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畑の宝と真珠と地引き網の譬(解説含む)

2016-05-29 21:02:28 | 日記
(参考 新約聖書 1954年改訳 日本聖書協会)
<マタイによる福音書第13章>
(13・44―52)畑の宝と真珠と地引き網の譬
(44)天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買うのである。
(45)また、天国は、良い真珠を探している商人のようなものである。
(46)高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買うのである。
(47)また天国は、海におろして、あらゆる種類の魚を囲みいれる網のようなものである。
(48)それがいっぱいになると、岸に引き上げ、そしてすわって、良いのを器に入れ、悪いのを外へ捨てるのである。
(49)世の終りにも、そのとおりになるであろう。すなわち、御使たちがきて、義人のうちから悪人をえり分け、
(50)そして炉の火に投げこむであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。
(51)あなたがたは、これらのことが皆わかったか」。彼らは「わかりました」と答えた。
(52)そこで、イエスは彼らに言われた、「それだから、天国のことを学んだ学者は、新しいものと古いものとを、その倉から取り出す一家の主人のようなものである」。

(参考 新約聖書略解 日本基督教団出版局)
・天国に関する三つの小さい譬を集めている。初めの二つの譬は天国は最上の宝であること、人はそれを得るためには喜んで犠牲を払うことを教え、その次の地引き網の譬は毒麦の譬と同じ主旨のものである。
・44 天国に関するイエスの豊かな想像力である。まず《畑に隠してある宝》のようなもの。だれが隠したかわからないが、畑を耕す百姓のくわの先で掘り出されて宝、天国とはそのようなものである。《隠しておき》人に奪われることを恐れてだれにも告げない。《喜びのあまり》天国が、どんなに望ましい宝であるかは、それを発見した人は喜びのあまり、《持ち物をみな売りはらい》あらゆる犠牲を払って、《その畑を買う》ほどである。
・45 前節では天国は偶然に発見されたものであったが、ここでは《良い真珠を捜している商人》が、《高価な真珠一個》を見つけたようなもので、いわば多年の望みがかなえられたようなものである。その時、真珠商人は世界のどこにもないたった一つの真珠を買うために全財産を投げ出す。しかも彼は満足である。商人が大利のため小利を捨てるようにしてでないと天国を所有することはできないであろう。《良い真珠》光沢も形も最上のもの。47~50節は地引き網によって天国を譬えているが、前の二つの譬とはその主旨が違い、悪の混入をゆるさないという天国の性格に関するものである。
・47 ここで、譬の舞台は《海》であるが天国が地引き網に譬えられている。それは網の一方を岸に固定して、もう一方を船につなぐ方法か、あるいは二そうの船で引くかして魚をとる。こうして網の中に《あらゆる種類の魚を囲み入れる》。あたかもそのように、天国は善人も悪人も、神を信じる者も、信じない者も、すべての者を一応はその中に入れる網に似ている。イエスはパリサイ人のように、人を人から区別し、完全な者のみを集めようと考えられなかった。
・48 しかし天国は無法無策のことではなく、神は適時にさばきたもうであろう。せっかく網の中にはいっても捨てられるものもあることを教えられた。《悪いのを》ユダヤ人は食べることのできる魚と、食べることのできない魚との規則をもっていた。
ただし天国はこのような規則でなく、イエスの言葉を受け入れるか、入れないかによって、《器に入れ》るか、《外へ捨てるか》が分れる。51、52節は天国の譬を聞いた弟子たちの反応について記してある。おそらく本書の記者の付言であろう。《天国のことを学んだ学者》イエスは弟子たちのことを「学者」(ラビ)と言っておられるが、律法の末節にとらわれて、その意味を学ばないラビのようではなく、「天国のことを学んだ」学者であり、その人は《新しいもの》イエスの新しい律法と《古いもの》旧約聖書の奥義とを、自由に自分の生活に生かす人のようなものである。

畑の宝と真珠と地引き網の譬

2016-05-28 20:26:08 | 日記
(参考 新約聖書 1954年改訳 日本聖書協会)
<マタイによる福音書第13章>
(13・44―52)畑の宝と真珠と地引き網の譬
(44)天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買うのである。
(45)また、天国は、良い真珠を探している商人のようなものである。
(46)高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買うのである。
(47)また天国は、海におろして、あらゆる種類の魚を囲みいれる網のようなものである。
(48)それがいっぱいになると、岸に引き上げ、そしてすわって、良いのを器に入れ、悪いのを外へ捨てるのである。
(49)世の終りにも、そのとおりになるであろう。すなわち、御使たちがきて、義人のうちから悪人をえり分け、
(50)そして炉の火に投げこむであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。
(51)あなたがたは、これらのことが皆わかったか」。彼らは「わかりました」と答えた。
(52)そこで、イエスは彼らに言われた、「それだから、天国のことを学んだ学者は、新しいものと古いものとを、その倉から取り出す一家の主人のようなものである」。

(参考 新約聖書略解 日本基督教団出版局)後に投稿

今日は進めることができた数学2

2016-05-27 22:32:28 | 日記
今日は
うちの近所でマンションの清掃をやった後、
早々と
喫茶店で数学2に取り組み、
力いっぱい数学的思考ができることを
心にかけた。
このようにすれば、
疲労した状態では回転しない脳であっても
よく働いて、
数学2の頁を
たくさん進めることができるのである。
まずは2頁、
できたらまた2頁とやっていったら、
満足できるところまで
すすめることができ、
安心して
家に帰れた。
夕方近くなっていた。


毒麦の譬の説明(解説含む)

2016-05-27 22:09:59 | 日記
(参考 新約聖書 1954年改訳 日本聖書協会)
<マタイによる福音書第13章>
(13・36―43)毒麦の譬の説明
(36)それからイエスは、群衆をあとに残して家にはいられた。すると弟子たちは、みもとにきて言った、「畑の毒麦の譬を説明してください」。
(37)イエスは答えて言われた、「良い種をまく者は、人の子である」。
(38)畑は世界である。良い種と言うのは御国の子たちで、毒麦は悪い者の子たちである。
(39)それをまいた敵は悪魔である。収穫とは世の終りのことで、刈る者は御使たちである。
(40)だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終りにもそのとおりになるであろう。
(41)人の子はその使たちをつかわし、つまずきとなるものと不法を行う者とを、ことごとく御国からとり集めて、
(42)炉の火に投げ入れさせるであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。
(43)そのとき、義人たちは彼らの父の御国で、太陽のように輝きわたるであろう。耳のある者は聞くがよい。

(参考 新約聖書略解 日本基督教団出版局)
・先に毒麦の話をされたが、その譬はかなり難解であったため、おそらく弟子の質問に答える形式にしてマタイが説明を付加したのではなかろうか。
・36 この説明は群衆にでなく、弟子たちにされた。
・37 ここで《良い種》は神の国の子、天国の世継ぎに選ばれている人の意味。神の国の子を世界の畑にまく農夫はイエスである。《人の子》8・20参照。
・38 《畑は世界》マタイにとり、また教会にとって宣教の畑は全世界である。《悪い者の子》悪魔の子。イエスはわれらの先祖にアブラハムがあると言って、自分の肉を誇っているユダヤ人を、悪魔の子と呼ばれたことがある。
・39 《世の終り》この言葉は本書の最後にも出てくるが、マタイの愛用の言葉である。この終わりは神の新しい支配の始まりである。《御使》良い種をまくのは人の子であり、毒麦をまくのは悪魔であり、その両方を刈るのは御使である。「御使」は神のみちびき、守りを人に伝えるとともに、神の怒りと刑罰をも伝える神と人間との仲保者として登場している。
・41 39節では御使が刑罰の執行者であると記されているが、彼らをつかわしているのは人の子であって、イエスが世の終わりの審判者であるという表現の仕方はユダヤの黙示文学にならったものである。《御国から》これを人の子の国と解して、43節の《父の御国》と区別して考えると、終わりに、まずキリストの国が建てられ、そののち、キリストはその国をことごとく父なる神にゆだねるとき、そこに神の国が建てられるということになる。
・42 罪人の運命についてユダヤの黙示文学が用いている言葉を借りている。
・43 《太陽のように輝きわたる》御子キリストの光を反射することによって輝きわたるものとなるであろう。

難しい数学2

2016-05-26 23:01:23 | 日記
私は高校2年生の男の生徒に
自宅で英語と数学を教えていて
高校数学を
教えるために私自身が勉強している。
たった今も数学2を生徒のために勉強しているところだが、
正直難しい。
ただ私が勉強するから
彼がどんどん自主学習するのである。
ただ英語の方は、
昔からのキャリアで
私の方が綜合的にずっとできるから、
数学は駄目でも
教えることに疑問はない。
また私の指導は
金銭目的ではないから、
彼ができるようになれば
それでよいのだ。
成績は
彼が中学生のときの平均3弱から
現在平均4になってきている。
つまり彼はうちへ来ているから、
全体的な学習意欲が出ている。
とはいえ
私の方が数学2にてこずることには、
私が屈辱を感ずるのは事実だ。