礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

中田整一氏の新刊『ドクター・ハック』(平凡社)

2015-02-17 06:59:43 | コラムと名言

◎中田整一氏の新刊『ドクター・ハック』(平凡社)

 中田整一氏の新刊『ドクター・ハック』(平凡社、二〇一五年一月)を読んだ。文字通り、一気に読んだ。視覚に訴える文体、スリリングな展開、適度な頻度であらわれる写真。これらが、この本を読みやすく、興味深いものにしている。
「ドクター・ハック」というのは、ドイツ人・フリードリッヒ・ハック経済学博士(一八八七~一九四九)の通称である。同書を読むまで、この人物のことを全く知らなかったが、ウィキペディアなどには、比較的、詳しい紹介があることを、あとで知った。
 一九一〇年(明治四三)に、フライブルク大学で経済学の博士号を取得したハックは、一九一二年(明治四五)に南満州鉄道株式会社(いわゆる「満鉄」)の興亜経済調査局(これは東京にあった)に就職した。一九一四年(大正三年)に始まった第一次大戦では、青島〈チンタオ〉要塞の司令官であるワルデック海軍総督の秘書官兼通訳官として従軍するが、同年一一月に捕虜となって、福岡に連行された。
 このように日本との関わりが深かったドクター・ハックであるが、その後、日本の運命と深く関わることになった。この本のサブタイトルは、「日本の運命を二度にぎった男」となっている。一度目は、日独防共協定のための根回し(日独防共協定締結は、一九三六年一一月二五日)、二度目は、スイスを舞台とした日米和平交渉の仲介(一九四五年四月および七月)を指していると思われる。
 日独防共協定の締結に関して、彼は重要な役割を担った。このことは、一九三七年(昭和一二)二月に、日独防共協定締結の功労者として、日本政府から叙勲されている事実によって明らかである。確かに彼は、このとき一度、日本の運命を握ったのである。
 しかし、一九四五年(昭和二〇)に、ハックがおこなった終戦工作は、残念ながら実現しなかった。もしこの終戦工作が実現していたとしたら、日本に二発の原爆が落とされることはなかったであろう。すなわち二度目に関しては、彼は、日本の運命を「握りそこなった」のである。
 世に、「一読三嘆」という言葉がある。本書を読んだ私は、まさに「三嘆」させられた。それだけ、インパクトがあったということであり、それだけ考えさせられたということである。
 本書を読んでの感想は、何とも錯綜したものであった。しかし、読了後、何週間かを経て、ようやく、次のような教訓を導き出すことができた。
 本書から得られた教訓を一言でまとめれば、「政治・外交・軍事の世界においては、少数の人間によってなされた決断あるいは不決断が、取り返しのつかない人的・物的損耗を招く」ということになるか。これは要するに、戦中の日本には、正確な情報(インテリジェンス)に基づいて、適切な状況判断をおこない、正しい決断を下しうるような政治家、外交官、軍人がいなかったということである。正確な情報に基づいて、適切な状況判断ができたような政治家、外交官、軍人が全くいなかったとは言わない。多少はいたはずだが、機構の壁、人脈の壁、「空気」の壁などに阻まれ、「正しい決断」に結びつかなかったということなのであろう。【この話、続く】

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