◎戦勝の名誉はその損失に及ばない(墨子)
本日は、時節がら、『墨子』の「非攻」論(反戦論)を紹介することにしよう。引用は、野村岳陽訳著『現代語訳 墨子・揚子』(坂東書院、一九三〇)から。この現代語訳は、なかなか優れていると思う。かな遣いと漢字は、現代風に直した。句読点の位置は原文のまま。ただし、テンをマルに変えたところがある。【 】内は、原ルビを示す。
非攻 中
墨子説いていう。今の王公大人の国家の政拾に携わる者は、皆、その政を執るにあたって、一般民衆の毀誉〈キヨ〉のむかうところをつまびらかに調査し、そのおこなう所の賞罰が事実に該当することに努め、刑政に過失なからんことを熱望している。古語に「何か事を謀って、適当な方法を得なかったら、既往の事実から、将来の情勢を推知し、明白に現れた事実から、隠れたる条理を推知する」とあるが事を謀る時には、すべてこういうふうなれば、必ず、情理に通ずることができるであろう。
現時ややもすれば戦争がおこり、出兵沙汰が絶えないが、冬の出征には寒さにこごえる恐れがあり、夏の出征には暑気にあてられる恐れがある。さすれば、冬にも夏にも、軍は出せないことになる。また、春なれば百姓どもが植え付けをする邪魔になる。秋なれば収穫の妨碍になる。そうすれば春秋にも軍は出せない。今、四季の中の、唯一回農事を廃しても、人民の飢えたり、こごえたりして死ぬ者が無数にできる。その上、出兵の費用を計ってみるのに、出陣の時は、弓・矢・旗・指物〈サシモノ〉・陣幕・甲冑〈カッチュウ〉・楯〈タテ〉等、数を尽して出てゆくが、戦争がすめば、そのまま戦場に朽ちて、もとへかえらないものが、数限りなくある。また、矛〈ホコ〉や刀や兵車の類〈タグイ〉、これも、出陣の時は、いくつとなく数え切れぬほど立ちならんで、物々しく出てゆくが、いざ帰陣となれは、折れたり、壊れたりしたまま、戦場に取り残されるものが無数にある。その牛馬も、出てゆく時は肥え太っているが、帰る時には瘠せつかれて、中には死んでかえらないのも沢山ある。その間の道程は非常に遠くて、兵糧の継がないこともあって、そのため戦士のむなしく犬死にする者も無数にある。また、餓死しない者でも、住居の不安から、飲食の不時から、飢飽〈キホウ〉の不定から、戦争なかばで、病死する兵士も沢山ある。こんなふうで、あるいは大部分の兵を失い、あるいは全軍を滅ぼしてしまうことがたびたびで、したがって、わが子孫を絶やした鬼神〔霊〕が、新たに祭主をなくして宙に迷うものも沢山にできてくる。
国家が政令を発して下を治めながら、かくの如く民用を妨げ、民利を奪って顧みないのは、何のためであろう。彼らはいう、我はこの犠牲によって、あくまで戦勝の名誉を誇り、その利益を収めようと思うと。墨子はこれに対していう。そうはいうけれども、実際、その戦勝の名誉は何の用もなさず、また獲得した所を計ってみるに、かえって、その損失に及ばない。いま外廊【そとまわり】一里四方ばかりの小城を攻めるのに、武器もいらず、兵士も殺さずしてすむならよいが、多ければ何万、少なくとも何千という兵隊を殺さなければ攻め取れないとしたらどうであろう。万乗の国で、千を以て数うるほどの城があって、人口はこれを満たすに足らず、万を以て数うるほどの土地があっても、開懇し切れない。言いかえてみると、土地はあまるほどあって、人民は足らないのであるから、先のように、土地のみに頭を悩まし、士民を片っぱしから殺して、城廓を争うのは、つまり、足らないものを粗末にして、すでにあまるほどあるところを、貴いものに思う顛倒したやり方で、このような政治は、国家の務めを誤ったものである。【以下略】
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また、「君子は礼楽を重んず」の音楽を重視する儒家に対し、勤労を重視する墨家は音楽は怠惰を招くものとして非難したと昔、「日立 ふしぎ発見」でやっていました。