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≪ 午後の2題 ≫  「映画:オッペンハイマー」監督の意図   「オウム真理教指導者の遺髪」次女に引き渡し

2024-03-13 16:07:10 | トーク・ネットTalk Net
◆【NHK 国際ニュース】映画「オッペンハイマー」クリストファー・ノーラン監督に聞く:国際部記者 杉田沙智代)※インタビューは2月29日
  <映画は世界の公開から8か月ほど遅れて、3月29日から日本で公開されます>
*「「オッペンハイマーは生涯を通して複雑な感情や思考と向き合いました。映画で見せたかった重要なことは、世界中で核兵器が解き放たれることで多くの“負”をもたらすと彼が見抜いていたことです。
  自分の仕事がもたらす“負”の結果も承知の上で、それでも、矛盾した現実に直面し、あのような道を進まなければならなかったという、彼のジレンマに観客を巻き込もうとしました
 「映画の結末は、人々を絶望させるものです。それは物語に必要なことでした。しかし、現実の世界では、1945年以来、多くの個人や団体が、核兵器の数を減らそうと尽力し、大きな成功を収めてきました。
  ところが、ここ数年、間違った方向に向かっています」

* 日本人として、映画を見て気になったのは、広島や長崎の直接的な被害が描かれていないことです。なぜなのか。ノーラン監督は、去年ニューヨークで行われた試写会で次のように述べています。
 「オッペンハイマーの経験から逸脱することはしたくありませんでした。オッペンハイマー自身、広島と長崎への原爆投下についてラジオで知ったのです。それを知った時、私自身もショックでした」
 アメリカではオッペンハイマーは「原爆の父」とたたえられ、日本への原爆投下が日米双方の犠牲者を少なくしたと考える人も少なくありません。
 監督は今回のインタビューの中で「どう考えるべきかを観客に押しつける映画は、成功とは言えない」と話していました。映画を見てそれぞれに考え、議論していくことを監督は望んでいるのではないかと思います。
  ⇒ アメリカ国籍を有する人、そして日本国籍を有する人。それぞれが、ノーラン監督の意図をどこまで偏見なしに捉えようとできるだろうか?

◆【毎日・夕刊】オウム松本智津夫元死刑囚の遺骨、次女へ引き渡し命令 東京地裁判決 【巽賢司】
・ 麻原元死刑囚の家族が元死刑囚の遺骨と遺髪の所有権を争った家事審判では、次女に所有権があるとする判断が21年7月に最高裁で確定した。だが次女は国が引き渡しに応じないとして、22年10月に提訴していた。
・ 次女側は訴訟で、次女は父の遺骨や遺髪を自ら管理して故人を悼もうという正当な権利を行使しようとしているだけだと主張。オウム真理教の後継団体とは関係を持っておらず、遺骨や遺髪を悪用したり、他の人に
  利用させたりする意思はないとし、引き渡しに伴う危険は抽象的なものだと訴えた。
・ これに対し国側は、遺骨や遺髪が国の厳重な管理を離れれば後継団体の信者間で争奪の対象になり、保管場所も聖地化される恐れがあると反論した。遺骨や遺髪をオウム真理教の後継団体に引き渡さないよう、
  次女に誓約を求めたが応じなかったとし、「危険に配慮した保管は次女におよそ期待できない」と請求棄却を求めていた。
  ⇒ Aleph(アレフ)が現存する限り、公安当局が懸念する妥当性は消えない。しかし何故、この次女は「渡さない」という誓約書にサインを拒むのか? 恐らく最高裁は東京地裁命令を覆すのではないか?
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ベトナム再訪記 <2>  ダナン 3/3

2024-03-13 10:58:51 | 時評
 ダナンの2日目、ミーソンやホイアンとは逆に南下してグエン(阮)王朝の首都だったフエ王宮跡を訪問。グエン王朝はベトナム最初の統一王朝(1802-1945)で支配領域は現在のベトナム社会主義共和国にほぼ等しい。国号を『越南』と称え清朝に朝貢したが、周辺諸国(ラオス・カンボジア・ビルマ)は属国扱いしたという。ハノイもホーチミンも自治を認められ(北城/嘉定城)総鎮が置かれたが、王宮と呼ぶにふさわしい宮殿は存在しない。御覧のように中華宮廷に倣う様式で、グエン朝期に創建されたハノイの文廟が科挙合格者顕彰の用途であった事からも隣国の影響力の強さがみてとれる。
 因みに、文廟はホーチミン廟・登龍と並び、小中学生の遠足指定3大スポットだ、とハノイのガイドが言っていた。儒教精神学習の為だろう。

 同王朝の歴史を紐解かれると良いが、アジアに進出する西欧列強への反発で鎖国政策を強めたグエン王朝は、統一時に力を借りたフランスとも険悪になる。然し、仏との戦いに敗北し、清仏戦争(1884-85)で清が越南の宗主権を放棄したことでベトナムは1887年フランスの植民地になった。・・・日清戦争が1995年、対越進駐は1940年。
            
 フエ王宮跡の次に訪れたのが『民族歴史博物館』と『ティェンム(Thien Mu)寺』。博物館で不思議だったのは、明や清との戦争逸話やモンゴル軍との戦いについての描写や絵画は展示しているのに、対仏戦争への言及がゼロ。何故なのか? 一方、ハノイ・ダナン・ホーチミンいずれの都市も田舎でさえも、英語表記はベトナム語と並列するが、漢字&仏語表記は見事に無い。
思うに、ベトナム人が心の底から赦していないのは漢民族とフランス人であり、僅か20年弱の相手だったアメリカは、中国へのバランス上も国際貿易&観光配慮からも許容せざるをえない?
                      
 右の写真から、1960年代以前に思春期を送った世代には生ナマしい記憶が蘇るだろう。1963年11月『ティェンム(Thien Mu)寺』の僧侶が中央のアメリカ製フォードに乗り、サイゴン(当時)の米国大使館前で
ガソリン焼身自殺を敢行した事件の展示である。後を追う焼身自殺は続き、当時のゴ・ジン・ジエム南越共和国大統領夫人が< 人間バーベキュー !! >と揶揄した時の衝撃は今も忘れられない。
  『ティェンム(Thien Mu)寺』訪問は、当時を記憶する世代の一人として、私の胸に深い傷を残した。                          < つづく >
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ベトナム再訪記 <2>  ダナン 2/3

2024-03-13 09:09:43 | 旅行
 まず、ダナンを拠点に昨日1/2はミーソン遺跡での所感を述べたが、同日午後から夜にかけてのホイアン(会安)ツアーを含めなかったので、正しくは1/3,今日は2/3 になると訂正致します。33はフエ宮殿ほか。

ホイアンは、豊臣政権後半から徳川幕府にかけての伴天連弾圧を逃れた日本人が東南アジア各地に散り作った『日本人町』のひとつ。シャム王国(=現タイ)に山田長政が作ったとされる日本人町、幕末から明治に
「からゆきさん」が多くシンガポールやフィリピンに渡った集落とともに広く知られる。唯、このホイアンだけが今に至るまで街並みを残しているのは驚異だ。尤も、1代で絶えてしまう習性が殆どの日本人の家屋は、そうではない福建人たちが移り住んだので残されたという側面を忘れるわけにはゆかない。ここはミーソンの10倍は軽~く超える観光客で大混雑!渋谷・新宿のラッシュアワーに同じ。
    
 左2枚の光景は旅行会社掲載のツアー案内に良く使われる角度だが、次の福建人寺に吊られていた螺旋の線香を私は初めて目にした。日本の寺にも同じ線香はあるのか? この線香、燃えカスが色々な方向に落ちるのは迷惑ながらも、それを有難がる信者もいるのだろうな、と。  右は「精霊流し」。旧暦正月後のしきたりらしい。まるで日本の御盆の夏祭りの華やぐ雰囲気そっくりで、ごったがえしていた。
 気のせいではなく、ハノイやミーソン遺跡を訪れる観光客に比べ、西洋人も日本人も圧倒的にホイアン訪問者が多い。それは次のフエ宮殿跡も同様だった。       < つづく >
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