静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

書評 073-4  「西洋音楽史 ~副題:クラシックの黄昏~ 」  岡田 暁生(おかだ あけお)著   2005.5 刊   中公新書

2018-01-05 10:14:16 | 書評
                                     【2】 概 要 と 要 点  <4>
 バッハとベートーヴェンの精神的繋がりは不鮮明だが、ハイドン/モーッアルト、この二人とベートーベンの対比は分かりやすい。昨日も触れたが、哲学者カントによる
 『音楽はしょせん娯楽だ』との貶めはベートーベンにとり反面教師的警告となり、彼の作曲活動のエネルギーは、まさに此の二人の音楽から訣別したい一心であったように見える。
 別の言い方をするなら、中世このかた、ヴィヴァルディに始まりハイドン・モーッアルトまでの<パトロンの趣味・趣向に合わせた音の楽しみ>の提供で生きてゆく活動ではなく、
 <自分が込めたい思いを詰め込んだ曲想>を提示し、売り込み、評価を問う、それに生活を賭ける、そういう作家活動に100%徹した最初の作曲家がベートーヴェンだった、という
 違いである。

この違いは、芸術家個人の生き様の差異だけでなく、19世紀のヨーロッパが経験した社会激変の影響を視野に入れねば理解できない。即ち、フランス革命に発する伝統的王権と市民勢力のせめぎあいが本格化し、教会や王宮から裕福な新興ブルジョワ階級のサロンへ音楽が出て行き、そこでの作曲と演奏が作曲家の勝負の場になったことだ。 今では想像しにくいが、19世紀の作曲家は自作を自ら演奏するのが普通であった。これは18世紀以前も同じで、作曲家自身が人を魅了できる腕前を持っていた、ここが現在とは決定的に違う。(ヴィヴァルディ/バッハ/ハイドン/モーッアルト/ベートーベン)全て鍵盤/弦楽器の名手といわれていた。
 だから、王様/貴族の前だろうが新興ブルジョワ一家のサロンであろうが、作った曲を演奏してみせ、評価を問うのは死活問題といってもいいほど大事なパフォーマンスだった。
これと併せて19世紀の特徴として銘記すべきは、印刷技術の普及が譜面出版を新たなビジネスに押し上げ、同時にホールなどでの有料演奏会も商売になった一連の変化だ。やがて一回切りの演奏ではなく、繰り返しのパフォーマンスが求められ、素人用にも譜面が要るようになった。ブルジョワのお嬢様方が我も我もとチェンバロやピアノフォルテをサロンに置き、売れっ子の作曲家を招く。 こういった変化は「音楽のビジネス化」であり「大衆化」。 これらの変化がヨーロッパ音楽の一大分岐点となったことは、容易にお分かりいただけるだろう。

 「音楽の大衆化」で聴衆がマス(集団)になり、大きな劇場やホールでの大規模演奏会に堪えるべく、オーケストラは大音量を要求された。そこで楽器編成が増え、パート当たりの楽器数(=演奏者数)も増やさねばならない。ドラマチックな、大向こうを唸らせる曲の発表が加速し、狭い部屋の中で奏でられるソナタではなく、コンチェルトやシンフォニー、オペラが好まれるようになる。加えて、舞台映えするよう、とんでもない超絶技巧を楽々とこなしてみせる<ヴィルティオーゾ>が歓迎される。今の我々がいわゆるクラシック音楽の典型的作品と記憶する作品は、こういった「音楽の劇場化」の流れに生まれた大作が殆んどであろう。換言すれば、これらの変化と熱気こそ”ロマン派”と19世紀音楽が呼ばれる所以であり、時代精神としてのロマンシズムの体現でもあった。

 作曲家/演奏家の名前でいうなら、メンデルスゾーン/ワーグナー/ブラームス/チャイコフスキー/リヒャルト・シュトラウス/マーラーに代表される巨大オーケストラの動員であり、パガニーニ/ショパン/リスト/タンベルクらによる<ヴィルティオーゾ>作品だ。後者が「音楽学校」「独習者向け技術教則本」の商業化に結びついたことも大きい、と著者は指摘する。

 然し、やがて二極分化が始まった。劇場型パフォーマンスに進み、ドイツ文化圏で極まってゆくグループと、パリのサロンに集う一群のサロン音楽作曲家たちに分かれたのだ。前者は上に挙げた人々であり、19世紀末のシベリウス/ラフマニノフ、20世紀には一連のソヴィエト作曲家たちが連なる。後者は、フォーレ/ドビュッシー/ラヴェル/マスネ/フランク/ヨハンシュトラウスなどだ。 この分化、すなわちヨーロッパ音楽の≪芸術vs娯楽≫対立が19世紀の間に発生し、世紀末には深まりゆく。遂に両派とも作曲家自身がヨーロッパ音楽の限界を意識し始め、此の対立は次の二極分化を生んだ。
 ひとつはエキゾチズム+娯楽大衆化の方向であり、サティ/プーランク/ミヨーなど。これにアメリカのジャズが混入し、現在のポピュラーミュージックに至る。他方は、シェーンベルク/ストラビンスキーに代表される「無調音楽」の実験で、この19世紀末以降の分化/分裂が21世紀の今に至るまで続いている、これが著者の言う≪クラシックの黄昏≫だ。< つづく >
コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 書評 073-3  「西洋音楽史... | トップ | 書評 073-5止 「西洋音楽史... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

書評」カテゴリの最新記事