書に載っている定説となった。
 古畑によれば、当時の血液型研究には、意外な苦労があったという。それは、一般の人が、なかなか採血に応じてくれないことだった。古畑の『血液型を考える』(雷鳥社、一九七二)という本から、少し引用してみよう。

―その当時は、また法医学的に確実な親子鑑定の方法は確立されていなかった。血液型はO、A、B、ABの四型に分類されていた程度で、その遺伝法則が問題とされるに至っていた。私はこれに着眼した。/ところが、血液型研究に欠かせない微量の採血すらむずかしかった。/「血統を調べているのではないか」/「悪い病気がわかってしまう」/などと、一般の人には敬遠され、ついには、/「古畑は、血採りマナコで歩いている」/と評判が立った。親せき縁者やその土地の有力者にたのんで、協力者をさがしてもらうほどであった。―

 そうした苦労の中、古畑・市田・岸の三人は一〇一家族について、両親と子どもの血液型を調べた。古畑は、それらの結果から、「AB型の親からO型の子どもが生まれず、O型の親からAB型の子どもが生まぬ」ことに気づいたという(『血液型の話』二〇ページ)。
 しかし今度は、これをどう合理的に説明すべきかで悩んだ。

―今日では血液型の遺伝は高等学校の学生ならばだれでも知っている。しかし当時はコロンブスの卵同様、血液型の遺伝について知っている人はほとんどいなかった。わたくしは一人で一冊の遺伝の本もなく血液型の遺伝調査をした。知人の家族の了解を得てその血液型をしらべさせてもらって、その表と毎日ニラメッコしながらその合理的解決に日夜苦心したのである。今の若いみなさんには、この当時のわたくしの苦しさを想像することもできないのではないかとさえ思う。あのメンデルが、エンドウについて実験記録をもってその遺伝関係をいかに説明しようかと考えつづけられた苦心はわたくしによくわかる気がしたのである。―

 これは、『血液型の話』二一ページで、古畑が語っていることである。
 こうした苦労・苦心の末、古畑は、「新説」にたどりつく。新説は、古畑・市田・岸の連名で発表されたが、この研究を主導したのは、おそらく古畑であったと思う。その後も古畑は「血液型学」の確立に大きく貢献し、法医学の権威としての地位を固めていったのである。【この話、続く】

今日の名言 2012・6・1

◎かさぶたのぬり絵を三十五種類の赤鉛筆で一晩中塗る

 屋外歌人・青木麦生〈ムギオ〉氏の短歌。今日の日本経済新聞の「文化」欄で紹介されている。「かさぶたのぬり絵」とは何か、「三十五種類の赤鉛筆」とは何か、サッパリわからない。しかし、おもしろい。この短歌は、2011年に松戸市で開かれたアートイベントの際、街路樹に貼られたという。
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