礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

重光葵外相、独ソ戦の調停を試みる(1943)

2015-09-22 03:04:55 | コラムと名言

◎重光葵外相、独ソ戦の調停を試みる(1943)

 一昨日に続き、大屋久寿雄著『終戦の前夜――秘められたる和平工作の諸段階』(時事通信社、一九四五年一二月)を紹介してみよう。
 この本(パンフレット)でいう「和平工作」とは、「対ソ工作」の意味している。本日は、「東条内閣の対ソ工作」の節から、その一部を紹介してみよう。

 当時「輝かしき大戦果」の一つとして国民に告げ知らされたミツドウエー海戦の真相が、実は帝国海軍にとつていかに致命的な大失敗であつたかは今日既に明瞭である。また昭和十八年〔一九四三〕二月九日、帝国議会第八十一通常議会の衆議院予算総会の席上、陸軍省軍務局長佐藤賢了少将の口から「南太平洋方面の我陸軍諸部隊は各要戦戦略の設定を完了したので、ブナ、ガダルカナルの諸島から他へ転進した」云々と堂々国民代表の前に発表きれたその「転進」の内容が「いかに惨めな殲滅〈センメツ〉的打撃の後の見る影もなき敗北的脱出でしかなかつたかも、今日、これまた蔽ふ〈オオウ〉ところなき事実となつてゐる。
 太平洋戦局の上に齎らされた〈モタラサレタ〉かうした重大な変化、即ちわが進攻・攻撃力の逓減〈テイゲン〉と敵の反撃力の全面的展開とは、当時の東条内閣によつてどんな風に判断されたか。
 一方、欧州戦局にあつては、華々しかつたドイツ軍のコーカサス作戦は、一九四三年(昭和十八年)一月末、遂にかの有名な「スターリングラードの悲劇」となつて終り、同じく一時華々しい快速進撃を続けた北阿〔北アフリカ〕攻略のロメル軍は、これまた同年一月末トリポリを撒収して北阿からの総敗退を開始し、かくて、彼此〈カレコレ〉相俟つて独・伊軍はここにその全面的戦線崩壊の第一歩を踏み出したのであつたが、当時の東条内閣はかかる世界戦局の推移をどう判断したのであつたか。
 東条内閣は明かに「戦勢我に非」と見たのであつた。しかし、勿論いまだ望みなしとは考へなかつた。ただ、太平洋・欧洲の両戦線におげる枢軸軍戦勢の一斉後退が、わが与国、即ち中華民国南京政府その他の大東亜諸民族に及ぼすべき重大な悪影響に対する措置の如何〈イカン〉により、その結果はまさに決定的なものとなり得るだらうといふ点については、これをより強く認識したのである。
 昭和十八年一月以降、日・華同盟条約の締結に伴ふ対華新政策の策定、泰国〔タイ国〕に対する領土の割譲、スバス・チヤンドラ・ボーズ氏の自由印度運動絶対支援、ビルマ、フイリピンへの独立賦与〈フヨ〉、大東亜会議の開催等、これら一連の政治攻勢は、明瞭に右の認識に基いて打たれたいはば逆手であつた。武力の面で漸次失はれんとしつつある帝国の威信を政治の面で補ひ、もつて後図〈コウト〉を策せんとする積極性を、それは内蔵してゐたのである。
 これらの事実について、その一々を実証してゐる余裕はないから、ここでは単に結論だけを記すに止めるが、当時洋の東西に亘つて悪化の一途を急激に辿り始めた枢軸側の戦局に対処する政治的方策の一つとして、東条内閣が打つたこれら一連の布石の中でも、今次の戦争それ自体の運命と、当時にあつてはなほ些か間接ではあつたが、既に相当不可分の関係を有したものとして、われわれが今日見逃すことのできないものに、昭和十八年九月、東条内閣重光外相の手で企てられた独ソ戦に対する居中〈キョチュウ〉調停申入れといふ一件がある。【以下、次回】

 東条内閣の重光葵〈シゲミツ・マモル〉外相が、一九四三年(昭和一八)九月に、「独・ソ戦争」の調停申入れをおこなったことは、今次の戦争の「運命」と不可分の関係を有するものだった。ただし、その当時にあっては、その関係はなお、「間接」的なものでしかなかった。――大屋久寿雄は、このように言おうとしているようだ。
「居中」とは、間に入っての意。ここでは、ドイツとソ連の間に入って、という意味である。

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