◎「戦ふ科学者」荒川清二医学士と玄米食
昨日の続きである。月刊誌『富士』の一九四四年(昭和一九)一月号から、佐藤通次のエッセイ「戦ふ科学者」を紹介している。本日は、その二回目。
昨日紹介した部分に続き、改行して次のようにある。
荒川〔清二〕君は、昭和十二年〔一九三七〕に大学を出て、伝染病研究所に入ることになりましたが、こゝでは新人の人には俸給を出しませんので、元々豊かでない同君は、はたと生活の問題にぶつつかりました。ところが、日本文化協会で研究生を募集してゐることを知り、こゝに応募したところ幸に合格して、その研究生にして貰ひ、研究費が得られることになりました。そこでは、原則として、一週間に一回集会に出なければならないのですが、伝研〔伝染病研究所〕の仕事に打込んでゐると、どうしても月一回くらゐしか出席出来ません。真面目な荒川君は、協会の方をいゝ加減にやつておいて、給与だけ受けることを甚だ心苦しく思つて、先輩に相談に行きました。するとその先輩は、それなら伝研の勤めだけにして、傍ら診察をしたらどうか、その口なら僕が心配してやつてもいゝ、と言つてくれたさうですが、荒川君の気持としては、自分の生活のために内職をやつては、天子様からお預りしてゐる職務を忽せ〈ユルガセ〉にすることになつて、洵に畏れ多い。といふのでその方は辞退しました。
幸にして既に伝研からは月給五十五円を頂くやうになつてゐたので、これは、五十五円でお前はやつて行けといふ天子様の思召し〈オボシメシ〉なのであるから、これで御奉公して行かうと心に誓ひました。その時、頭に浮んだのは、学生時代に、岐阜県の正眼寺〈ショウゲンジ〉といふ禅宗のお寺で、修行をした折のことです。
この寺は、全国でも一番戒律のやかましい所で、御飯は全部玄米、それに朝は大根葉〈ダイコンバ〉を刻んだものがつき、昼は沢庵、夜は沢庵の外にお汁といふ極めて簡素な食事です。この流儀でやれば、五十五円で食へないことはない、といふ考へで、玄米食を始めたのです。
荒川君は、研究所の仕事に没頭すると、早朝から夜は九時、十時まで研究室で過します。従つて飯を炊きに家〈ウチ〉に帰る時間がありません。そこで主任の矢追〔秀武〕博士に、研究所の瓦斯で御飯を炊くことを願ひ出ました。すると先生は笑つて、そんなにむづかしいことをいふならば、研究所の水でも私用には飲めぬぢやないか、一向差支へないから使ひたまへといはれ、非常に嬉しかつたといひます。かうして研究所の瓦斯で玄米を炊くことを始めました。これによつて更に都合のよいことには、残つて仕事をしてくれる人達にも夕飯を上げて一緒に食事が出来るので、皆の気持が親密になつて仕事の上にも好結果が得られるのでした。しかしあくまでも律儀な同君は、研究所の瓦斯を使はせて貰ふからには、同時に玄米の炊き方、玄米食の研究をもやつて、私用に使ふことを公のために役立てようと志したのです。それから従来のカロリーとか、ビタミンとか、栄養学上の諸問題にも、研究の手を延ばしたのです。
玄米食の功徳
玄米食をやつてみて、荒川君はいろいろ大きな発見をしたのですが、先づ第一に、気力の出ることです。それまでは午後三時頃になると、昼食〈チュウジキ〉をとつてゐるにもかゝはらず、どうも腹が減つて仕事の能率が上がらない。或は睡く〈ネムク〉なるのですが、玄米食にしてから、三時頃から頭がすつきりと冴へ、体の具合がよくなつて来たさうです。夜も今までは晩飯を食べると、気力が抜けてしまつたのが、玄米を食べ始めてからは、すつとなると申します。【以下、次回】
佐藤通次にとって、荒川清二医学士は、デング熱の研究者であるが、同時に、玄米食の実践家でもあった。むしろ佐藤は、後者としての荒川医学士を「戦ふ科学者」として位置づけようとしているらしい。
荒川清二医学士については、まだ詳しくは調べていないが、インターネット上の情報によると、戦後は、医学博士として東京大学医科学研究所に在籍していたもようである。東京大学医科学研究所というのは、伝染病研究所の後進である。
このエッセイは、残りがまだ一ページ分ほどあるが、この紹介は明日。
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