静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

人生の終え方に美学は必要と思うか?    止まらぬ長寿で難しくなった「人生の店終い」

2024-01-21 19:57:19 | トーク・ネットTalk Net
◆ プロ・スポーツ、芸能人あるいはタレントと呼称される職業で生きて居る人達も平等に加齢し、老いる。誰一人「死」から逃れ得ぬように「老い」からフリーではない。
  ところが寿命が延びたことで、多くの人は時間感覚が横にズレてしまった。つまり「未だ若い」「若い筈だ」と思いたい年齢ゾーンが後ろにズレたということだ。
  自分が若かった頃には考えもしなかった70歳前、いや70を超えても、「やれる」「ファンもついてきてくれる」と無邪気に信じてしまい、パブリックの前に出る。
  その目でメディア出演者を観てごらんなさい。固有名詞は控えるが、見苦しく老醜をまき散らす「嘗てのスター」が如何にうじゃうじゃ居ることよ。

◇ 忘れてはいけないこと、それはファンも同時に加齢しているから当人と同じズレ感覚を同じペースで運んでいるから、高いチケットを買ってまで舞台に来てくれるのだ。
  全ては、長寿社会となった当たり前の笑えない帰結。笑えないどころか、滑稽であり、モノ悲しい。

▲ 「昔話を先に語るな」「話す前に若い人の言葉に耳を傾けよ」という教訓がある。だが、これは何もビジネスマネジメントの世界に限ったことではない。
  老人の繰り言を諫める昔ながらの教訓にあるのだが、人前に己を晒し芸能を売り、評価を糧にする生き方を選んだ者は一般人以上に「老いの自覚」を持たねばならない。
  何故なら、我々が嘗ての輝かしく美しいスターに抱いた憧れや満足の暖かい記憶をブチ壊している人が余りに多く、保っている人は奇跡でしかないからだ。
  ブチ壊してくれるたび、昔のファンが一瞬でも忘れたがった「老いの哀しみ」を浴びせている。 それがわからないのか?  もう出るな!と言われているのだよ。


◎ 「老醜」:これは誰もが認めたくない、受け入れたくない事実だが、何びとも逃げきれない。どこで「老いた醜さ」を認め、他人の目に晒さぬよう決心するか?
  「引き際を認める事」が「美」でありプライドなのか? 「他人が何と言おうと認めず頑張り続ける事」が「美」でありプライドなのか? 

🔲 残念だが、人は麗しい容貌を親から与えられ生まれるか、強い知能や体力を持ち合わせて世に現れるか。差が付くが、そこは変えようがない。生物の個体差なのだ。
  然し、人生の晩節を美しく生き・死ねるか?ここは親と何ら関係ない。当人の「人生美学」次第である。「老いかたの美」そのものを無視する人は論外だが・・・・。
コメント
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