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 認知症親族の監督責任判決: 監督責任ありと見做される環境とは? 家族愛/と扶養義務

2016-03-01 22:58:50 | 時評
* 認知症男性JR事故死 家族側が逆転勝訴 最高裁 http://mainichi.jp/articles/20160301/k00/00e/040/236000c?fm=mnm
・ 本日の最高裁判決は、親族がどこまで監督をはたそうとしていたか、また、それが家庭事情の所為で果たすことが難しい場合は監督責任を何処まで問うのか? 
  との観点から、「親族/肉親だから究極的な責任は飽くまで負う必要がある」との論点を否定した。 一律に監督責任を問うことは実際的ではないとの判断である。
ケースバイケースで判断せざるを得ないということだ。 ⇒ この判断は現実的且つ常識的ではあるが、かといって私はもろ手を上げて称え、沈黙するわけにいかない。 何故か?

 ここには、いわゆる社会良識/常識として、子は老いた親の面倒をみるのは問答無用の善であり、道徳であるとの価値観が聳え立っている。親が子を養い、虐待等ないがしろに扱わないのが当然である、との倫理観とペアになっている。つまり、育児扶養義務と対になった観念として、両親扶養/介護も子の義務であると。 これが人情に発する規範であることは十分理解できるし、JRの賠償請求は此の規範を前提にした。 然るに、今日の最高裁判決は、此の規範そのものの当否は問わずに、ケースバイケースで規範通りに行かない場合も世の中には在るとした。 これは、少なくとも法律の世界では、伝統的絶対善とされてきた規範によりかかる賠償請求でも、必ずしも全能ではないと宣言したものだ。
 この判決が社会に齎(もたら)すものとは 一体なんだろう? 

 恐らく、老いた親の介護を全うしづらい経済/家族環境に追い込まれている子供にとって、或は、それでも持ちうる能力をフルに使って来た子供にとっては朗報だが、 裁判でそう見做されない子供/親族には、此の伝統的倫理の強制としか映らない。仮に、其の子供が伝統的価値観に賛同しない場合、思想の自由までが侵される危険もある。 
 
 卑近な例で言おう。 高齢ドライバーの逆走事故だ。認知症で逆走した高齢者が他者を巻き込む死傷事故を起こした場合、車を持ち出された家族の監督責任は問われるのだろうか? JRの電車を止めた被害と自動車事故の被害と。 ふらふらと自宅を出て踏切にでてしまった老人。 気が付かぬ間に車のキーを持ち出され運転させちまった老人。 
   その家族はどう向き合えばいいのだろう? 何が違うのだろう? そして、被害者は結局 泣き寝入りになるのか? それで良いのかな?
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