礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

写真集『雪国の民俗』に関わった人々

2014-11-10 04:11:48 | コラムと名言

◎写真集『雪国の民俗』に関わった人々

 昨日の続きである。『雪国の民俗』(養徳社、一九四四)にある「あとがき」(三木茂執筆)を紹介している。本日は、その後半。
 昨日、紹介した部分に続けて、改行した上で、以下のようにある。なお、誤植および脱字と思われる部分は補訂してある。

 当時、たまたま渋沢敬三氏の主宰される日本常民文化研究所(旧称アチツク・ミユーゼアム)から発行された吉田三郎氏著「男鹿寒風山麓農民手記」「男鹿寒風山麓農民日録」の二冊の本を私は見出し、前記の映画「土に生きる」の製作の直接の動機を得、この本がその副産物となつて生れたのである。
 かういふ風に私の計画は、すべて写真を中心としたもので、映画としての出来上りや、この本の出来上りは別として、出来るだけ学問的な背景を持つことが必要であると考へ、著者の吉田三郎氏や柳田〔國男〕先生、民間伝承の会の橋浦泰雄氏から色々な御教示を頂き、南秋田地方の民俗研究では最も熱心な一人である奈良環之助〈タマノスケ〉氏に紹介され、撮影中は奈良氏の熱意こもつた御指導を仰ぎ、前記の方々からたびたび激励を頂いて、自分も自分の写した写真から逆にかず知れない多くのものを学んだ。【中略】
 今日わが大日本帝国は、光輝ある三千年の歴史を賭し、米英撃滅に一切をあげて戦つてゐる秋〈トキ〉、農民も亦銃後にあつて食糧増産の戦ひに挺身してゐるのである。
 今こそ日本農民は父祖伝来の血を湧きたたせ、一粒の米、一個の芋をも、国家に供して土に生きる決意を漲らせ〈ミナギラセ〉、父祖から受け継いだ農に誇りをもつてゐるのである。
 私は過去に愛着を持つ意味では決してないが、文章では保存し難い諸行事、衣食住の様子を、写真と云ふ形で残しておくことが一番よい、と考へて、この本を世に送る気持になり、さういふ意味では私の仕事も決して無駄ではないやうに思つたからである。
 秋田では幸に私の考へに充分な理解を示され、予期しない方々からも沢山の便宜を与へられたことは幸せであつた。
 ことに私のさういつた仕事が、柳田先生や奈良環之助氏の激勘や御指導によつて出来たものであると思ふと心からお礼を申しあげなくてはならない。
 そこで、この本も柳田先生と共著のやうな形式で出版されたが、これはどう考へても私にとつて分にすぎたことである。
 私は自分の言葉ではいひあらはせない感謝の念をもつて、先生の寛大な雅量を敬慕申しあげ、生涯の光栄として、先生の御名前の傍に自分の名前を並べさせて頂くことにした。
 それに、この本の構成編輯と云ふ名目で村治夫〈ムラ・ハルオ〉氏の名前がでてゐるが、村氏には構成編輯と云ふ仕事以上に、出版一切の面倒を見て頂いたことは御礼の言葉もない位である。
 村氏は私の東宝文化映画時代から面倒を見てくれた人で、映画「土に生きる」の製作責任者でもあるので、この本の為めには恩人である。
 また東宝映画の主脳部に対しても、この冒険に近い文化的な仕事に莫大な経費をかけ、一年と云ふ長い日数を費して、私に製作を許して下さつた英断に対して、ただ感謝の念あるのみである。この機会に東宝映画の主脳部に改めて敬意を表する次第である。
 装幀の勝平得之〈カツヒラ・トクシ〉氏は秋田の郷土版画家で、たいていの作家が都会地に住んでゐるのに、勝平氏だけは秋田と云ふ飛びはなれたところから文展〈ブンテン〉〔文部省美術展覧会〕などへ出品してゐる本当の意昧の郷土作家である。私とは撮影中よくお目にかかつて、この本では是非勝平さんに装幀を御願ひすることにした。この書の美しい装幀を勝平氏に御礼申し上げる。
 また甲鳥書林主の矢倉氏には、出版を遅れさせて、まことに申訳けがなかつた。本来ならば本書はもつと早く世に出るべき本であつたが、大東亜戦争勃発と同時に私も陸軍報道班員として南方に従軍してしまつたり、帰つてきてからでも私たちの勝手な我侭から今日まで延び延びにさせてしまつて御詑びの仕様もない位であるが、良心的にやらせて頂いたことは深く感謝してゐる次第である。
 最後に、私は今後も民俗学の方向に勉強し、その方面でも自分の技術を開拓してゆきたくも思つてゐるので、この上ともに、皆様の御教示を御願ひする次第である。
 昭和十八年十二月   三木 茂

 この本は、基本的に三木茂の写真集であり、自身がそれに民俗学的な解説を加えたものである。しかし、上に記されているように、この本は、それが企画されるまでの段階で、すでに多くの人が関わり、その編集・制作の過程では、さらに多くの人が関わっている。このことが、「刊行遅延」の要因となったであろうことは、十分に推察できる。
 なお、この文章によれば、記録映画『土に生きる』は、「東宝文化映画」(東宝文化映画部)の作品だったという。しかし今日、この映画は、日本映画社の作品として知られている(ウィキペディア)。東宝文化映画部によって制作されはじめたものの、完成時あるいは公開時には、日本映画社という新組織の作品という形になったのだろうか。もちろん、これは臆測である。

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