礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

昭和初年における文検受験小学校教員の生活

2016-02-01 02:19:36 | コラムと名言

◎昭和初年における文検受験小学校教員の生活

 本日は、『一ケ年必勝 文検修身科の指導』(日本教育学会、一九三一)という本を紹介してみたい。この本は、「文検」を受験する人に向けた受験参考書である。「文検」というのは、「文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験」の略で、要するに、かつて実施されていた中等教員免許の教員検定試験である。
 この本は、その「文検」のうち、「修身科」の学科で受験する人に向けて書かれている。読者はきわめて限定されているわけだが、にもかかわらず、これは、今日、誰が読んでも(たぶん)、面白く読める本である。
 本日は、同書の第一篇「序論」の第二章「研究法の大要」の第二節「受験の生活」の全文を紹介してみよう(二六~二九ページ)。

 第二 受験の生活
 筆者は前章〔第一章「文検の真相暴露」〕に於て、受験の生活は奮闘の生活だと言つた事を記憶してゐる。そして又文検は山葵漬〈ワサビヅケ〉の味だとも結論した。此の種の筆者の立言が空言でなかつた事は文検を出て今日成功してゐる先輩諸先生の過去に於て十分立証されたと思ふ。此の奮闘こそ受験法の第一要訣である。荊棘〈ケイキョク〉をかき分けて進むだけの気慨を有しない人には権道〈ケンドウ〉〔「正道」の対語〕を進む権利はない。奮闘の生活忍苦の生活に堪ヘ得ない人であつたら最初から文検等に志す権利はない。筆者は前章に於て文検は万人の為に平等に開放せられたる門戸であると言つて置いたが、茲〈ココ〉に至つて其の立論を改正しなくてはならなくなつて来た。
「文検は忍苦に堪へ得る人にのみ特に開放せられたる門戸也」と。
 読者諸君は恐らく筆者と同様小学校に籍を置いて居られる方々であらう。本職の方を放置して受験準備に没頭出来るとしたら、文検に対して或はこうした制限をしないですんだかも知れぬが、仮初〈カリソメ〉にも自〔ら〕教育家として、幾十人かの児童の責任を担うつてゐる者が、文検受験の為に本職を蔑〈ナイガシロ〉にしたといはれては大なる恥辱である。稲毛氏は「学校の方には一日の欠席もしないで受験準備をした」といつて居られる。これであつて初めて合格其のものに意義を持つてくるのである。文検は一枚の免許状に意義があるのではない。受験の生活其のものに意義を持つのだ。勿論受験準傭に費す時間を学校の帳簿作りにでも費やさうものなら、視学さんが来た時にはどれ程立派な帳簿が出来てゐるかも知れない。然しこれが真の教育であるかどうかも考へて見なければならぬ。世の所謂優良教員が如何に「生ける屍〈シカバネ〉」の如き生活をして居るかも一考の心要があらう。文検に志す者はこうした死せる時間を生かして文検的に統一して行かなければならない。そこに忍苦があり奮闘が伴ふのである。筆者は左に筆者自身の受験生活を物話らして貰はう。
   ×     ×     ×
 筆者は大正十五年〔一九二六〕師範学校を卒業し、五ケ月に亘る軍隊生活を終り、其年九月に郷里天草なる或片田舎の学校に赴任したのである。最初は所謂「ビー、アムビーシャス」と言つた訳で大きな夢を描きつゝ、「我輩は夢を食ふ獏〈バク〉だ。唯それだけでよろしい」等柄〈ガラ〉にもない事を言つて居つたのであるが、段々教員をしてゐる中〈ウチ〉に、心も落ちつき、教育界の事も薄々分る様になり、それに恩師某先生のすゝめもあつて文検に志したものが卒業の二年目。其頃筆者の職を奉じてゐた学校は学級七、村長が某政党を牛耳つてゐる有力なる県会議員と言ふので、職員組織もよく島でも相当の成績を示してゐる小学校であつた。筆者は其の学校に尋常五年の担任として教育科の受験を試みたのであるが、合格してみれば先づ優良訓導(?)といふ所で、主席訓導の椅子に据ゑられてしまつた。若年の主席訓導といふので特に事務上の事は校長と次席の訓導がやつて居たので、其の点大いに助かつた訳だが、それにしても地方小学校といへば一村文化の中心、修身科受験の時の肩書は先づ次の様であつた。高等一二年複式学級担任、主席訓導、農業公民学校助教諭、青年訓練所指導員、青年団理事、処女会顧問、訓練主任、修身読方綴方教科担任等々々。勿論此の中には肩書ばかりでさして厄介でないものもないではないが、是れだけの肩書の持主だつたら時間の余裕のない事だけは誰にも想像出来るであらう。先づ高等一二年担任と言へば教科一つを考へて見ても相当の研究なくて教授出来るものは失礼の様であるが、読者諸君の中にもそう多くはあるまい。然もそれが男女合併複式と来てゐる。農業公民学校助教諭といふ辞令は中々御目出度い様であるが、実は是程厄介なものはあるまい。といふのは外〈ホカ〉でもないが、我々小学校教師にとつて恵まれた時間といへば、それは夜間と休日とである、其の休日といふのが中々あてになるものでない事は読者諸君直接経験する所であらう。して見れば残された時間といへば夜間の数時間にすぎない。此の尊い夜の時間を蝕むものは何か? 言ふまでもなくそれは農業公民学校助教諭の辞令であり、青年団理事の肩書である。筆者はこうした余裕に恵まれない他位にありながら、少くなくとも人並の学級経営をしながら受験の奮闘生活を続けたのである。筆者自身これが児童等に対するよりよき教師であるとの深い自信の下に、余り自分の事のみ語る事はどうかと考へるが、筆者が其の村に於ける四 ケ年間の生活を結んで現在の学校に転任して来た時は、児童父兄は心から惜んでくれた。別れの前夜の如き村有志主催の送別会に招かれて行つた後下宿には幾十人の児童及父兄が押しかけて来てくれた程であつた。筆者は其の夜深更に至るまで、彼等と共に語り、狭き一室に丸くなつて一夜を明かしたのであるが、教育者としてこれ程感激に満ちた一夜が又とあり得るであらうかと思つてゐる。今だに彼等からは感激に満ちた手紙を貰つてゐる。筆者自身当時の教育的足跡に関しては将来に於て多大の期待を持つてゐるものである。筆者は敢ていふ。
「教育は事務でなく、生きたる事実である。教師の奮闘的生活こそ児童に対して真に導きの星である。――此の意味に於て伸びつゝある者のみに教ふる権利あり。」と。

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